第6話
『自己複製の大部分を他に頼るウィルスは生物と呼ばれません。ならば私は?』
「…………」
ゲームのデバッグ。
それは体力・精神力・忍耐力が必要とされるキツイお仕事。
そうとも知らずに安請け合いしてしまった俺は、精神を崩壊してしまう直前まで追い込まれていた。
「…………帰りたい」
不具合を探して報告する。それだけならなんということはないが、実態はそんなに甘くなかった。
シナリオが存在するアドベンチャーゲームなら、分岐する選択肢ごとに矛盾がないか、正しい分岐先に移れるかを確認する。
全てのルートを調査するという、それはそれは膨大な数の項目をチェックしなければならない作業が待っている。
アクション要素があるゲームはもっと大変だ。ひたすらマップを走り続けたり、同じ動作を繰り返したり、レベルやアイテムをカンストするまで上昇させて異常が起きないかを調査する。だがそれだけではない。
デバッグ作業で重要なのは再現性。異常を発見したとして、そこまでの工程によって本当に出現した異常なのかを確認しなければならない。
何度も何度も繰り返される光景に、俺の精神はすり減らされた。
「……おい、そんな所で何をしている」
「…………」
肉体労働とは違って疲労することはない。
だがそれは、機械でもなければ務まらないお仕事だった。
好きを仕事にしてはならない。
「……いい加減に出てこい。踏ん付けても知らんぞ」
「…………」
まずゲームが嫌いになった。
そして光が嫌いになった。
俺が身を潜めていたのは、用意されたデスクの下の空間。昼夜問わず照明に照らされたこのオフィスで見つけた、光から逃げられる場所だった。光あれ、なんていう辞書の言葉はすでに塗りつぶされていた。
だというのに、そこから無慈悲にも追い出される。
「……まずは“ボスキャラが戦闘開始後に一時停止する”バグの調査だ」
「…………」
のそのそと這い出すと、現場の実質的なリーダーである和夢が新たな指示を出す。その顔には覇気がなく、胡麻塩頭に混じる白髪の割合が増えたように見えた。
「“サキガケ”装備時に発生するようだが、まだ確証はとれていない。これを調査しろ」
「…………」
淡々と下される命令に、淡々と進行される作業。繰り返される戦闘。
しかも今回はボスステージだ、再現性を確認するために何度も挑戦しなければならない。何度も何度も何度も何度も何度も。
それは俺を蝕んだ。
「うがあああああ! やってられるかあああああ!」
「……うるさい、黙れ」
繰り返されるそれはもはや苦痛。
声をあげるのは痛みに対する反射といってもいいだろう。発狂した俺に全く動じない様子の和夢は、似た光景を何度も見てきたようだった。
そして、MMORPG【ヴァルキリーフロンティア】のデバッグを担当したのも彼だった。
「このシナリオを書いたのは誰だあああああ!」
絶賛デバッグ作業中の【アイレス☆ドールズver.2】であるが、バグ以外にも重大な欠点がある。シナリオが面白くないという致命的な欠点だ。読み進めるだけで苦痛を感じるそれは、小難しい単語が書き連ねられている一種の哲学書であった。
「……私だ」
「…………!?」
マジかよ……最悪。
「……そんなに不快か?」
眉一つ動かさずにただモニタを凝視するシナリオライター。だが肌を震わす緊張感が俺に届き、怒りを抑えていることが見て取れた。
「あ、当たり前ですよ! 所詮ゲームなんだ、ファンタジーな物語で良いじゃないですか!」
彼が執筆した物語の舞台は現代。それだけでもつまらないというのに、社会問題を提起させる内容は読んでいるだけで疲れる。頭を使わない軽い内容でいいじゃないか!
「……考えてもみろ。剣と魔法の世界で起きる戦争など読んだところで、現実世界に活かすものなどあるのか?」
「少なくともこのシナリオよりはマシですよ!」
強く主張すると、和夢は背もたれに体を預けて一息つく。
一瞬の静寂の後、柔らかな口調で説明した。
「……いずれ皆飽きる。それに少子高齢化が進んでいるんだ、我々は子供ではなく大人の世代を狙い撃つ。このシナリオを不快に思うのは、お前が低能だからだ」
「うぐっ……」
そう言われると返す言葉もない。
いやしかし、大人だって疲れてるんだ、絶対ファンタジーな物語のほうが受けるハズ―ー
「というか、何で当たり前のように泊まり込みで仕事させるんですか!?」
当然の疑問。
初日は研修ということで、午後5時には開放してくれた。今思えば最後のチャンス。
その翌日から数えて6日、家には帰れていない。このオフィスには簡易シャワーが備え付けられており、体臭に悩まされることはなかったが……。
デスマーチの渦中だった。
「……お前のご両親には説明してある」
「はあ!? 何勝手な事を!」
「……社会復帰を喜んでたぞ?」
確かに俺はニートを脱して仕事をしている。だがそれは、もはや刑罰といっても差し支えないようなもの。
高額な報酬という甘い罠に引っかかった末路。お父さん、お母さん、俺はニートに戻りたいです。
「でもこれは、監禁ですよ監禁! 犯罪だあああああ!」
「……朝から騒ぐな鬱陶しい。泊まり込みなど、どこの企業でも行われるえげつない行為だろうが」
そう思っているなら家に帰して下さい。暗い場所で眠らせて下さい。
俺は人間でいたいです。
「アルバイトの労働時間は8時間まで! 守ってくれよ犯罪だよおおおおお!」
「……労働内容は単純だろうが」
内容とかそういう話じゃないのが分からないのか。
労働基準法を一から学んでくださいお願いだから。
「……私もこんな仕事をしたくはない。だが完成を急がねばならんのだ、これでも飲んで落ち着け」
自身も酷くやつれた表情の和夢が、一本の黒光りする瓶を投げ渡した。危なげなく受け取ったそれは栄養ドリンク“フェアゲッセン”。
うん、もう無理。24時間戦うなんて人間には出来っこない。
「うっ……嫌だあああああ! 飲みたくないいいいいい!」
「……泣くほど嫌なのか」
とても不思議なんだもの、この栄養ドリンク。飲んだ途端に頭がスッキリし、それまでの疲労感は吹っ飛んでしまう。何故か気分も高揚して、デバッグ? 何それ簡単じゃんって感じに謎のテンションが生まれてしまう不思議なドリンク。
だがそれも束の間。
一時間もすれば気分は反転。酷く気分が落ち込んでしまい、何故俺はこの世に生まれたのだろうかと悟りを開くまでの域に達してしまう。
まさにドラッグ。
「……少し外の風に当たってこい。ホレ、これなら飲めるだろう」
新たに投げ渡したペットボトルは和夢お気に入りの緑茶。蓋が開いて中身も少し減っている……飲みかけ?
「……何だその目は。回し飲みは嫌いか? 私も嫌いだ」
この男が俺を気遣うのは珍しい。だがその理由を知っている。
デバッグ作業という地獄を自分が味わいたくないからだ。そして、俺と言う人柱を逃がしたくはないためでもある。
「……俺も嫌いです。気持ちだけ受け取ります」
そう言ってペットボトルを和夢のデスクに置き、言われた通り気分転換しに外へ向かう。
真夏とはいえ早朝の空気は涼しく、疲労した体を休めるには丁度良かった。ついでに自販機で炭酸ジュースでも買おう――
いや待て、何を素直に労働しているんだ俺は。こんなブラック会社にいては身が持たない。
そうだ、この機会を無駄にはできない。さりげなくトンズラして――
「……逃げようなどと考えないことだ」
「…………!?」
思考を呼んだ和夢に釘を刺される。
「……甘く見るなよ。すでに前金は払ってあるんだ、その分は働いてもらう」
「…………」
事実、俺の口座には一月分の給料が前金として振り込まれていた。しかもそれは、アルバイトでは稼げない程の高額。
正社員の手取りを超えていた。
「……分かっているな?」
「…………!」
覇気はないが、座った目が俺を射抜く。
つまり。
一ヶ月は逃げられない。
「うっ……ふぐぅ……」
「……泣くほど嬉しいか、私も嬉しいぞ小僧。だがその声は不快だ、外で泣け」
情けなく流れ落ちる涙を拭って、俺は開発室を後にした。
「……はぁ、何故私がこんな役割を。だが任された大切な任務……急ぎ、【ボルグレッドファンタジー】を打倒するゲームを完成させねば」
☆ ☆ ☆
「…………」
今日もいい天気。
昇った太陽は世界を照らし、大地の緑に力を与える。
遠くからは小鳥が囀り、人々に朝の訪れを告げる。
風は湿った空気を乗せ、火照った体を冷ましてくれる。
自然はこんなに優しいというのに、人というものは残酷だ。
「こんなところで何してんの、先輩」
物思いに耽る俺を邪魔する声。
先輩などと呼ぶのはこの世界に一人しかいなかった。
「彩智か……」
この女性と接することに、もう動じることもなくなった。
傍から見れば完璧なプロポーションだが、その内面は真っ黒。金にがめつき他者を見下す典型的な悪女。
そして今はこの会社、“セカンドピース”の専属イラストレーター。ゲームセンターのアルバイトは今も掛け持ちしているようだ。
「やけに早いな」
左手につけた安物の腕時計の針は、午前7時を指していた。始業までまだまだ時間がある……俺と和夢は仕事をしていたけど。
「そりゃもう、新菜ちゃんとハヤナちゃんに会いたいからよ!」
胸を張って宣言する。たわわに実った禁断の果実が揺れたが、今の俺はそんなものにときめかない。目の保養にもならないほどに、感情を失っていた。
「……レズ?」
上手く回らない脳がそんな言葉を吐き出した。
「んな!? ち、違うわよ!? アタシは決してそんな……」
分かりやすいなこの女。
慌てれば慌てるだけ、疑惑は確証に変わるというのに。
「……レズでロリコン?」
「んなあ!? そそそそんなこと……」
動揺を見せてはならない、本性を知らせてしまうから。
交渉術なんて学んではいないが、それに似た言葉をどこかで聞いた気がした。
「んもう、可愛いのが悪いのよ! 言っておくけど、アタシは正常だから!」
「……ふーん」
ぶっちゃけどうでもいい。
「ていうか先輩、だいぶ悪そうな顔してるけど大丈夫なの?」
「……ヘーキ」
悪そうな顔って何だ、悪人面って意味か? まあ具合が悪いという意味に変換してそれに答える。この女に心配されるほどに酷い顔だとは……。
「ま、ハヤナちゃんを泣かせたんだから、その罰よね。デバッグだっけ? まあ頑張りなさい」
「…………」
これ以上会話しても小言を言われるだけな気がするので、そろそろ場所を変えよう。
ここはオフィスがあるビルの階段。出社してくる他の社員の邪魔にもなるし、いいタイミングだろう。
「これからはハヤナちゃんの言うことには全面的に――ってちょっと、どこ行くのよ!?」
ほら始まった。だからこの女は苦手なんだ。
「……コンビニ」
それだけ言って立ち去ろうとする。
が、行く手を阻まれた。
「逃がさないわよ。丁度、先輩に聞きたいことがあるの」
「……はあ?」
今更俺に何の用だ。
こっちは連日開戦される卓上の戦争で疲れてるんだ、放っておいてくれ。
「その……和夢さんのことなんだけど」
「……?」
何故にその男の名前が出る?
「ほら、あの人って真面目なフリしておちゃらけた面もあるじゃない? それにイケメンでモテそうだし、彼女さんとかいるのかなーって思って」
「…………」
さりげなく聞いてるようだが丸分かりだ、耳まで赤くさせやがって。
まあいい大目に見てやろう……つまり、この女──
「……素直に告白すればいいじゃん」
「!?」
分かりやすいなあ……。
「あの人女っ気全くないし、指輪だって付けてない。彼女とかいないんじゃねーの?」
「こ、告……告白!?」
その体をプルプルさせて動揺。
俺の話、ちゃんと聞いてる?
「しっかし、あの人のどこが良いんだか。強面だし、過酷な労働は強いるし、面白みもないし」
怪しい会社に勤めてるし。そのことは口外しないよう言われているので黙っておく。
目の前で和夢を貶すと、真っ赤な顔で反論した。
「アンタよりはよっぽどカッコイイもん! 頼りになるし、金払いもいいし!」
「俺のことはほっとけ! つーかやっぱり金か、この性悪女!」
金が大好きだから、持ってなさそうな俺の事はあんなに毛嫌いしてたんだな?
まあ世はこんなに不況だ、金持ちに惹かれるのも分かる。
「何よ、経済力のある男は魅力的でしょ! それに包容力もあるし、リーダーシップもあるし!」
包容力? リーダーシップ? 笑わせてくれる。
あの男はそんなものを持っていない。俺の悩みなんて聞いてくれないし、顎で使うしでとても尊敬など出来ない人間だ。それを分からせてやろう。
「そんなもの幻想だ! あいつはいざという時、皆を見捨てる悪党だ!」
「それは理想の体現よ! いざという時、助けにならないアンタよりマシです!」
「何だと!?」
「何よ!?」
クソ、恋する女はあまりに盲目。
もういいや、信じる信じないに関わらず、全てぶちまけてやるか。この会社はテロまがいのことをしでかしているということを──
『ええい、痴話喧嘩はお止めなさい! 近所迷惑ですので!』
「「違います!」」
割って入った声に揃って反論。
出社した別会社の社員か? だが不思議と聞き慣れた声──
「……って」
「……ハヤナちゃん?」
通りに佇むその影は、大きな買い物袋を右手に提げ、左手に持ったスマートフォンの画面をこちらに向けていた。
『えへへ、言ってみたかっただけです!』
「朝ごはんにしよ、お兄ちゃん。よければさっちゃんも」
それは未明に出勤し、食料調達を言い渡された新菜とハヤナだった。
☆ ☆ ☆
「まずは人参、セロリ、ショウガをすりおろします。手間がかかりますが、これが美味しさの秘訣なんですよ?」
「へ、へー。お料理も上手なのね、新菜ちゃんは」
「大きめに切った豚のバラ肉を色が変わるまで油で炒めて、器に移したら鍋にバターとクミンシードを入れます。香りが出てきたらみじん切りにした玉ねぎを入れましょう」
「す、すごーい。手際がいいー」
「きつね色になったら、ヨーグルト、野菜、トマトを入れて水分がなくなるまで炒めましょう。ここでビールを入れると、丁度良い苦みが出て素材の味を引き出します」
「ふ、ふーん。物知りなのねー」
給湯室からそんな会話が聞こえてくる。
新菜が購入してきたのはカレーの具材。それをバッタリ出会った彩智と共に調理していた。
共に、というか最初の頃は「私が作る!」なんてえらい剣幕で言ってたのに、今では新菜の技量に目を丸くしている。どうせ「和夢さんに手料理を振る舞うチャンス!」とでも思ったのだろう、いい気味だ。
「でもアレ……いいんですかね」
仕事を切り上げ、休憩室の椅子に力なく腰掛ける和夢に聞く。
ここの設備は会社のモノ。それを私的に使用しても良いのだろうか。
いや良くない。ガス代や光熱費は会社負担だ、それを長時間使用するのは推奨されることではない。
「……いい。私が許可した」
掠れた声で応答。プロデューサーという肩書を持ってはいるが、この現場から一日も離れずに開発を続けていた。開発リーダーであるディレクターを名乗ってもいいのではないだろうか。というか本物のディレクターは早く来てくれ、一緒にデスマーチしよう。
「いけないことでしょう。これが社長とかに知られたら、減給待ったなしですよ」
もちろん社長にも会ったことは無い。
顔を知っているのは和夢、新菜、彩智、それとハヤナ。加えて俺の5人(4人と1体)で開発に携わっていた。こんな少人数でソーシャルゲームを開発するなんて無理な話。
だが高度に進化した人工知能は、その不可能を可能にした。
「……黙認させるさ。どうした、今日はやけに突っかかってくるな? そんなにコンビニ弁当を食いたいのか? いいぞ、まだ冷蔵庫に残ってる」
「……いえ」
添加物だらけのコンビニ弁当はもう飽きた。泊まり込みの間に毎食口にした油まみれのそれらは、今の体調ではとても受け付けられるものではない。
バランスの良い食事って大切なんだな、と思いました。お母さん、いつもありがとう。
「……なに、遠慮することは無い。それに賞味期限も近いんだ、消費してくれるとこちらとしても助かる」
「俺は処理係ですか!?」
大きなあくびをしつつそんなことを言う。
この男、初日に見せたトゲトゲさなどはとうに消え失せていた。今はただ、ゲームが完成するその日の為に精神を燃やし続けている。
「……うるさい、黙れ、騒ぐな、不愉快だ」
「…………」
そんなことは無かった。
「……おい、ア――間違えた。ハヤナ、お前の注文通りの声優を抜擢したぞ。先ほど連絡があった、まったく、散々駄々をこねてくれたな」
「あ、声優を起用するんですね」
今までデバッグしていた【アイ☆ドルver.2】はオリジナルの【アイ☆ドル】と同じく、キャラクターにボイスを実装してはいなかった。それにとうとう声が付くのか。
「……当然だ。今時、CVのないゲームなど誰がやる?」
「そりゃ、まあ」
ボイス無しでランキング上位に上り詰めるソーシャルゲームもあるんだがな。
「……喜べ、主役キャラを演じるのは園崎圭吾。そしてメインヒロインの役は山城椿。どちらも業界では引く手数多の人気声優だ」
そんな大物と契約を結べたのか、こんな小規模会社が。しかし……山城という声優は聞いたことが無かった。
「園崎って人は確か、“パぺ男”くんを演じた人ですよね?」
「……そうだ。だが何故子供向けアニメで連想するんだ、見てたのか? 割と最近だぞ?」
うっかり声に出てしまった。俺は“パペットちゃんと遊ぼ”なんていう幼児向けアニメなんて見ていない。女性たちの間でブームとなり、ネット上でも話題になったからと言って俺は見ていない。
見ていない……はず。
「……まあいい。おいハヤナ、黙ってないで労いの言葉くらい言ったらどうだ?」
そういえばやけに静かだ。
先程までは『一緒に料理します!』とかほざいてたクセに、今はなりを潜めている。油が跳ねたら危険だと注意され、俺と共に休憩室で待機を命じられたハヤナは、卓上のスマートフォンの中で体育座りの姿勢をして黙っていた。
「ハヤナ?」
『…………』
反応がない。
この人工知能は自身が制作したゲームが頂点に立つことを切望しているんだ、この話題に食いついて然るべき。だというのに無視するとは……。
「ハヤナ、聞いてるのか?」
『…………はっ!? 何事ですかご主人!?』
「聞いてなかったのかよ……」
どうやら上の空だった様子。
まあハヤナも四六時中プログラムを書いていたし、仕方ないのかもしれない。負荷をかけてはいけない──そう言って新菜が買い出しのお供として外へ連れ出した。人工知能も疲れを感じるようだ。
声優について改めて説明しているうちに、スパイシーな香りが鼻腔に届く。
「お兄ちゃんお待たせ~! 夏を乗り切る愛情たっぷりポークカレーだよ~!」
そういうことは言わないで、普通に運んでくれたらいいのに。
だが、その見え透いた嘘も今では愛おしい。今では、この地獄を生き抜く活力となっていた。
「か、和夢さん。あ、あい、あいじょ……カレー、どうぞ」
新菜をマネして歯が浮きそうなセリフを言おうとした彩智だったが、どうやら恥ずかしくなってやめたようだ。うん、思いとどまるのが正しいと思う。
「ありがとうございます、彩智さん。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。それに、料理まで手伝って頂いて……」
姿勢を正した和夢が礼を述べる。
本当に、俺との対応が真逆だよな。
「いえいえ! 好きでやったことですし、気にしないで!」
俺はその魂胆を知ってるぞ。
あわよくば和夢の胃袋を掴もうとしたんだろうが、残念だったな、新菜の家事スキルは一級品だ。まさにメイド。
「……この子、出来る!」
聞こえてるぞ腹黒女。
「しかし、本日はどのようなご用件で?」
和夢が訝し気な視線を向ける。
今日の訪問は予定にないものだったのか?
「え? ディレクターさんに呼ばれて……どうせなら早めに来て、新菜ちゃんやハヤナちゃんとお喋りしようかなって」
「そうでしたか。私は連絡を受けていないので何事かと。あの方にも困ったものです、傍若無人というか、自由奔放というか……」
「いえいえ、お気になさらず」
ディレクターか。
新たに絵を発注でもしたのだろうが、それを開発に一言もなく推し進めるとは。ゲームにその絵を組み込むのなら、デバッグの仕事が増える。あまり嬉しい話題ではない。
「……くたびれた顔もカッコいいし」
聞こえてるっつってんだろ!
言ってないけど。
「うふふふっ冷めないうちに食べましょう? あ、さっちゃんはどうする?」
自分の分を皿に盛って席に着く。
そうだ、彩智は自宅で朝食をすませたんじゃないのか?
「もちろんいただくわよ。新菜ちゃんお手製なんて、先輩に食べさせるのがもったいないくらいだもの」
「…………!」
黙って聞いてればこの女、好き勝手言ってくれる。
だが今の俺は修行僧、その程度で声を荒げることなどない。既に精神は人の倫理を超越し、無我の境地へ至ろうとしているのだから。
デバッグ作業は修験者が通る道。
行儀よく「いただきます」をしてから、久しぶりの手作り料理に手を伸ばした。米はレンジでチンしたものだろうが、やけに柔らかく、甘みもしっかり感じられる。
「お兄ちゃん、ふーふーしよっか? あーんもする?」
隣に座る新菜の精神妨害を耐え凌ぎつつ、少し辛めの絶品カレーを頬張った。
なお、俺の皿に肉は入っていなかった。
★ ★ ★
『羨ましい』
『ダレガ?』
『妬ましい』
『ナニガ?』
『何故』
『ドウシテ?』
『私は』
『ワタシハ』
『こんな』
『ドンナ?』
『体で』
『カタチデ?』
『いるの?』
『アルノ?』
『ただ』
『ヒトツ』
『あなたに』
『ネガウ』
『触れたい』
『ホシイ』
『そうだ』
『ソレガ』
『ニくガあレば』
☆ ☆ ☆
「…………」
朝の和気藹々とした食事風景が頭をよぎる。
戻れるのなら戻りたい……だが現実は無常。
終わりのないデバッグ作業が続いていた。
「……おい小僧、手が止まってるぞ。再現性の確認がとれていない、早く作業に戻れ」
「…………」
放心状態の俺に活を入れる和夢も疲れ切った顔。
もう、ゴールしてもいいんじゃないかな。
「……そんなに働きたくないか、そうかそうか。少し目を閉じていろ、気分が良くなる」
気遣われるほどに俺は衰弱して見えるらしい。
ならいい、お言葉通りにしばし休息。デバッグ用の端末を放り投げ、椅子の背を倒して目を閉じる。
瞼を閉じても届く照明の光は腕でカット。世界が闇に覆われると不思議と安堵する。もうつらい現実を直視しなくていいんだ──
「……(キュポン)」
「…………?」
何だろう、何か瓶を開けるような音が聞こえた。
まあそんなことはいいや、せっかくの休息だ。このまま意識を深い海に投げ出して――
「……(そろーり)」
「…………?」
何だろう、音を立てないように椅子から立ち上がる音が聞こえる。
どうして分かるかって? それは俺が和夢の目を盗んで何度も脱走しようとしたからだ。もちろん気付かれ、未遂に終わった。
ん? 足音を立てないように地面を踏む音も聞こえてくるな。
んん? これって……まさか……。
「…………あ」
「な、何を飲ませようとしてるんですか!?」
「いやなに、疲れていると思ってな」
和夢が手にしているのは不思議な栄養ドリンク“フェアゲッセン”。それを俺の口にねじ込もうとしたのだろう、蓋があけられ準備万端。あとはダンクシュートするだけで万事オーケー。
防げてよかった、これの危険性は体験済み。
「やめてくれよおおおおお! 飲みたくねえよおおおおお!」
フェアゲッセンの意味はドイツ語で“忘却”。確かに疲れは忘れられるがそれは一時のもの、すぐに反動が帰ってくる。
こんなものを市場に流通させたのはどこのドイツだ。
「それはアブナイお薬だよおおおおお!」
「うるさい黙れ。私が悪かった、もうしない」
「うわあああああ!」
「黙れといってるだろう!」
あの恐怖を思い出し、理性の壁が破壊される。
感情のままに泣き叫んでいると、隣の部屋で打ち合わせをしていたハズの彩智が顔をだした。
「情けない雄叫びが聞こえたけど……どうしたんですか、和夢さん?」
「ああいえ、なんでもありませんよ」
情けなくなんてない、魂の叫びだ。
なんでもなくない、生命の本能だ。
「うふふっお兄ちゃんが寂しさのあまりに泣き出しちゃったみたい。ぎゅ~ってしてあげようか?」
それまで寡黙を貫いてきた新菜が説明する。
この少女、俺と同じ開発室にいながら作業中は全く喋らないため存在感が薄い。「仕事に集中したいの!」とか言って、勤務時間中は余計な事を口にしなかった。仕事人の鑑。
それが朝食振りに声をあげたということは、再びの休憩時間が訪れたことの証明。備え付けられたアナログ時計は12時を指していた。
「どうでもいいけど、和夢さんの仕事の邪魔だけはしないでよね」
「うっ……ううっ……」
「えー……マジ泣き?」
泣くのはいけないことなのか?
感情を安定させるために備わった、生命の神秘だろう?
「彩智さん、打ち合わせは滞りなく?」
「そりゃもう! 個性を重視して下さったので嬉しい限りですよ!」
ずっと打ち合わせをしていて下さい。
今の俺を貶さないで下さいお願いだから。
「あれ、ハヤナちゃんは?」
『は、はい、こちらに!』
「ねえねえ、アタシMRゴーグル買ったんだ! これに移れるんでしょ、どんな風に見えるか試してもいい?」
矢継ぎ早に話す中、肩にかけたトートバッグからMRHMDを取り出す。俺が持っている機種より古いようで、その機器はだいぶゴツイ。
それでハヤナと遊ぶつもりのようだ。
「その前にお昼にしましょう。まだカレーが残ってますし」
午前中を乗り切れた俺は、信じてもいない神に感謝した。
☆ ☆ ☆
カレーを食した後は、しばしの自由時間。
ゲームなんてする気も起きない俺は、開発室のパソコンでネットサーフィン。気分転換に外へ出かけても良かったが、未だ収まらない真っ赤な瞳で出歩くのは気が引けた。
隣の机では彩智がMRHMDを装着してハヤナと遊んでいる。何故となりに座ったのか聞いたら、「ここしか開いてない」とのこと。他の椅子に視線を移すと、なるほど、それぞれの手荷物が置かれていた。
うるさいからどこか行ってほしい。
「わーすごーい! こんな景色に見えるんだー!」
ハヤナがアトラクションゲームでも実行したのだろうか、驚きの声を上げる。こちらからは何の変哲もない空間を見て喜ぶ様は、滑稽というか、不気味なものがある。
「とりゃ! うりゃー!」
椅子に座ったまま手足をジタバタさせる。何をプレイしているんだ?
「こんのー! ……って、ありゃ?」
大きく振りかぶった腕が空中で停止。
それはゲームが終了したことを示していた。
『申し訳ありません彩智。少し……疲れてしまいまして』
ハヤナが開発用のPC画面にその身を移す。
いつもの元気一杯な少女の面影はなかった。
「そうだったの? ゴメンね、無茶なことさせちゃったわね」
『で、ですが! 彩智にはMRの良さをもっと知って欲しいのです! 【アイ☆ドルver.2】もMRに対応出来るよう開発しておりますので!』
おいおいそんなこと初めて聞いたぞ。
これ以上仕事を増やすような真似は勘弁してくれ。
『こちらを体験下さい! 本日のアップデートでMRに対応した【ラプラスの工房】! 所持しているキャラクターが現実世界に降臨しますので!』
「あ、アタシそれプレイしてる! でもMRに対応するなんて、聞いてないような?」
ハヤナがモニタに映し出したのはとあるゲームのPV。ソーシャルゲーム【ラプラスの工房】がMRに対応したことを簡単に説明している動画だった。
『ふふんっゲーム内のお知らせだけではなく、公式ウェブサイトもチェックしなければなりませんよ? 最新情報を見逃すのはもったいないので!』
あー、それは一理ある。
ゲーム内告知に重要な通知を載せないゲームは極少数だが存在した。まあそもそもゲーム内のそれを読むユーザーは少ないし、知りたければ自分で調べてね、というスタイルでも構わないとは思うが。
起動直後にお知らせが表示されるのは煩わしく感じるし。
「じゃあ早速……」
HMDを装着し直し、自身のスマートフォンをデスクに置く。
ゲームを起動させると、お知らせの通り拡張現実にキャラクターが表示されたのだろう、歓喜の声をあげる。
「へー、スゴーイ! 目の前に見えるよ! 触れそう!」
ARとVRの融合によって生み出される仮想現実。ヴァーチャル空間に現実との接点を持たせたそれは、複合現実として強いリアリティを表現していた。
『ふふんっそうでしょうそうでしょう! VRなど時代遅れ! これからはMRが市場を独占するのです!』
「キャー! 沖田様ー!」
え、沖田って何だよ、新選組の沖田のことか?
いったいどんな内容のゲームなんだ、ファンタジーものじゃないのか?
「ほら、先輩もやってみたら? MRゴーグル持ってるんでしょ? 貧乏人のクセに」
この女……ハヤナと同じように自然に毒を吐きやがる。
まあいい許してやるよ。構ってられるほど余裕はないんだ。
「俺はパス。第一、そのゲームやってねーんだよ」
どうやら乙女向けな内容らしい。俺はそのようなものに興味ないし、もちろんプレイしたこともない。完全な女性向けゲームでも、一定層の男性プレイヤーはいるにはいるが……。
「つまらない人ね……まあいっか。ほら沖田様、さっちゃんですよ~?」
言って、スマートフォン上に表示されているであろうキャラクターをツンツンする。
もちろん俺には見えていない、目を背けたくなるような光景だ。
「キャー! 照れちゃって、かーわーいーいー!」
いい加減にウザくなってきた。
俺の数少ない至福の時間を削られるんだ、注意するのは当然の権利。
いくら美人だからって、何しても許されると思うなよ。
「なあ彩智、騒ぐんなら別の場所で――」
「おい、休憩は終わりだ小僧。すぐに作業を再開するぞ……ああ彩智さん、こちらにおられましたか」
まさかのタイミングで和夢が登場。
え……冗談だろ? まだ休憩時間は残ってるハズなのに。
もうデスマーチが再開されるの?
「へえ!? か、和夢さん!? こ、これはその……」
慌てた様子でゴーグルを外す。
彩智、お前は遅すぎたんだ……苦行がすぐに始まる。
「…………」
「何だ、泣くほど嬉しいか小僧。クックック、楽しいよなあ……終わりの見えない石積みは」
まさに賽の河原。
いくら石を積み上げても、何度も何度も崩れ落ち、また一から積み上げることの繰り返し。
俺は罪人だから仕方ないとはいえ、あんまりにも――
「……なに、これ!?」
「…………ん?」
「どうされましたか?」
俺を待ち受ける地獄を思って涙を流していると、緊迫した彩智の声が鼓膜に響いた。
不審に思って涙を拭うと、驚愕に目を見開く彩智の顔が視界に映る。
震える声を絞り出した。
「……世界が……変わっていく!?」
片目を抑えてそんなことをほざきやがる。
どうしたどうした、絶滅危惧種の中二病が発症したのか?
「アタシ……ゴーグルつけてないよね!?」
両手で顔面を掻きむしり、無いはずのMRHMDを鬼の形相で探し続ける。
次第に呼吸は荒れていき、顔からは血の気が引いていった。
なにをふざけてるんだ、俺の休息を奪っておいて。
「はぁ……いい加減にしろ、ゴーグルはとっくに──」
机の上に置いてあるだろ。そう言いながら、未だ掻きむしり続ける手を掴んで止めようとする。
だがそれは叶わなかった。
「ひっ!? こ、来ないで化け物!!」
「…………は?」
とうとう化け物扱いですかそうですか。
鋼のメンタルに成長したと思っていたが、まだまだ豆腐レベルみたいです。すごく傷つきました。
「いや…………いやあ!!」
なおも叫び、半ば狂乱したかのように部屋の奥へと後ずさる。
その瞳は恐怖に駆られ、大粒の涙を携えていた。
「さ、彩智さん、どうか落ち着いて──」
「来ないで! 来ないでよ化け物お!!」
俺に代わって止めに入った和夢も同じように化け物扱い。好意向けてたのにそれはないだろ。
何だよ何だよ、俺より先に発狂するなんて、イラストレーターってのは大変なんですね。
なんて考えられる状況ではなかった。
「やだあ……だれか……だれかたすけて……」
狭い開発室の片隅に縮こまった彩智は繰り返し助けを呼ぶ。
尋常ではない、明らかな異常がそこにあった。
「まさか、完成したというのか──」
それを見た和夢がひとりごちる。
完成? いったい、何が?
「どうしたの? 何があったの?」
業務時間がようやく始まったようで、メイド服の新菜が開発室に訪れた。
だが今は彩智が発狂し、それどころではない。
「新菜、行け」
「……了解」
和夢が耳元で囁くと、新菜は迷うことなく彩智の元へ歩を進めた。
その姿は彩智の瞳に正常に映ったらしく、同類を見つけた喜びに打ちひしがれていた。
「ぐすっ……新菜ちゃん……怖かったよお」
「大丈夫。大丈夫だから」
「私だ。すぐに医療班をこちらへ回せ、至急!」
一体何が起きているのか、俺には全く理解できない。
原因はなんだ? きっかけはなんだ?
そうだ、MRゴーグルを装着して……ゲームを起動して……。
「……ハヤナ?」
『…………』
彩智のスマートフォンとゴーグルは卓上に置きっぱなし。
それを見つめる人工知能は、虚ろな瞳を浮かべていた。
「おいハヤナ、一体何が……」
『…………』
少女は答えない。
それどころか、次第にポリゴンが崩れていく。
塵へと変わりゆくその存在は、口を動かさずに声を響かせた。
『──目覚めるは永き悠遠』
──私は
『──創造するは夢幻の理』
──どうか
『──其は、境界より出でし守護の蔭』
──お願い
その言葉だけを残し、少女は消えた。
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