自殺志願者は生きている

板本悟

一体、誰の死に様なのか

 静かな空間にページをめくる音とペンでメモを取る音だけが聞こえる放課後の図書館が僕は好きだ。時折聞こえる他人の話し声もそこまで気にはならない。読み終わった小説を書架に収めて次の本を探し始める。うちの学校には一般小説のみならずライトノベルも置いてあり、その手のものは人気が高い。月一回配られる図書館広報紙に掲載されている貸し出し数ランキングの半分ほどはライトノベルがランクインしている。残り半分は映像化などで注目を浴びるベストセラー本である。で、僕はほとんど読む人がいなさそうな小説を片端から読んでいる。理由は、まぁ、特にない。昔のように本の後ろに貸し出し記録が入っているわけではないので実際その本をどれだけの人が読んだかもわからない。ただの自己満足である。


 結局興味を惹かれるタイトルの本は見つからず、僕は図書館を出た。


「おっ、今日は意外と早かったな」

「え?ずっと待ってたの?彼女かよ」


 図書館の外の柱に体をもたれかけ、僕に話しかけてきたこの男子生徒は松本蒼真という。いわゆる幼馴染というものだ。小学生の頃からの付き合いなので厳密な意味では違うのかもしれないが、広義的には同じだろう。

 僕たち二人は適当な会話を続けながら駐輪場まで歩く。


「まあ、その辺の女よりかは普通にお前の方が可愛いとは思うけど彼女にしたいとは思わないな」

「ああ、なんだ。用事がある彼氏を健気に待つ彼女役を演じているのかと思ったら粘着気質なストーカー役を演じてたのか」

「よくわからないがひどい評価だな、それ」


 蒼真が肩を落として隣を歩くのを見てとりあえず満足した僕は話題を変える。


「で?結局なんで待ってたんだよ」

「おっ、そうそう。それなんだよ」


 どれなんだよ。話してくれないと全くわからない。


「今度の文化祭で女装コンテストがあるらしいんだよな」

「出ないぞ」


 少し食い気味になった。


「いや、相談じゃなくて報告」

「報告?」

「そう。もうお前の名前で立候補しておいたから」


 僕は首を回して周囲に人を殺せそうなものを探す。が、さすがに学校にそんなものはなかった。


「うわあ、怖い顔をしている。反応の予想はしていたけど、予想以上だな」

「いいのか?こんなことして。これで次の日僕が自殺をしていたらダメージはきっとお前にも残るぞ」


 その場合、僕は確実に死んでいるけれど。うん、あまり僕にメリットはないな。女装コンテストに出なくて済むくらいか。


「でも、いいのか?自惚れているわけではないけれど、というか、こんなことで自惚れたくはないけれど僕以外にこの学校で女装が似合うやつはいるのか?」

「いないな」

「いないのか?いないよな。無理だろ」


 いないのにコンテストなんか開けるのだろうか。参加者が僕一人だったら家でやる一人ファッションショー並みに虚しいな。


「つまり、ネタで出るやつに紛れてお前が本気の女装をして出ることになる」

「嫌だよ。せめてネタだと一目でわかるようなものにしてくれ」


 自転車の鍵を開けて駐輪場から引き出し、またがる。


「それじゃあ意味がないんだよ」

「意味?そりゃあ、僕が女装コンテストに出る意味はわからないけれど」


 蒼真はバツの悪そうな顔をして目を背ける。


「怒らないでっていうのは流石に虫が良すぎるから言わないけど、暴力を振るのはやめてくれよ」

「おいおい、僕はガンジーの精神を受け継いでいるんだぜ。なぜか女子にはモテないけれどそれでも非暴力非服従の精神は残っている」


 ガンジー非公認なので勝手に吹聴しているだけだけど。それでも暴力を振るうことはほとんどしない。


「文化祭実行委員でミスコンを開こうとしたんだが、女子の反対を受けてな」

「それで今年はミスコンじゃなくて女装コンテストなのか」


 男子の反対は女子には効かないのだろうか。身体的力関係は男子の方が上だが、精神的な面やこういった話し合いの場においては女子の意見の方が強いらしい。単にこいつが女子に嫌われたくなかったからな可能性もある。


「いや、ミスコンは今年も開催されることになった」

「は?」


 少し間があいた。僕は僕で思考が停止していたし、蒼真は蒼真で気まずそうに目をそらして黙っている。

 僕は思考を再開させ一つの仮説を立てる。


「じゃあ、あれか?ミスコンを開く交換条件として女装コンテストも開くことになったとか、そんなところか?」

「ん。まあ、そんなところだ」


 明らかに嘘なのはわかるのだが僕は追及をやめた。このまま続けたところで事態が好転するとは思えないのでせめて当日まで知らないことにしておこう。これもなんの解決にもなっていないのだけれど積極的に現実逃避したかった。


 駅の近くに着くとスロープを下って駐輪場に入る。整然と並んだ自転車の隣を抜けて自分のラックの近くまで行き自転車を止める。ラックを下ろし、自転車を乗せて上に持ち上げ元に戻した。わざわざ上のラックにしているのは単純に安くなっているからだ。私立の高校に通っているけれどうちはそこまで金銭的に余裕があるわけではないので日々の節制は重要だ。


「今日どうする?なんか食って帰るか?」


 駅の近くに出る階段の前に着くと蒼真はもうそこにいて僕にそんな話を振ってくる。僕は階段を上りながら答える。


「いや。今日は姉が帰ってくるからね。帰るよ」

「そうか」


 改札を抜け階段を上るとちょうど電車が出てしまったところだった。次の電車まで十分ほど待つ。


「ところで、お前のお姉さんって今いくつだっけ?」

「えっと、二十一かな。確か」

「確かって自分の姉だろうに」


 いつも学年でしか考えてないから年齢を聞かれてもとっさには出てこない。それは自分の年齢も同じだ。


「で?どうして姉の話なんか」

「いや、お前のお姉さん美人だろ?彼氏とかいるのかな、と思って」


 下衆な欲望が目から伝わってくる。目は口ほどに物を言うとは本当らしい。


「確かいたは……ず?」

「曖昧だな」

「姉の恋愛事情なんか知らないよ」


 姉は別に彼氏がいることを隠したりはしないけれど吹聴したりもしない。それに大学生なんて学校に行ってるんだかバイトしてるんだか買い物してるんだかわからない。毎日決まった時間に家を出るわけではないので予定の把握がしづらく、彼氏とデートでも家族は気づかない。


「まあ、そりゃあそうか。でも彼氏がいても不思議じゃあないよな。可愛いし、お前ら姉妹」

「姉妹じゃない。姉弟だ」

「可愛いことは否定しないのか」


 舌打ちをしたくなる。苛だたしいけれど舌打ちをしたらさらに蒼真にからかわれるだけなので絶対にしない。

 一度落ち着いて言葉を紡ぐ。


「……卑怯だよね、お前」


 落ち着いているとは言い難かったかもしれない。恨み言しか出てこなかった。


「策士と呼んでくれ」


 ドヤ顔が腹立たしく苛だたしい。


「勝手に溺れてろ」


 そのまま死んでくれたらモアベター。事前に連絡をくれればきちんとアリバイを整えておく。


「……辛辣だよな、お前」

「辣油と呼んでくれ」




 変な間が空いた。



 まもなく、一番線に電車が参ります。黄色い線までお下がりください。



宿井〜〜、宿井〜〜、ご乗車ありがとうございます。


一番線、ドアが閉まります。ご注意ください。



「んんっ。えっと、うちのクラスは文化祭でなんかやるのか?」

「えっ?ええと。ああ、うん。いや、特には聞いていないけれど」

「そうか」


 気まずい空気を変えようとせっかく話題を振ってくれたのにさらに気まずくさせてしまった。

 さて、どうしようかな。


「次の定期テストっていつだっけ?」

「ん?三週間後、だったかな?たしか」

「意外とすぐだね」


 学校に通っていると割とすぐに三週間なんて経ってしまう。そろそろテスト勉強に入らなければ復習しきれないかもしれない。


「でもまあ、お前なら余裕なんだろ?」

「ん、いや、そうでもない。毎回ギリギリだよ」


 実際、そこまでいい点数を取っているわけじゃない。


「お前でギリギリなら俺はどうなんだよ」

「アウト」

「辣油だなぁ」


 引っ張るんじゃねえよ。


◆◆◆◆◆


 蒼真と最寄駅の改札で別れてから僕は歌いながら歩いて帰った。歌詞はほとんどうろ覚えだからかなり適当。同じ歌詞を一番と二番で繰り返したりしている。まあ、別に何だっていい。人に聞かせるために歌っているわけじゃないし、気まぐれに気を紛らわせようと思って歌っているだけだ。わざわざ歌詞を調べようとも思わない。


 マンションについた。アパートとマンションの違いがよくわかってないので正確にはアパートなのかもしれないが、マンションだと思えばマンションだ。

 マンションの四階の一室に僕と姉と母の三人で暮らしている。ドアの前についている電灯は切れてしまっているのか他の部屋の前にあるものとは違って点かない。最初はそれが不吉だと思っていたのだけれど、もう慣れてしまった。


 ただいま、と言ってドアを開ける。まだ姉は帰ってきていないようで部屋——僕の家全体が暗い。とりあえず玄関の電気と玄関からリビングにつながる廊下の電気をつけた。それから廊下の手前右側にある自分の部屋に入り、荷物を置く。自分の部屋の電気もつけた。

 玄関と自分の部屋の電気を消してリビングに向かう。リビングの電気をつけてから廊下の電気を消した。台所の水道で手洗いうがいを済ませる。

 ソファに座ってテレビをつけた。人の声が部屋に流れる。そこでようやく落ち着いた。一人でいるのは好きだけれど、人の声が聞こえないと不安になる。怖がりでもなく、人恋しいわけでもない。


 戸が開く音がした。どうやら姉が帰ってきたようだ。ただいま、と聞こえた気がする。おかえり、と呟くけれど絶対に聞こえていない。


 リビングの戸が開いて荷物を置いた姉が入ってくる。


「ただいま」

「おかえり」

「ご飯、お母さんなんか言ってた?」

「ん?昨日の残りと、米二合。炊飯器の中」

「あそ」


 ほとんど文章になっていない会話は家族ならではだろう。他の人にも何となく伝わる程度の会話にはなっていると思うけれど、普段はこんな会話はしない。相手が蒼真であっても、だ。


 冷蔵庫の中から昨日の残り物とサラダを取り出してテーブルに並べる。ちなみに残り物は電子レンジを一旦経由している。残り物が温まるのを待っている間、麦茶やドレッシングをこれまた冷蔵庫から取り出してテーブルに置く。

 お茶碗にご飯を盛り、皿と一緒に並べたら仕事終了。


「いただきます」

「いただきます」


 姉と相対して座って黙々と食べる。何を話したらいいのかよくわからない。テレビの音、食器の音、咀嚼音がただひたすらに続く。こんな気まずく感じられるような時間も一人でいたときよりはマシに思える。


「ごちそうさまでした」

「食器、置いておいて」

「はいはい」


 姉より後に食べ終えて、食器をシンクに置いた。姉は自分で買ってきた食後のデザートを食べている。どうやら僕の分は無いようだ。

 後片付けは姉に任せて僕はソファに寝転がる。テレビの音、食器の音、水の音、姉の鼻歌を聞き流して微睡む。


 三十分ほど経った頃、姉の鼻歌がやんだ。どうやら後片付けは全て終了したようだ。

 姉がソファの上の僕の足の上に座る。変に曲がって痛い。


「ね、流星群見にいこうよ」

「いつ?」

「今から」

「見えんの?」

「さあ?」


 ため息ひとつついて僕は体を起こす。姉の下から脚を引き抜いて立ち上がる。


「なんだかんだ来てくれる優しい弟が私は好きだよ」

「うるさい」


 別に、特にすることもないし。……勉強以外は。

 僕はクロックスもどきを履いて玄関から外に出た。姉も自分のサンダルを履いて外に出る。


「どこで見るの?」

「ん?屋上かな」


 そう言って姉は階段を登る。僕はその後をついて行く。

 このマンションの屋上は解放されていない。屋上につながる階段には鍵がかかっている。だから僕と姉は階段の一番上を屋上と呼んでいる。


 屋上から見る星空はいつもとたいして変わらない。都市部ではないけれどそれなりに街灯が灯っているので見える星の数は少ない。本当に流星群が見えるのか怪しい。

 けれどまあ、姉がその手の知識を手に入れてくる場合、だいたい情報源はテレビだ。よって、おそらく今回の流星群は都心でも見られるのだろう。


 しばらく夜空を眺める。それ以外特にしなかった。こんなに暇になるなら勉強道具でも持って来ればよかった。英単語とか社会科の一問一答くらいなら詰められただろうに。

 けれどわざわざ取りに戻るのも憚られた。取りに行っている間に流れでもしたら虚しい。

 姉も暇そうにスマホを弄りだした。


「どの方角に見えるの?」

「んー?知らない」

「調べてよ」


 姉がスマホで調べる。


「どこでも構わない」

「は?」

「だから、流星群」


 姉は少し声を大きくする。


「どこでも構わない、だって」

「つまり、全方位見てなきゃいけないってこと?」

「全方位にいっぺんに降るんじゃない?」


 そんな地球が滅びそうな流れ方をするんだろうか。


「飽きちゃった。先帰るね」


 そう言って、姉は先に家に帰った。勝手な人だ。僕はなんとなくしばらく屋上にいることにした。階段の手すりにもたれかかって夜空を見上げる。

 記憶や時間の流れが飛び飛びなのでうとうとしているのだと思う。傍から見たらいい年して家から追い出された残念な少年として映るかもしれない。


 少しの間、そうして流星群を待ちながらうつらうつらとしていると近くに人の気配を感じた。ほとんどしないかすかな足音が止まる。人が動いたときに聞こえる衣擦れの音がしたかと思うと、僕の足がふっと浮いた。

 足に人の手の感触を感じる。持ち上げられたことに気がついて意識が覚醒する。


「誰、っだ」


 僕の足を持ち上げた人間が誰なのかを確認しようとして失敗した。というより、手遅れだった。

 柵にもたれかかっていた上半身が柵の外、下の方向に傾いて、その後足が上半身を追い越した。高飛び込みのようにくるりと回りながら下に落ちていく。違う点といえば下が水ではなくコンクリートであるということだろう。

 何度か回って再び顔が空の方向に向いた。全ての星が流れているように見えるのはおそらく自分が回っているからなのだろう。しかし、それでも美しいと思った。見える星の数は少なくても確かに見えるのだ。月まで流れているのはきっと世界がそろそろ終わるからなのだろう。


 もう終わりが近い。地面との距離がどんどんと短くなっていく。それを自覚してようやく走馬灯が見えた。登場人物が少なかったことは笑い話として後で誰かに話してあげようと思ったところで僕は地面にぶつかった。重力に位置エネルギーから変換された運動エネルギーが加わってかなりの力になっている。ぶつかった場所からぶつかっていない場所まで全身に痛みが渡って、僕は意識を失った。


 高校二年の九月初めのことである。

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