発生点/転換点2

「…………VX9、交信を終了する」


 網膜下端末にそう呼びかけると、鼓膜裏にざわついていたノイズを短い電子音が断ち切った。


「さて、あとはヨンタが焦って無茶しなければいいのだけど」


 VX9のテスト中に突然ハルタカと交信途絶したとなれば、ヒューストン側の混乱は尋常じゃないだろう。燃料とエアの限界までVX9を探し回るはずだ。

 しかも見失われるのはこれで三度目。もっとも今回はこっちが一芝居打っただけで、箱舟に中継衛星が乗っ取られたわけではない。

 だからこそハルタカは、自分のした決断の正しさにまだ胸を張れないでいた。


【……本当によかったの? 親友くんとこんなお別れの仕方で】


 VX9とドッキングした船外服内部――無音の世界に取り残されたはずのハルタカに呼びかける女の子の声。

 視界に淡い紫の光がチラつく。像を結び出現したホログラムは、これまで身を潜めていたスプトニカだ。今はヘルメット内に収まるよう極小サイズに縮まって見えるため、さながら妖精みたいな有様である。


「お別れってそんな、このまま死に別れるみたいな言い方はメンタルバランス的にもよくない思考パターンだから。ヨンタと再会できる機会なんてそのうち巡ってくるよ。だからルリ姉にもわざわざお別れしてこなかったんだもの」


 勿論、皆に怒りや恨みを買う覚悟ならある。たとえそうなったとしても、ハルタカがスプトニカとともに歩むにはこうするほか選択肢がなかった。


【ふうん。ハルはこういう時に泣かないのね。悲しくなくてもさ、状況的に家族や親友を裏切ることになるかもしれないわ。ハルは楽天家なの? きっとハルに悲劇的な場面を強要する結果になるって、うちはうちでけっこう罪悪感に苛まれてたのよ】


 そう言って

「取り越し苦労じゃない」などと口を尖らせる彼女だったが、ハルタカにとってその〝家族〟という概念は実感がなく、それよりも気になった物言いがある。


「ぼくはルリ姉もヨンタも裏切ってなんかないし、楽天家呼ばわりされたのも生まれて初めてなんですけど……。でも君みたいなのが罪悪感とかヘンなの。ASも悲しくなれば涙を流したりするの? ぼくなんて機械と友達の冷たいやつなんて評価を受けてきたのを、最近になってようやく傷付くようになったくらいなのに」


 けれどもスプトニカは躊躇いなくこう言ってのける。


【うちだって泣きたくなることくらいあるわ。ASは涙が流せるから負けないの、箱舟なんかには絶対に】


 決して冗談などではない真面目な宣言なのだと、自慢げに胸を張って。


「……それがどういう理屈なのか理解できてないけど、君が言いたいことは何となくわかるよ」


 出会ってからまだ数日しか経っていないのに、自分が既にこの不思議な存在とも馴染んでしまっていることに驚きはない。

 無人兵器に組み込まれた人格プログラムと捉えるには、スプトニカは不自然に人間的だ。彼女がハルタカの前で見せた無邪気さや喜怒哀楽は、彼女の戦場において不必要な揺らぎ――つまり不安定さでしかない。逆説的に、彼女があまりに人間的な点が命取りにならないか心配になったくらいだった。


「あの時スプトニカの正体を知ってから、どうして君たちASが人間そっくりの性格をしてるのかずっと疑問だった。でも、こんな君たちが今まで箱舟と戦ってくれてたのを知れて、ぼくは素直に嬉しかったってことを君にも伝えておくよ」


【――え~! やだなぁ。それって、ぶっちゃけハルはうちを愛してしまったってことよね?】


 こうして彼女は時折ドキリとさせられる表現を使ったりもした。好きだとか愛だとか、その手の言い回しをハルタカとの対話に持ち出してくる思考とはなんなのだろう。


「ASに惹かれてるという意味なら正解。困ってるスプトニカたちを助けたいというのも嘘偽りない本音だよ。……まあ、さっきの君の表現は大胆で正確性も欠いてるかもだけど」


 無難にこう切り返してしまったけれど、それでも嬉しそうに口ずさまれるスプトニカのハミングが耳に心地よくて、だから自分とった行動が間違っていなかったのだと安心させてくれる。

 そう言えばヒューストンとやり取りをしていた間に、VX9も随分と遠くまで流されていた。

 元よりVX9の正確な軌道座標は改竄されていた。通信介入によって実現されたそれは、超技術を満載した人工衛星であるスプトニカの仕業だ。ASは軌道兵器としての物理的戦闘力以外に、通信衛星としての電子的戦闘力も特筆すべきものを持つ。

 間もなくして一つ目の目標地点――地球の赤道から聳える軌道エレベーターの一基が、VX9の軌道上に現れた。太陽光を反射するよう着色された炭素繊維ワイヤーが幾重にも束ねられ、一定区間ごとに設置された中継ハブで固定されている。途方もない長さを持つこの天の梯子のうちのどれかが、地球軌道の終着点――大人たちの暮らす〈天蓋都市〉まで届いているのだという。


【そろそろ肉眼でも視認できるわ。おっひさ~】


 妙に脱力させられる言い方をしてくれるが、眼下を見下ろせば、モノトーンの地表とは混じりようのない、鮮烈なまでの色彩と輪郭とを併せ持つスプートニカハリオン――つまりはずっと地球軌道上にあったスプトニカの本体がこちら目指して接近しつつあった。

 VX9とスプートニカハリオンの軌道が同期する。三〇メートル超の巨躯は、直接的に人の手が入っていない人工物と捉えれば、やはり畏怖と異端を感じさせる造形だ。それに、先日あれほどの激戦を経ていながらもまるで無傷に見える。

 スラスターで軌道調整し、彼女の躯体になるだけ慎重にアプローチする。VX9で直接彼女に触れるのは初めてだったため緊張を伴う作業だ。

 やがて両方のアームで彼女の円環型ユニットを捕まえることに成功した。

 彼女のホログラムがヘルメット内から消え、すぐにスプトニカ自身の円環型ユニット上に現れて立ち上がる。


【あらためておさらいするわ。うちとハルが目指すはコロニー・アガルタ。ブースター点火で軌道高度を上昇させて、到着までおよそ二〇分。そこに向かえば、仲間のところに戻るのはお互いに難しくなる。ここからは、もう後戻りできない】


 いつもの子どもの表情で微笑み、どこか大人びたトーンで囁きかける。

 そして自身の躯体にしがみ付いたVX9へと、まるで基地内の廊下でそうするみたいに一歩ずつ歩み寄ってくる。視覚的な意味以上のものを伝えるために、彼女はいつもそう振る舞う。


【この先に進めば、ハルに決して軽くないたくさんを犠牲にさせてしまうことになる。危ない橋を渡らせることにもなる。でもハルタカ、当星はと一緒にこの先に進みたい】


 そうしてハルタカの前でぺたんと膝を付けると深呼吸して、それからこちらを覗き込んで両手を差し伸べてきた。


【代わりにあなたがこの先で失うであろう、すべてに見あったものを必ず与えるとここに誓うわ。だから、最後にもう一度確認させて――ハルの気持ち】


 凛とした声を張り上げたスプトニカが宣言する。意志を示せと、ヒトが生きられない世界に立ち、ヒトにはない色を宿す双眸がハルタカを捉える。


【これはあなたと当星、二種の知的生命体の間に結ばれた約束。お願いよ、ハルタカ】


 約束という言葉を突き付けられ、わけもなく胸の鼓動を意識させられてしまった。

 こちらの応答をじっと待つ、女の子を象ったホログラム。いや、まぼろしなんかではない。ヘルメットバイザーを隔てた先の宇宙に、間違いなくはいる。たとえ姿はホログラムであろうと、己が躯体上に確かに存在している。

 彼女はハルタカに、自分の目になってほしいと願った。きっとそうしてあげられるだろう。


「……〝約束〟ってとても素敵なものだけど、極めて人間的な、都合のいい考え方だ。約束ならしてあげられるよ? でも、ぼくには君の望みを叶えてあげられないかもしれない」


【ううん、望みは叶えるの。ハルの勇気がそうさせてくれる。うちは〈楽園〉を取り戻す】


 絶対に目的を果たせるのだと、淀みない気持ちを伝えてくれるスプトニカ。

 自分にはもう、彼女を無機質な兵器と見ることはできなかった。心を持たないAIが人間の女の子の振りをしているだけで、約束というのも単にハルタカを誘導するためのポーズにすぎないのだとしても、彼女はきっと全てを果たすのだろう。形はないが、そういう確信がある。


【ちゃんとしたカタチがほしいなら、ハルにうちを預けよっか? ハルを人類史の英雄にする最強の剣にでも、ハルの心を支える最愛のパートナーにでも、ハルがそう望む何にだってうちはなれるわ?】


 そんな、冗談めいた口振りで。

 自分らしくもなく、心が無邪気な熱を帯びてくる。こうして互いが立つ舞台は、一歩踏み出せば果てのない闇で、こんなにもコントラストが際立つ世界なのに。


「ふふ、そういうのって、なんだか昔の映画の話みたいだね。でも結ばれた約束は絶対だよ? ぼくは約束破りの嘘つきにはなるつもりないから、君も必ずそうあってほしい」


 長大な軌道エレベーターを背に、奇しくも巡り会った一人と一体の、前例のない関係のものたちが向き合っている。

 船外服越しに、彼女へと手を差し伸べる。応じてスプトニカが微笑みを浮かべると、透き通る指先でこの手を取ってくれた。

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