山茶花
白檀
山茶花・本編
悪くない、と男は呟いた。
窓から視線を落とすと、師走に似つかわしく降りしきる六花の下を、一組の男女が足早に通り過ぎていく。
一つの番傘を二人で支え合っているため、どうしても片側の肩が雪で濡れてしまうようだ。お互いにそれを気にしているのか、出来るだけ身を寄せ合うようにしている姿は、見ているこちらが微笑ましくなる。
またその反対側では、今年はまだ丘の山茶花が咲いていないんだ、などと幾人かの男達が雑談に興じている。酒が入っているようで中々にうるさく、この宿にまで聞こえる大声だ。
――ああ、これだから師走は、悪くない。
そう一人ごちた男の後ろから、半ば呆れたような声がかかる。
「また窓の外を眺めておられたのですか。寒気は胸に悪うございますよ」
その声を無視した男は咥えていた煙管を持ち直し、火皿の灰を窓の外へと落とす。
ひらひらと落ちていく灰は、すぐに雪の中に埋もれて見えなくなった。
「大体、つい先日も外に出ようとしてお倒れになったばかりでしょう。お医者様も、このまま療養していなければ長くは持たぬ、命に関わる大事にもなろう、とはっきりおっしゃったではありませんか。少しは自分を大切になさいませ。ここに白湯は置いておきますよ」
「窓でも開けておらねば、菌が蔓延して貴女にも伝染るではありませんか、おかみさん」
私なりの気遣いです、と返す男。
「そんな事が気遣いになるもんですか。大体、このあたしが労咳になんてかかるわけ無いでしょう。それなら、とっくにうちの亭主がかかっておりますよ」
男は、その言葉に神経質そうな主人の顔を思い出し、噴き出す。
「ははははは、それはそうですね。これは傑作だ、はは、は……つっ、ゲホ、ゲホゲホッ……」
突然笑いが掠れたかと思うと、胸を押さえ、喀血した。
赤い座布団の上に、黒々とした血が飛び散る。
「ああ、もう、大丈夫でございますか!」
おかみは慌てて咳き込む男の口に茶碗をあてがい、背中をさすりながら白湯を飲ませる。そのついでに慌しく窓を閉め、火鉢の火も掻き起こしてやった。
「全く……せっかく療養なさっているのですから、もっと体を休めませんと。私はもう何も言いませんので、ゆっくりお休みください」
そう言って、おかみは部屋の外に出ていこうとする。
「……おかみさん」
襖が閉め切られようとする瞬間、今度は男の方が声を掛けた。
「なんでしょうか」
「三十路も終わりになって、こんな話をするのも何ですが。恋とは、どのようなものだと思われますか」
「恋、ですか。唐突でいらっしゃいますね」
「私はですね、恋とは一生続く渇望のようなものだと思うのです」
布団から体を起こして語り続ける男。
「人は、恋のためならば死ねるのです」
「今日は、随分と饒舌なのですね」
「……この話をするのは、あなたが最初で最後でしょう。どうか、聞いてください。
昔々、の話です。
この町に、少年と少女がいました。少年の方が三歳ほど上だったでしょうか。二人は、家族ぐるみの付き合いをしていました。
少年の父は、代議士をしていました。当時はまだ維新の跡が残っており、色々と社会不安の多い時代でした。彼と妻が芝居を見に行く途中で、不満を持つ数人の旧士族が、二人を襲いました。
少年は、幼くして両親を失ったのです。
少女の家が小さな呉服屋を営んでいたので、少年はそこの手伝いとして住むことになりました。
二人は、家族同然に育ちました。
時は流れます。少年は学業を修め、四高の生徒に。少女は、呉服屋の看板娘になりました。ずっとこの町で暮らしていたおかみさんなら、知っているかもしれませんね。山茶花の小さな花が好きな、それはそれは美しい少女でした。
さて、少年は町を離れ、金沢で暮らし始めました。
そして、二年後。
少女の父から、電報が届きました。
「ムスメ キトク トク カエラレタシ」
娘危篤、疾く帰られたし――
驚いて故郷に帰った青年―ええ、もう彼は青年と言える程になっていました―を待っていたのは、末期の労咳に冒され、痩せさばらえた少女の姿でした。
『貴方にだけはこんな姿を見せたくなかった、
綺麗な、明るい私のままで、貴方の記憶に残りたかった。』
彼女の言葉です。
少女の父に問い詰めると、彼女は青年が引っ越した直後に発病したらしいのです。
病は徐々に重くなるも、少女は決して青年に知らせたがらなかった。
毎月交わす手紙の中にも、それと知らせることは何一つ書かれていなかった。
本当に、馬鹿です。
知っていれば、彼は四高なんてやめてすぐにでも言野に戻ってきたでしょうに。
……いえ、本当に馬鹿なのは彼女ではありません。金沢に越してからというもの、あちらの生活を楽しんで一度も故郷のことを気にかけようとしなかった、青年の方こそ、本当の大馬鹿者なのです。
ともかく、うわごとで青年の名を呼び続ける少女を見て、耐えかねた父が電報を打ったとのことでした。
翌朝までに、青年の心は決まっていました。
彼は即座に寺に駆け込むと、住職を説き伏せ、そのままに袈裟の袖を掴んで呉服屋に戻りました。
当惑する少女の両親に、青年は少女と結婚したいと伝えました。
当然、少女の両親は断りました。
君は娘への情けからそう申し出てくれているのだろうが、そのような事をする必要はない、
娘はもう長くはないだろうが、君は未来ある身だ、
娘も、君の妨げになることは望まないだろう。と。
寂しそうに、断りました。
青年は、少女の両親が自分を気に入ってくれていたこと、少女と自分を結婚させたがっていたことを知っていました。
また、青年は少女が何年も前から自分のことを好きだったこと、条件の良い縁談を断り続けていたことを知っていました。
また……何よりも、青年は、自分が少女のことを大好きだったということに、それより前から気づいていました。それを、学業に進むという理由で、乱暴に押し隠していた自分が、己の気持ちを後回しにしていた自分が、今更、恨めしくて恨めしくて、たまりませんでした。
青年は少女の両親を説き伏せ、婚儀は秘密裏に進められました。
当日の朝になってやっと知った時の、少女の狼狽ぶりは想像以上でした。
私の為に貴方を犠牲にしたくない、
結婚するなら死にたくないよ、
貴方は未来ある身なんだよ、
何でこうなったのかな、
私のことは忘れてよ、
君と生きてたいよ、
死にたくないよ、
脈絡もなく、そう泣き叫ぶ少女の唇を、彼はそっと塞ぎました。
庭いっぱいに真っ赤な山茶花の咲き誇る、身を切る寒さの、師走の日でした。
それから丁度一年後、少女は亡くなりました。
その年は暖冬で、たった四輪だけ残った花は、まるで、
毒に冒された血清のような、薄褪めた赤色をしていたのを記憶しています。
少女の亡骸を、両親と青年は町を見渡す丘の上に埋め、その上に、彼女の好きだった山茶花を植えました。
それから十数年が経ち、少女の両親も他界しました。
青年は四高を出た後、詩人になりました。欠如感に満ち、若いながら厭世観漂う彼の詩は、多少の反響を呼びました。
山茶花は、大きくなりました。
青年は毎年故郷に帰ってきては、墓参りをしたのです。すると、いつしか山茶花は青年を待って花を付けるようになりました。
ええ、無論偶然でしょう。しかし、青年にはそう見えたのです。
その山茶花の花だけが、彼と故郷を繋ぎとめるものでした。
そうしてまた数年が過ぎ、彼は病にかかりました。
……彼もまた、労咳でした。
療養のため、彼は同人を辞し、故郷へと帰ってきました。
疲れていた青年は、小さな宿屋の二階を借り切り、そこに住むことにしました。
後は、おかみさんもご存知のとおりです。
……慣れない長話をしたら、疲れました。私は寝かせて貰います」
言い切ると、男は布団の上に倒れ伏すように眠りについた。
話を聞き終わったおかみは、そっと、襖を閉めた。
その夜、丑の刻も回りきり、草木どころか星々も眠りについたかと思われる頃。
音も立てずに、宿屋の戸が開いた。黒襦袢地の寝巻きに羽織を着ただけの男が、こっそりと顔を出す。開けた時と同じように音を立てずに戸を閉め、家の塀に寄りかかるようにしながら歩き出すが、その足取りはよろよろと覚束無い。数歩歩いたかと思うと突然激しく咳込み、落ち着いては数歩。咳き込み、落ち着いてはまた数歩。
(これは……辿り着く前に、本当に死ぬかもしれないな)
どうにか数メートルほど歩ききり、十字路に差し掛かった時、男の眼前に人力車が停まった。
「こんな時間に、どこへお出かけですか」
座席から降りてきたのは、おかみであった。
おかみはそのまま、驚いた顔をする男に言葉を続ける。
「昨日は、身の上を聞かせて頂き有難うございました。花を咲かせに、山茶花の下に行かれるのでしょう」
「ええ…」
「人力車を用意させておきました。そのお体で、外れの丘まで辿り着けるとお思いですか」
そう言って、宿屋の方へと向かっていくおかみ。
「申し訳ありません、まるで、弱みを見せて縋ったような形になってしまいました」
おかみはそんな男の謝罪を、ふん、と鼻を鳴らして流す。
「あの山茶花は、もうこの町の冬の風物詩ともなっているのです。あれが咲かないことには、わたしらは安心して年を越せません。誰かがあれを咲かせる事が出来るというのならば、邪魔をする訳には参りませんよ。ああ、言わなくともわかっていらっしゃるかと思いますが……うちの宿は、朝五つには朝食です。いってらっしゃいませ、お早いお帰りを」
「何から何まで、申し訳ありません。それでは、行って参ります」
そう言って、男は人力車の座席に身を沈めた。
この町の冬は寒い。
殆ど寝巻きに近いような姿の男にとって、冬の夜風はかなり辛い。
直接自分で歩いていないだけ体に負担はないが、激しく咳き込むのは抑えられない。
先程少し歩いただけでも、病は一気に悪化したようだ。全身のだるさを感じる。月並みな表現だが、鉛のようだ。寒いはずの体も、妙に熱い。
しかし、思考だけは冴え、妙に続く。
(しかしあの山茶花が、冬の風物詩になるとはな。毎年会いには来ていたが、住んでいないと分からない事もあるものだ……。おかみさんには、迷惑をかけてしまったな……この体調では……帰れると良いが……)
つらつらと考えていると、人力車が静かに停まった。
「どうぞ」
車引きに促され、いつの間にか丘の上へ着いていたことに気付く。目の前には、蕾を頑なに閉じ、一輪どころか花弁一つすらも咲きやらぬ山茶花の木があった。
丘を登りきったこともあり、車引きも息が上がっている。
「ここまで、どうも済まなかった。もう帰って頂いて構わない」
そう言って、滑り落ちるように、崩れ落ちるように座席から降りる男
。
慌てて車引きが声をかける。
「そ、そういうわけにはいきませんでさ。わしはおかみさんから、あなたを無事に連れ帰るように、と言いつかっておるのです」
それは無理だ、と笑いながら、山茶花の根元に腰掛ける。
「いや、自分の体は、自分が良く分かります。おかみさんの言ったことは正論だった。確かに私は、養生していなければ危うい命だったようだ。……もう、随分と進行していたんだろうね」
そう言う彼の息は、どんどん浅く、早くなっていく。
「それに、ここまで寒気に触れて悪くならない訳もない。……車引きさん、どうか最期くらいは、二人きりにしてくれませんか。二十年ぶりの、二人きりなんですよ」
そう言って、男は目を閉じた。
人力車が、去っていく音が聞こえる。
今となっては、男ははっきりと分かっていた。自分の命は、確実に潰えようとしているのだ。
(おかみの作る朝食、美味かったのだがな……)
そう思って笑った男の胸に、太めの山茶花の枝が落ちてくる。
(……おやおや、もしかして嫉妬されているのか。まあそう怒ってくれるな、どうせすぐに会えるのだから)
何やら、体がふわふわと浮いているような気分になってきた。
咳は止まっている。
先程まで痛くて痛くてたまらなかった全身が、不思議に穏やかだ。
ふいに、懐かしい誰かが目の前に在るように感じ、ゆっくりと、ゆっくりと、まぶたが開いた。
――ああ、君が、こんなにも近くに。
二十年もの歳月など、全く感じさせることもなく。
あの日と同じ、真っ赤な真っ赤な。
満開の、山茶花。
「お、ようやく今年も、山茶花が綺麗に咲いたな」
「あれが咲くと、この町も冬だって感じがするねぇ」
窓の外を行き交う人々が、遠くの丘を見ては口々に山茶花を誉めそやす。
町を見下ろす小高い丘にある山茶花は、ある年から、手入れもしないのに決まって同じ日に美しく咲くようになった。
その山茶花の根元に、寄り添うようにして二組の土盛りの墓があるのを知っているのは、とある宿屋のおかみだけである。
山茶花 白檀 @luculentus
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