第7話

正月も七草が過ぎた。飾り付けも出来ない寂しい正月だった。

 宗吉はまだ戻らない。今日こけしの検分があって、昼過ぎから角政の店に呼ばれていった。

 お雪は繕いものの手を休めて耳を傾けた。雪にこもった音で、大統寺の鐘が鳴っている。五つだった。立って縁側の戸を引き、外を見た。月が青白く雲の上を照らして、黒い犬が一匹、急ぐでもなく道を横切った。お雪は胸を抱いて炉端に戻ると、また繕い物に手を戻した。

 やがて、戸の外に物音がし、宗吉の声がした。いそいで土間に下り、戸を開けたお雪の足元に、宗吉が這うようにのめり込んだ。強い酒と香と血の匂いが、お雪の胸を轟かした。

 やっとの思いでお茶の間まで引きずって上げたが、宗吉は青ざめた顔を仰向けたまま、断れぎれに呻き声を洩らすばかりなのだ。手ぬぐいを絞って、顔や手足に流れる血を拭いた。その間にもお雪は、いつの間にか低い泣き声を立てていた。

 この時、真っ青な顔をした宗吉が、ギロリと眼を開いて、

 「アオハダのこけしに、ひびが入った」

 と呟いた。そして、また大きく呻いて、眼を閉じてしまった。青ざめた眼の回りに隈が出来て死人のような顔になった。お雪は、食いしばった歯の間から泣き声を洩らしながら、宗吉の胸を開いて耳を当てた。微かに鼓動が鳴っている。

 「兄ちゃん、死んじゃいやだよ。あたし、一人ぼっちになっちゃうよ」

 お雪は宗吉の身体を揺すりながら、狂ったように泣き喚いた。


 宗吉は眼を覚ました。煤けた縁側の障子に、青白い朝の光が当たっていたが、家の中はまだ薄暗かった。

 起き上がろうとして、思わず呻き声を立てた。腕も肩も、背中まで痛んだ。それで、ゆうべのことを思い出した。

 新井の屋敷から戻ってきた叔父に、いきなり怒鳴られた。宗吉のこけしは、胸に一筋のひびが入っていたのだ。侍なら切腹ものだ、と言って、柔和な新井が叱ったという。そう言ってから、市五郎と宗吉、秋田屋の喜三郎の三人が残ったから、しっかりやれと角政は声を和らげて言ったのだ。

 恥ずかしさに、宗吉は身体がすくんだ。職人の誇りに、ひびが入ったと思った。アオハダの欠点は知っていた。しかし、高をくくっていたのだ。そんな自分の甘さ加減が許せなかった。

 ものも言わずに飛び出してお咲の店に行ってたが、市五郎がきていた。残った三人のうちで筆頭に誉げられたという高ぶりが顔に出ているのを見て、また血がのぼせ上がった。浴びるように酒を呑み、冷たい素振りのお咲にからんで、止めに入った市五郎を殴った。それから取っ組み合いになり、外の男たちとも殴り合いになったようだ。その後が記憶になかった。

 宗吉は痛む身体を起こして、布団の上にあぐらをかくと眼を見張った。布団の外に、お雪が帯も解かないで、死んだもののように眠っていた。囲炉裏の中に、まだチロチロ炭火が燃えているのは、お雪がついさっきまで眠らないで起きていた証拠だった。宗吉は凝然と、お雪の寝姿を見つめた、とうとうこの娘と二人だけ残されたのだ、という感慨が胸をしめつけた。

 横向きに、宗吉はお雪の寝顔をのぞいた。微かに酒の匂いが残っていた。横になってるお雪を初めてみたように思った。

 横向きに、宗吉の方に向けた顔が青白い。そして肩から胴にかけて、滑らかに落ちるくびれ、そのくびれが、また立ち上がる円い腰の盛り上がり、宗吉は、そんなお雪を初めてみたように思った。宗吉はお雪の寝顔をのぞいた。微かな寝息が洩れている。そして、まつげの長い眼尻から白い涙の痕が幾筋も乾いているのは、ゆうで、この娘は心細さに泣いただろう。宗吉の胸を、静かな感動が満たした。

 呼ぶと、お雪はとび上がるように跳ね起きた。そしてキチンと座って襟をかきあわせると、ニコニコ笑っていった。

 「兄ちゃん、生きていたの」

 「ああ」

 「よかった。死ぬのかと思ったわ」

 「お雪、ちょっと立ってみろ」

 と宗吉は優しく言った。怪訝な面持ちで、お雪が立ち上がる。あぐらをかいたままで宗吉は眼を閉じ、手を伸ばしてお雪の方に触った。着物の下にある円い肉付き。肩から胸に指を滑らせる。形よく張った胸の膨らみが、そこに息づいていた。

 「くすぐったい」

 お雪が、なまめかしい声で言い、身を揉んだ。

 「黙って立っていろ」

 「あい」

 柔らかな、さっき寝姿にみた胴のくびれが続いて、そして宗吉が予想もしていなかった、力強い腰にふくらんでいく身体の線。その時、宗吉の頭の中で、一ツの小さな、それでいて、眼も眩むばかりに輝く考えが芽生えた。宗吉はお雪の身体に手を触れたまま、凝然と眼を閉じていたが、静かに座り直して膝を揃えると、低く言った。

 「お雪、着ているものを脱いでくれ」

 短い沈黙があった。そして、ほどけた帯が下に落ちる音、やさしい衣ずれの音がそれに続いた。唇を強く結んで、眼を閉じたまま、宗吉の静かさに差し伸べる指が、匂う女体を確かめる。丸く滑らかの肩、それに豊かに張った胸、そして誇らしげな二つの柔らかい隆起まで、穏やかになだれて行く。その線の高まりは、一度美しくくびれた胴の中に埋没するのだ。だがそれは、終わりではなく休息だった。線は再び立ち上がり、力強い腰の膨らみを盛り上げる。

 宗吉の眼の奥に、一体のこけしが立っていた。円い頭部、胴は上下から美しい曲線が走り、中央で出会う形になった。すると、胴は周囲に目眩の反りをめぐらせた、簡素で優雅な姿態を明らかにするのだった。肌は白く、墨を細く使った眼は瞳をもたない一筆描きだ。

 その眼の微かな、あるかなしの微笑。紅は白い肌に僅かに点じられる。どこまでも続く白い雪の野。その雪の野を分ける細く黒い一筋の道。くるりと振り返って、旅姿の清次郎が笑った。

 まるく、しなやかな太ももで指を滑らせてきて、宗吉は静かに眼を開いた。

 そこに羞恥に頬をそめて、一人の女が立っていた。明け方のおぼろな光の中に、しなやかに伸びた身体が、ほのかに浮かび上がっている。いきいきときらめく眼。血の色を染めた紅い唇、形よい鼻。お雪もまた、この朝、もう一度生まれたのだろうか。

 「新しいこけしが生まれる。もう誰にも負けないすばらしいものだ。それが出来上がったら・・・・・・」

 宗吉は優しく眼を挙げた。

 「叔父さんに頼んで、夫婦になろう」

 お雪の匂う身体が、花のように宗吉の胸の中に崩れた。昔、そうしたように宗吉は、胸の中にお雪を抱きしめた。

 戸の外に、チ、チとみそさざいが啼いた。バラ色の朝の光が、山や、雪の野を染めはじめたようだった。

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木地師宗吉 @kounosu01111

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