二匹の龍

 赤い窓枠を覗き込み、コンフェッティは嬉々として、モン・サン・ミッシェル伝統のオムレツ店のドアをくぐった。

 昼どきのオムレツ店も混雑していて、空席はない。

 しかし今度こそ、コンフェッティたちのために、テーブルは確保されていた。

 アニスを見舞う地味なトラブルは相変わらず続いていた。アニスの名では予約が通らない中、コンフェッティが連絡をすると、すんなり一席が確保でき、コンフェッティ姉弟はついに、オムレツとの念願の対面を果たせるのだ。


 ワインで喉を潤しアニスを待ちながら、コンフェッティはミニュイに、このオムレツの歴史を語ってきかせる。

 傍から見たらそれは、オムレツが楽しみなあまり犬にまで話しかけている危ない人、であったが、コンフェッティは気づいていなかった。


 この島を訪れる巡礼者のために、オムレツは作られ始めたのだという。

 引き潮の中を命がけで渡って来た巡礼者たちに、栄養をつけてもらおうと考え出された食事だったそうだ。巡礼者たちの中には肉などを断っているものもいたし、輸送手段の限られたこの島で、安定して供給できた卵やバターを使うメニューとして、このオムレツが生まれたのだ。

 話している間に理性のタガが外れてしまったコンフェッティは、ミニュイが目線で止めるのも聞かず、勢い、オムレツを注文した。


 そして、今。

 コンフェッティの目の前に、ふんわりとスフレ状に焼き上げられたオムレツが、運ばれてきた。

 あれほど心待ちにしたオムレツは、皿に運ばれてくる間も、ふるふると小刻みに体を揺らし、コンフェッティを蠱惑的に誘った。ほのかに香るバターの香り。

 ごくりと喉を鳴らして、コンフェッティがナイフを突き立てると、その切れ目から泡があふれ出る。表面を焼き上げられた卵と、中のふわふわの泡とが、口の中で交わり、やさしく、やわらかく溶けていく。春の淡い雪解けのような味わいに、コンフェッティはすぐに消え去ってしまうひと味、一味を追いかけるように、また一さじを口元に運んだ。


 店を訪れたアニスが目にしたのは、三皿目を平らげてもなお、一口ごとに感動する弟の姿だった。いつものこと、とでもいうように、肩をすくめて見せるミニュイの頭を軽く撫でて、アニスは席につき、自分の料理を注文した。

 

 彼らの食事を待つ間、ミニュイは店内を見渡した。

 壁の一部は、岩肌がそのままのぞいていて、この島の昔の姿を垣間見せてくれるようだった。壁には、この店を訪れた世界中の有名人の写真やサインなどが額に入れられて飾られている。

 その中のひとつに、目がとまった。

 猫の絵だ。

 白猫ではなく、毛足のながい、もふもふとした猫の線画だったが、思った通りに、フジタの名がサインされている。

 ミニュイは、コンフェッティに視線を向け、合図を送る。

 何度も、絵の方向を目線で知らせるのだが、コンフェッティはまるで気が付かない。らちが明かない、と判断したミニュイは、壁際まで走り、ぴょんぴょんと飛び上がる。ようやく気が付いたコンフェッティは、目を丸くした。

「レオさんの絵じゃないか」


 コンフェッティが指さした先には、運の悪いことに、ワイングラスがあった。アニスが小さく声をあげ、折悪しく運ばれてきた彼女のオムレツに、グラスが沈み込んでいくのを哀し気に見守った。


 すぐさま店員が飛んできて、アニスのオムレツは、作り直されることになった。

「災難ですな」

 隣席から声がした。白髪混じりの柔和な紳士が、丸眼鏡の向こうに、人懐こそうな笑顔を浮かべていた。コンフェッティはその顔をじっと観察する。どこかで見かけたような面差しだ。

「お好きなのですか、レオナール・フジタ」

 そうだと答えると紳士は、絵がこの店にかかった日のことを、懐かしそうに教えてくれた。


 夏の暑い陽射しの中で、当時子どもだった彼は、兄弟の誕生日を祝いに店に来たのだそうだ。美術を愛好していた兄弟の父が、すぐに画家に気づいた。父の進言で店がフジタに一筆を求めると、瞬く間に紙の上にふわふわの猫を描き出して、兄弟を驚かせた。数年前にフランス国籍を取得した東洋出身の画家に、父が賛辞を浴びせて握手を求めている間、兄弟はフジタの傍らの紳士にも惹きつけられたのだという。店でもオムレツをたべることはなく、ただシャンパンを飲み、ボンボンをつまんでいたそうだ。紳士は、少年小説に描かれていたサンジェルマン伯爵のようだった、と笑みを深めた。


「サンジェルマン伯爵……、ですか」コンフェッティとアニスは思わず顔を見合わせる。

「お若いあなた方はご存じありませんか。不老不死だったと言われる――」

「いえ、よく知っています」

「伯爵はお酒と丸薬しか口になさらないそうですわね」

「おお! あなた方とは気が合いそうですな。サンジェルマン伯爵は東洋の知識も豊富でしたからな、フジタと接点があっても、不思議はありません。もちろん、もし存命なら、の話ですが。ロマンを掻き立てる人物です」

 コンフェッティはサンジェルマン伯爵の枯れ木のような指先を思い出す。途中から興味を失って、ただ愛想笑いを浮かべて頷いていただけのコンフェッティは、ひとしきり会話に花を咲かせた紳士の提案に、意識を呼び戻した。

「希少本だって!?」

「ええ。たった175部しか発行されなかった、ジャン・コクトーとレオナール・フジタの『海龍』というとても貴重な本です。兄の元に預けてあるのですが、サンジェルマン伯爵の理解者であればきっと兄も喜んでお目にかけるでしょう。なにしろ、兄も私も、あの夏の日が忘れられないまま、歳を重ねてきたんです」

 いたずらそうな笑みが、本屋の主と重なる。コンフェッティはミニュイと顔を見合わせた。

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