花咲岩壁

憂類

松見屋

五月の空襲で家が焼け、越後に疎開することになった。少なからず思い入れのある土地であったので少しは悲しんだが、妻となるはずだった女と顔を合わせるのにもいい加減辟易していたので、その点は嬉しかった。

越後へは汽車で行った。中はまだ小綺麗で、私は初の汽車に浮かれながら乗り込んだが、それからの旅は揺れと酔いとで地獄であった。

越後での宿は市振という場所にあって、駅から降りて辺りを見渡すと視界の殆どが海と山である。海が近くにあるせいで、常に私の鼻腔は磯臭さで満たされていた。

少し歩いて、私は疎開先の宿についた。なんとも古めかしい様子で、壁は蔦で彩られている。宿の名は松見屋といった。宿の戸を開けると、嗄れた老婆が出迎えてくれた。齢八十を優に超えていそうな見て呉れだが、その口調はなんとも力強く、そして優しげでもあった。老婆に促されて、私は自分の部屋に入った。以前の住人のせいであろうか、壁と畳にはヤニが染み付き、何処と無く煙草臭い。部屋の中央には丸い卓袱台が置かれていて、座布団は脇に三枚ほど重ねてあった。住み始めた頃こそ少しばかりの不便さを感じたが、一週間もすればそれもなくなった。住めば都というやつである。

疎開してきて暫くは仕事も無く退屈だったので、日中は宿の周りをぶらぶらしていた。宿から外に出て少し浜の方に歩くと、逍遥するに丁度いい道がある。大抵はその道を歩きながら桑の実などを摘んでいたが、浜辺に蟹や櫨がいると、近寄って戯れるなどもした。道なりにずっと進んでいくと、町中に続く大通りが見える。大通りには店が山ほどあって、夕刻には大勢の人で賑わった。飲食店には宴の提灯が灯り、酒屋の樽は軽くなってゆく。私はそれを遠巻きに眺めることを好んだ。金を疎開の費用として使ってしまったから手持ちがないのだ。

そんなある日、老婆が部屋を訪ねてきた。なんだろうと思い話を聞くと、松見屋の住人に私のことを紹介したいというのだ。元々人と付き合うのが苦手な性分であったが、疎開先として快く受け入れてもらった手前、半端な返事もできない。結局二つ返事だったが承諾した。歓迎会はその夜開かれることになった。

酉の刻を回ったあたりで、再び老婆が呼びに来た。私の部屋は二階の突き当たりにあって、会場となる食堂へは少し距離があった。歩いている間老婆に住人のことを尋ねたが、気のいい奴らだよ、としか聞き出せなかった。

食堂に入ると、五人の男が机を囲んでいた。皆仲が良さげな様子で、先刻までの不安は少しばかり紛れた。老婆の音頭によって歓迎会は始まったが、結局は体のいい飲み会となった。その中で、私は一人の男とよく話をした。名を山田といって、近くの漁場で漁師をしているそうだ。確かにその腕は御柱の如き太さで、顔の彫りが深い男前な風貌である。私が仕事の宛もなく怠惰な日々を送っていることを知ると、彼は自分の船に乗れと言ってきた。私は汽車でも酔う性質であったから、有難い話だが遠慮すると言って断った。その後は昔話などをして過ごした。宴は夜半まで続いた。

翌朝、私が部屋で本を読み耽っていると、部屋の戸を叩く音がする。連日人が来るのも珍しいと思いながら戸を開けると、山田がいた。何やら頬は引きつったように上がっていて、気持ちの悪い笑みになっている。あんまりにも気色が悪かったので、私は何用かと尋ねた。彼はにやけ笑いをしたまま、私について来いと言った。丁度、いやいつも通り暇があったので、私は渋々ながらも彼のあとについて行くことにした。

何時もの桑の木を過ぎて、山田はずんずん進んでいく。山田の歩くのが早かったので、私はやや小走りにその後を追った。大通りを過ぎたところで山田はいきなり立ち止まり、首をぐりんとこちらに向けて、山の方を指さした。山田の不審な動きには敢えて触れず、促されるままに山の方を向いてみると、そこには一件の大きな平屋があった。山田は鼻息を荒くした。

「お前さん、最近女と話してねぇだろ。此処はそういう男どもの拠り所だけん、ちょっと寄っていくべ。」

なんだ、そういうことか。山田は娼婦に会いに行く口実として私を使ったわけだ。昨日今日の仲でこのような場所に連れてくる山田のふてぶてしさには頭が上がらなかったが、確かに私も色気が恋しくなってきた頃であった。満更でもない様子を悟ったのだろうか、山田は私の背中を押して、強引に中へと連れ込んだ。

屋敷の中は伽藍としていて、長い廊下が一本通っている。廊下の脇に障子で仕切られた部屋があって、そこに娼婦達が居るようだ。山田は受付であろう恰幅のいい男に慣れた口調で話しかけ、数分後に戻ってきた。私は初見であったから、山田が適当に見繕ってくれたらしい。山田は下卑た笑みを浮かべて、手前から二番目の左の部屋に消えていった。そういえば、山田は私が目指すべき部屋の住所を伝え忘れている。なにぶん初めて訪れた店であるから、勝手がわからず視線を遊ばせていると、細身の男が何処からか現れて、私の肩を叩いた。その男は私にあてがわれた娼婦の世話役だそうで、私を部屋に案内してくれた。

男に促されて私は部屋の戸を引いた。中はこじんまりとした和室で、部屋の脇に行燈が灯っている。窓も無いから、明かりはそれ一つであった。部屋の中には少女が一人座っていた。

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