第三話.二度目の小学校生活
朝方、ナミ──須久那御守は言った。
ちはやにかけたのは、軽い暗示で数時間で解ける、と。
そして、それは確かに事実だった。
ふたりの会話を聞いてなかったちはやにしても、ナミとのつきあいは短くないので、暗示が解けた今、おおよその事情は理解できている。
(けど、いくらなんでも、こんなタイミングで素にもどることはないんじゃない!?)
今のちはやは、紺の女児用スクール水着(一部の人には残念なことに競泳タイプだ)と白い水泳帽という格好。
そう、4時間目の今からまさに水泳の授業が始まる──正確には、プールに入る前の準備体操をしようと言う段階で、ちはやの暗示が解けたのだ。
途端に、つい先程までごく当り前のように着こなしていた紺色のワンピース水着の感触に多大なる違和感を感じるハメになった。まぁ、それでも、何とか悲鳴や大声をあげなかっただけでもよしとしよう。
せめてもの救いは、女子更衣室で着替えている最中でなかったことか……。
小六ともなれば、発育の早い娘はそれなりに女の子らしい下着をつけていたりする。特にロリコンでないとは言え、彼女いない歴=年齢の純情な16歳の少年にとっては、そんな環境で平常心を保つのは少々ホネだったろう。
さっきまでのちはやは、普段あまり履かない(!)スカートのおかげで水着に着替えるのが楽チンなのを、むしろ喜んでいたくらいなのだが。
もっとも、小学校の時間割を知らないだろうナミに当たっても仕方ないことはわかっている。
いや、あるいは、本来の目的からすると、むしろソレを見越して術をかけたのかもしれない。暗示にかかった状態で泳ぎを習っても、素の人格に戻って泳げるようになるかは不明だろうから。
「どうかしたの、ちはやちゃん?」
「う、うん、なんでもないよ、アキちゃん」
親友(ただし自分ではなく妹の、だが)の秋枝の気遣うような声に、極力平静を装いつつ、ちはやは無意識にお尻のあたりの水着のラインをさりげなく直している。
長身で顔もかなり可愛らしく、さらに明るく気さくなかおるは、男女問わずクラスで人気が高い。現在その立場を受け継いでいるちはやのポジションも、当然そう見られている。
そしてさらに言えば、小学生とは言えそろそろお年頃の男子連中にとっては、気になる女の子の水着姿と言うのは、どうしても意識せざるを得ない代物で、人気のある娘には自然と視線が集まるのだ。
男性としての自覚を(完全ではないが)取り戻したちはやにとって、その理屈は理性の面では納得できるものの、反面、“女の子”としての感情面からは、どうも生理的に受け入れ難い。おかげで、先程からどうにも落ち着かない気分になっているのだ。
「は~い、ちゅうもーく! それじゃあ、みんな、プールに入る前に、まずは準備運動しよっか」
ちょうどその時、プール脇の教官室から、水着の上にウィンドブレーカーを羽織った女性が姿を現した。
身長155センチ足らずと今のちはやより低く、顔も美人というより可愛い系なため、下手すると女子大生どころか女子高生に見えかねないが、これでも25歳で6-Bの担任教師である天迫星乃だ。
もっとも、さすがにれっきとした大人の女性だけあって、体の凹凸に関してはむしろグラマーと言ってよいレベルだった。
(うわぁ……星乃先生って着やせするタイプなんだぁ)
特に胸の辺りは、長身のわりに貧乳どころか無乳と言って差し支えないちはやが本気で嫉妬したくなるくらいの、豊かでかつ大き過ぎない絶妙なラインを保っている。
──しかし、ちはやは気づいてないのだろうか? 本来の「千剣破」であれば、いかに健康優良児とは言え(いや健全だからこそ)、それだけの"ブツ"を目にして思わず前屈みになってもおかしくない状態だということに。
まぁ、ガン見しているという点では似たようなものだが、理由が「欲望」ではなく「羨望」に無意識にすり替わっていることを、ちはやは未だ自覚していなかった。
「隣りの人とふたりひと組になって、いつもの柔軟体操開始ね。あ、あぶれた人がいたら、言ってねー。先生がペアになるから」
「ホッちゃん先生」の愛称を持つ星乃は、美人で優しく、また生徒に親身になって教えてくれることから、非常に人望が高い。
普通六年生ともなれば、教師の言うことを聞かない子がそれなりに現れるものだが、6-Bに関しては男女とも非常に聞き分けがよいのは、彼女の人徳の賜物と言うべきだろう。
「じゃあ、ちはやちゃん、組もっか」
「うん。お願いするね、アキちゃん」
ちはやもまた周囲の流れに従って、仲の良い秋枝とペアになって準備運動を始める。
元よりスポーツ全般は得意だし、この「いつもの柔軟体操」についてもかおるからもらった知識があるため、とくに問題なくこなせる。
心配していた「年下の女の子との接触」も、相手が千剣破としてもよく知ってる秋枝だったためか、それほど意識するようなことはなかった。
もっとも、ふとした弾みに、自分が女子用水着を着ていることを自覚して、微妙な気分になることは、ままあったワケだが。
「さて、じゃあ、いよいよプールに入るわけだけど……いきなり飛び込んだりしたらダメだよ。プールサイドの階段から、ゆっくり水に入ってね」
こういう時は、たいがいお調子者が言いつけを破って飛び込んだりするものだが……。
幸いと言うべきか、その「お調子者」に本来該当するはずのちはやも、水場が相手では勝手が異なりおとなしくしているので、星乃の言いつけは守られることとなった。
「うん、みんな先生の言うこときいてくれてうれしいよ。その御褒美ってワケでもないけど、今日は一学期最初のプールだから、最初の15分間は自由にしまーす。ケガしない程度に元気に楽しく遊びましょう!」
星乃の太っ腹な提案に歓声が上がった。
この暑い季節にプールで水遊びできるとなると、仮に小学生ならずともテンションが上がろうと言うもの。
それでも自由時間が終わる前に、本来の目的を思い出したのは、さすが本来は高校生と褒めるべきなのだろうか?
──まぁ、その直前まで、紅緒秋枝や田川ククルとキャアキャア言いながら水かけ合って戯れていたという事実に目をつぶれれば、の話だが。
「(やっぱりなんだか子どもっぽくなってる気がするなぁ) あ! 星乃せんせー、ちょっといいですか?」
「あら、武内さん、どうかしたの?」
ほんわり優しい笑顔を向けられて、ちょっと幸せな気分になるちはや。
「(う~ん、兄さんのことは大好きだけど、やっぱりお姉さんも欲しかったかも……じゃなくて!) その、ちょっといいにくいことなんですけど、ぼくに泳ぎを教えて欲しくて」
「ええ、もちろん構わないわよ。あれ、でも確か武内さんは去年……」
ちはや(本当はかおる)に指導した記憶があるのだろう星乃が少し訝しげな表情を見せる。
「はい、せっかく教えてもらったのに、すみません。どうも1年たったら泳ぎかたを忘れちゃったみたいで……」
自分でもかなり苦しい言い訳だと思ったのだが、善意の塊りのようなこの女教師は、にこやかにちはやの謝罪を受け入れてくれた。
「そう。確かに武内さんが上手く泳げるようになったのって、一学期最後のプールの授業の時だったものね。わかったわ。先生に任せてちょうだい♪」
元々水泳部出身で水泳好きの魂に火がついたのか、喜んで頭の中で指導計画を立てているらしい星乃の様子に、「早まったかも」と僅かにひきつるちはや。
(あ! そ~言えば、星乃先生ってたしか体育大学出身だっけ。意外に熱血体質?)
とは言え、元に戻るためには「浮輪やビート板の助け無しで25メートル泳げるようになる」ことが、ナミに言われた必須条件だ。
流石に今日一日で何とかなるとはちはやも思っていないが、少なくとも夏休みが始まるまでには何とかしたいと考えているのだから、ここは多少スパルタな特訓も甘受すべきだろう。
そうは思いつつ内心はビクビクしていたちはやだが、意外なほど(と言っては失礼だが)星乃の指導は穏当かつ真っ当なものだった。
「じゃあ、武内さん、まずは顔を水につけてみて」
流石にそれくらいは、ちはやにもできる。
「つぎは、そのまま水の中で目を開けるの」
これが最初の難関だった。だが、幸いにして、他にカナヅチな生徒がいなかったため、星乃がつきっきりで指導してくれたおかげで、プールの授業が終わる頃には、ちはやは何とか「ふし浮き」から「ばた足」程度はできるようになっていた。
(うわ~、さすが馨兄さんが言った通り、教えるのが上手いなぁ)
小学校一年生の頃からずっと、泳げないことに密かにコンプレックスを感じていたはずのちはやが、たった30分足らずの指導でこの段階まで漕ぎ着けるとは、もしかして星乃の指導者としての適性は群を抜いているのかもしれない。
「うん。いい感じ。さすがに一度泳げただけあって早いね。じゃあ、次の授業ではクロールか平泳ぎを覚えましょ」
ちはやに優しく微笑みかけると、星乃はプールから上がり、他の生徒に体育の授業の終わりを告げる。
「ちはやちゃん、どう? また泳げるようになったの?」
「う、うん。まだバタ足だけだけど……」
心配してくれた秋枝に、口ごもりながら答えるちはや。
「それでもスゴいですわ。やはり運動神経がいい方は違いますのね」
かなりいいトコのお嬢様であるククルが感心したように言う。もっとも、それを言うなら彼女の方こそ、12歳にして日本ジュニアテニス界期待の星と呼ばれている逸材なのだが。
「ちはやちゃん、スポーツ万能だもんね」
「えへへ、そんなことないよ」
口では謙遜しつつも、根が素直なちはやは「親友」達に褒められて嬉しそうだ。
「じゃあ、着替えよっか。あたし、もうお腹ぺっこぺこ」
「あ、ぼくもぼくも!」
少女達(まぁ、正確には約1名「少年」が混じっているわけだが)は、キャッキャ言いながら足早に女子更衣室へと向かうのだった。
(う、う~ん。別に不都合はないんだけど……何だかなぁ)
数分後。更衣室で私服に着替えながら、ちはやは内心苦笑していた。
どうやら、他の人間に「6-Bの一員である武内ちはや」として話しかけられると、ごく自然に「12歳の女の子」として対応してしまうらしい。逆に言うと、こんな風に黙ってひとりで考え込んでいる際には、元の「千剣破」としての意識が強くなるのだ。
とは言え、完全に「千剣破」に戻っているわけでもないようだ。
その証拠に、誰に教えられたワケでもないのに、“彼女”はバスタオルで身体をよく拭いたのち、まずはスクール水着の両肩の紐を外してから、ハーフトップ状のスポーツブラをかぶって着け、そのまま水着を腰まで下げていた。
そのままインディゴブルーのミニスカートを履いて、残った水着を脱ぐ。念のためバスタオルで軽く拭いてから、フロントにピンクのリボンのワンポイントがついた白いショーツに足を通した。
それは、彼女もいない高校生の少年が知るはずもない、女の子の水着からの着替え方だった(もっとも、コレは小学生だからこそで、もう少し年長になれば別の着方をするのだが)。
やや履き込みの深い女児用ショーツの股間に違和感を感じるのは、男としての意識故か──あるいは、“女の子”として、あるはずのない股間のブツに慣れていないからか。
深く考えると煮詰りそうだったので、ちはやは思考を一時放棄して、身体の動くままに任せた。その方が、手間取らないからだ。
(まぁ、しばらく……たぶん今週いっぱいはこのままなんだから、多少は流されててもいいのかな。とは言え、あんまり「女子小学生」に染まり過ぎちゃうのも、問題だよね)
と、“彼女”にしては珍しく頭を使っていたのだが。
「ちはやちゃん、ちはやちゃん、今日の給食はビーフシチューとキノコのリゾットだって!」
「デザートはフルーツ杏仁豆腐みたいですね」
「ホント? ラッキー!!」
既に着替えて待っていてくれたふたりの友人の言葉を聞いた途端、思考が小学生化してしまうのはお約束と言うべきか。
いや、元々ちはやは(そして、かおるも)かなりの健啖家で、いわゆる「色気より食い気」タイプだから、ある意味仕方ないとも言えるが。
「今日の配膳当番はサキちゃんだから、大盛りしてもらえるかなぁ」
「クスクス……ちはやさんったら」
「ちはやちゃんは、それだけ食べても太らないんだから、羨ましいなぁ」
「そのぶん、運動してるからねッ!」
パタパタと駆けて行く「3人」の姿は、誰がどう見ても可愛らしい小学生の女の子だった。
* * *
旺盛な食欲を見せて給食を平らげたあとは、食休みもそこそこに体育館に向かう、ちはや達。
この暑い季節なのに、ミニバスケをやろうという元気さは小学生ならではだろう。男女混合チームだが、この年頃に限れば男女の体格差は極めて接近している。特にちはやの場合、160センチと12歳にしてはかなりの長身なので、むしろポイントゲッターになりうる。
実際、タッパがあってスポーツ万能なちはや、一見淑やかなお嬢様風ながら同じく運動能力に優れたククル、運動神経は平均程度だが、ふたりとパスなどの意思疎通が完璧な秋枝が揃っていれば、男子相手でも勝つことは難しくない。
他のチームメイトの男の子ふたりも男の意地にかけて頑張ってくれたので、変則的な5分ハーフ×2の試合が終わった時は、ダブルスコア近い点差をつけて、ちはやのチームが大勝利していた。
(あぁ……やっぱり小学生ってサイコー!)
次のチームにコートを譲り、友人ふたりとスポーツドリンクを回し飲みしながら、ハイになった気分でそんなコトを考えるちはや。
別に「ロリコン紳士」的な意味で言ってるわけではない。
本来の立場──高校一年の男子「武内千剣破」として、色々他人には吐露しづらい不満が溜まっていたが故の反動とも言える感想だ。
たとえば部活。千剣破は確かに運動全般が得意だが、どちらかと言うと球技系を好む傾向がある。
とくに中学時代はバレーをしていたため、高校でも同じくバレー部に入ろうとしたのだが……2週間足らずで半幽霊部員と化した。160センチちょっとの彼では、どうしても男子高校バレーでは限界があると痛感させられたからだ。
また、これは中学以来思っていることなのだが、男女間の「壁」のようなものが、千剣破はあまり好きではなかった。
無論、ある程度成長した男女に差異が生まれ、いつまでもベタベタしていられないことは、わかる。わかるが……それにしても、千剣破から見て、高校のクラスメイト達の男女のコミュニケーションの断絶はどうにも歯がゆかった。
もっとも、この辺は個人差と言うか、学校ごとの校風やクラスのカラーの問題でもあるだろう。男子生徒と女子生徒がもっと和気藹藹としているところも少なくはないはずだ。
ただ、不運なのは、ジェンダー意識に比較的無頓着な千剣破が、そういう線引きの明確なクラスにばかり当たってしまったことだろう。
そのため、最近の彼は、「
だからこそ、ミナが持ちだした「兄妹間の立場入れ替え」などと言う突拍子もない提案に真っ先に飛び付いたのだ。
そして……幸か不幸か「ちはや」は、水泳以外の部分も含めて、今の立場にひどく満足感を得てしまっていた──心の底で無意識に「戻りたくないな」とチラリと考えてしまうほどに。
そのことが後々大きな意味を持ってくるのだが……この時の“彼女”にはそれを知るよしもなかった。
昼休みのあとの眠い5、6時間目を根性で乗り切り(あまり成績が良くないちはやだが、馬鹿正直な性格から居眠りやサボリとは無縁だった)、迎えた放課後。
「ち、ちはやちゃん! ダメだよ、まだ帰っちゃ」
さて帰ろうかとランドセルを手にしたちはやを、秋枝が慌てて止める。
「ん? なんかあったっけ?」
「あったっけって……今日は月曜日だから、課外クラブの日だよ?」
秋枝に言われた台詞をちはやは脳内で検証し、僅かなタイムラグののち、かおるから受け継いだ記憶からその事を「思い出した」。
「…………あ! そっか、クラブがあるの忘れてた」
桜庭小では、5・6年生に週1回、時間外のクラブ活動を励行している。自由参加という建前ではあるが、ほとんどの生徒はそれなりに「クラブ」の時間を楽しみにしていた。
仲良し3人組に関して言うと、趣味の領域とも言えるコレについては別々のクラブに所属している。
ククルは茶道部(本人いわく「テニスのための精神修養にもなりますし」とのこと)、秋枝は演劇部(秋の文化祭公演でヒロイン役に大抜擢されたらしい)。
そしてちはやは、「千剣破」と同じバレー部だ。もっともこれは、本来の立場でかおるが兄から色々聞いていて興味を持って選んだのだから、とりたてて不思議な話ではないが。
(なるほどー、だから今日の体育は水泳なのに、スポーツバッグの中に体操服もあったのかー)
友人ふたりと別れて、体育館横の女子更衣室に急ぐちはや。
ひとりになったことで「千剣破」としての自覚も微妙に復活しているが、4時間目の水泳で既に利用していたせいか、更衣室に入ることに存外抵抗感は少なかった。
「ちはやん、おっそーい!」
「ゴメンゴメン、さおりん。や~、今日クラブあるの忘れて帰りかけちゃったんだよね」
別のクラスの友人で、同じくバレー部に所属する藍原沙織に明るく謝りつつ、手早く体操服に着替え……ようとして、一瞬ピタッと手が止まる。
「ん? どしたの、ちはやん?」
「あ、うん。なんでもないなんでもない」
誤魔化し笑いしながら、ちはやは、モソモソと着替える。
(こ、これ確かにスパッツだけどさぁ……)
そう、桜庭小学校の女子の体操服のボトムは黒のスパッツであった──ただし、その形状を3つから選べるのがミソ。標準的な五分丈やショートパンツに近い三分丈はまだいいとして……。
(零分丈って……ほとんどブルマーじゃないかーー!)
極力平静を装って着替えながらも、心の中で真っ赤になっている。男である「千剣破」としても、女の子の「ちはや」としてもこのボトムは恥ずかし過ぎた。
もっとも、本来の持ち主であるはずのかおるは極力手足の肌を出す方が好きなタチなので、殆ど着る者のいないコレを選んだのだろう。
妹(今は“兄”だが)の嗜好を恨みながらも、特に意識しなければ自然にソレを履けてしまう今の自分に、ちはやはしばし肩を落としたものの、不思議そうな目で自分を見ている沙織に気づいて、意識を切り替える。
「──今日のクラブは五年生との紅白戦だよね。がんばろ、さおりん!」
「あったりまえよ! 五年坊にお姉様として格の違いを見せてあげないとね!!」
ヒートアップしてる沙織と激励し合いつつ、体育館に向かうちはやの頭からは今の格好に対する羞恥心は既になかった。
せっかく身長に対するハンデなく──いや、むしろ有利な立場で思い切り好きなバレーが出来るのだ。つまらない雑念如きに煩わされていてはもったいない!
そんな風に試合に集中したおかげだろうか。
週1で練習しているとは思えない息の合ったチームプレイとテクニックで、ちはや達6年生の紅組チームは、五年生の白組をほとんど完封に近い形で下す。
(さすがに下級生相手におとなげなかったかなぁ……ううん、ダメだよ、ちはや。ここは最上級生として、心をオニにして勝負のキビしさを教えてあげないと!)
そんな風に考えているちはやは、完全に自分の本来の立場を忘れている。
その後、後輩達にスパイクやレシーブのお手本を見せたり、沙織たちとコンビネーションの実演をしてみせる様子は、完全に「気さくで頼りになる六年生のお姉さん」そのものだった。
まぁ、あとで、更衣室で私服に着替えている最中に、再び自分を取り戻して自己嫌悪に陥るハメになったのだが。
* * *
さて、ドキドキワクワクと言うかオロオロアタフタと言うべきか、戸惑いと好奇に満ちた“妹”ちはやの女子小学生ライフに比べると、“兄”である馨の高校生活は、平穏かつ平凡と形容して然るべき代物だった。
もっとも、本人としてはそれに不満を抱いていたわけではない。むしろ逆だ。
「オーッス、武内!」
「ん? あぁ、長谷っちか。おはよ」
通学路の途中でクラスメイトにして悪友とも言うべき立場の友人、長谷部友成と遭遇し、軽く朝の挨拶を交わす。
彼は、武内家にもたまに遊びに来るので、「かおる」としても見知った存在だが、その年上の少年と「同級生」として接するというのは、なかなか興味深い体験だった。
そのままポツポツ会話を交わしつつ、学校へ向かうふたり。
ごくありふれた男子高校生の登校風景ではあるが、馨は内心軽く感動していた。
(これこれ、こーいうサラッとした関係がいいよなぁ)
たとえば、これが「かおる」としての友人ふたり──秋枝とククルなら、遭った途端に、秋枝が飛び付いてくるだろうし、ククルも含めて色々学校に着くまでのべつく暇もなくおしゃべりしないといけないだろう。
無論ふたりは大事な友達だし、親友とさえ言っても良いと思っているが、それでも女の子同士の過剰にベタベタした関係は、かおるはどうも苦手だったのだ。
しかも、このふたりなどはまだまだマシな方で、クラスの大半は「かおる」であった時の馨の目から見ても、あまりに子供っぽく、それに合わせてつきあうのは少々苦痛だった。
もっとも、聡明なかおるは、空気が読める子だったので、あからさまに不満を漏らすようなことはしなかったが……。
そこへいくと、今の馨としての交友関係は、さすがに高校生だけあって、それなりに割り切りがしっかりしていて、「彼」の嗜好と一致していた。
(女の子もガキっぽくないし……)
チラと自分(本当は兄の千剣破)と比較的仲が良い、女子のグループに視線を向ける。
艶やかな黒髪をポニーテイルに結った凛々しい剣道娘、桐生院菜緒。
その親友で、対称的にほんわかしたイメージの小柄な少女、真田乃梨子。
菜緒とは違った意味で怜悧な印象のある眼鏡っ子にしてクラス委員の、舘川燐。
彼女達3人と、馨と友成ともうひとりのツレを加えた6人で、夏休みに海水浴に行くことが決まっている……らしい。無論、千剣破からもらった知識だし、実際は“兄”が行くことになるのだろう。
千剣破は、3人娘のリーダー格の菜緒に気があるようだが……。
(どう考えても相手にされそうにないけどなぁ)
素の状態でもある意味千剣破よりしっかりしているうえ、今は立場交換で理性&知性がブーストされている馨に言わせれば、あの兄ではせいぜい「弟分扱い」がよいところだろう。
馨としては、むしろ保護欲をそそるタイプの乃梨子の方がお似合いな気がする。あるいは、落ち着きのない兄に、文句を言いつつ構ってくれそうな燐のほうが、まだしもか。
もっとも、そんな風に色恋沙汰の事ばかり考えていたわけではない。
むしろ、それ以外の気楽な男子高校生としての生活を、馨は堪能していたと言ってよいだろう。
退屈なはずの授業時間さえ、読書好きな馨にとっては新鮮でおもしろく感じられたし、学食の混雑は、給食しか知らない「彼」の目からは非常に興味深い。
「もうひとりのツレ」である古賀龍司が、2時間目から来たのにも驚かされたが、友成の反応からすると、よくあることのようだ。
放課後、3人でゲーセンに寄って遊ぶのも、昨日までは寄り道せずに真っ直ぐ帰ることが日課だった元小学生にとっては、とても刺激的な体験だった。
(くそぅ……ちぃちゃんはズルいや)
自分達は、趣味嗜好の合う仲良し兄妹だと思っていたし、実際そうだろう。
でも、“兄”は自分が知らないこんな楽しい時間を、今まで満喫していたのだ!
それが理不尽な憤りであると理解していながらも、馨はそう感じてしまう自分の心を止めることはできなかった。
* * *
「ただいま」
「あ、兄さん、お帰り~」
馨が家に帰ると、ひと足早く“妹”のちはやが帰宅しており、居間のソファに寝転がりながらアイスキャンデーを舐めつつ、何かの漫画を読んでいた。
ある意味、武内家の兄妹のいつもの光景と言えないこともない──もっとも、今は「兄&妹」が逆転しているワケだが。
「あ、馨兄さんの本棚から、『ぷりずむ☆コート』のマンガ借りてるよ~」
「それは別にいいけど(本来は、僕のじゃないし)……ちぃちゃん」
「ん~?」
生返事する“妹”に、馨は溜め息をつく。
「……パンツ、見えてるよ?」
──ババッ!!
という擬音が聞こえそうな勢いで起き上がり、真っ赤になってスカートの裾を押さえるちはや。
「に、に、に、兄さんのえっち!」
「いや、妹のお子様パンツ見たからって別段どうってことはないし。それより、スカート履いてる時は、もう少し気をつけた方がいいと思う」
「小六の女の子」としても基礎知識はあっても、さすがにこういうトコロは甘いなぁ……と、考えて、ふと眉を寄せる馨。
「………」
「え? ど、どうかしたの、馨兄さん?」
急に立ち尽くして黙り込んでしまった馨を気遣ったのか、ちはやが、ソファから立ち上がって顔を覗き込んできた。
襟元くらいの長さで綺麗に揃えられたショートカットがサラリと揺れ、シンプルな星型の飾りのついたヘアクリップで留めた右の前髪の下から、心配そうな瞳がのぞいている。
(これは……誰だ?
あ、いや、もちろん、ちはやだよな。ちょっとボーイッシュだけど、僕の可愛い妹の小学六年生の女の子……)
──いや、ちょっと待て。
そもそも自分に妹なんていただろうか? むしろ、自分の方こそがいも……。
『ほぅほぅ、やはり汝の方が、自覚を取り戻すのが早いのぅ』
「ナミ!」「あ、ナミちゃんだ」
いきなり過ぎる「神様」の登場にも、この「兄妹」は既に慣れたもののようだ。
「さっきの感覚って……」
『うむ、カオルよ。今なら「自分」のことがハッキリわかるであろ』
確かにわかる。自分の名前は、武内かおる。本来は小学六年生の女の子で、現在はナミの神通力(ちから)で、兄と立場を入れ替えている状態だ。
しかし……。
「ふぇ!? どうしたの、ふたりとも?」
目の前でオロオロしている「少女」を見ても、馨の頭の中では、ソレがあの“兄”とどうしても結びつかなかった。
いや、顔は確かに兄の千剣破のものなのだが、あどけない表情や、さりげなく自分に甘えてくる仕草は、下手したらいつもの自分以上に“妹”そのものという感じなのだ。
「どういうことなの、ナミ?」
『自我の確固たる汝に比べて、チハヤは比較的流されやすい性格をしているからの。状況に対する適応能力が高いとも言えるが……』
要するに、現在の立場に染まりまくってるということなのだろう。
『なに、心配はいらぬ。我らが一同に会すれば、間もなく本来の自覚が戻るように仕掛けてあるでな』
ナミの言葉通り、それから僅か1分足らずで、ちはやも「千剣破」としての意識を取り戻したのだが……さっきまでの自分の言動を思い返して軽く凹んでしまったことは言うまでもない。
『それで、どうする? このまま入れ替えを続けるかえ?』
台所で夕飯の支度をしている母を慮って、場所を馨(本来は千剣破)の部屋に移して、話を続ける三人(ふたりと1柱?)。
「え? 今更止められるの?」
意外そうな声をあげるちはや。
『うむ。我としてもこの術を実際に使うのは初めて故「かかり」を甘くしてある。実際に入れ替わってみたうえで、もし汝らが止めたいと言うなら、今この場で強制的に術を解くことは不可能ではない』
ナミの言葉に、ちはやと馨は顔を見合わせた。
確かに、今日半日、戸惑ったり恥ずかしかったりしたことは皆無ではない。
けれど……。
「──ちぃちゃん、水泳の方はどう? 天迫先生に教わればうまくなれそう?」
本来の目的である「カナヅチの脱却」が可能かどうかを、馨が問う。
「う、うん、たぶん。今日だけでバタ足ができるようになったし……」
この調子なら、あと2、3回の授業で何とか25メートル位は普通に泳げるようになるかもしれない。
「そっか……うん、じゃあ、僕は続けるのに賛成するよ。高校生活も面白いしね。ちぃちゃんに異論がなければ、しばらくこのままでいいんじゃない?」
理路整然とした馨の発言につられるように、ちはやも頷く。
「ぼくも……このまま、やってみたいかな。さっき言ったとおり、たぶんあと少しで泳げるようになると思うし……」
『ふむ。両者とも「継続」と言うことで異論はないようじゃな。なれば!』
馨の勉強机の上に仁王立ちになったナミは、いつもの大幣を高々と振り上げる。
『かけまくもかしこき すくなひこなのみかみ……』
呪文のような祝詞を唱えつつシャランシャランと大幣を左右に振ると、そこんら溢れた光の粒が、ちはや達の身体へと降り注ぐ。
お風呂に浸かった時のような、少し熱いが、決して不快ではない感覚が心身に浸透してくるのを、ふたりは感じる。
『……かしこみかしこみもまをす』
程なく、ナミの祝詞が終わる。
「どう、なったの?」
おそるおそる、ちはやが聞いてみる。
『うむ。先程言ったとおり、かかりが甘かった部分を補強して完全なものにしたのじゃ。
ふたりの立場を戻すには、チハヤが「キチンと泳げるようになる」ことが絶対条件じゃ。それが満たされぬ限り、もはや術者である我にもこの術は解けぬ』
改めてそう宣言されると、自分達が大それたコトを決断してしまったのではないかという焦燥に、ふたりは駆られる。
『なに、悪いことばかりではないぞ。まず、これまでのようにこの家を中心とした一定範囲のみならず、日本全国どこへ行っても、お主らは「兄・馨」と「妹・ちはや」として万人に認識される。
また、現在の如く我ら三人が揃って顔を合わせなければ、ふとした弾みに本来の自覚が戻って決まり悪く思うようなこともなくなるはずじゃ』
ま、違う性、違う立場を疑似的とは言え体験できるなぞ、神魔の介入でもない限り滅多にできぬ希少な経験ゆえ、せいぜい楽しむがよい。
そう締めくくるナミの言葉に、“兄妹”は大きく頷いたのだった。
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