二匹の龍 2

 書斎とも、書庫ともいえる空間には、床から天井までびっしりと本で埋め尽くされていた。どっしりとした書き物机がひとつ置かれている他は、目立った家具もない。

 部屋の窓からは、ライトアップされた修道院の天辺に、ミカエル像が夜空にひときわ輝いて見えた。ミニュイは、アニスが部屋に戻ったのは幸いだった、と思いめぐらせる。もしもこの本が、探していた扉なのであれば、彼女の存在は厭わしく思えるだろう。ミニュイの感性は、紳士の家に招き入れられるなり、扉特有の雰囲気を微弱ながらも感知していた。そしてそれは、この部屋に入ってからは、身震いするほどに、強まっていた。


 紳士は、コンフェッティに白い手袋を手渡すと、自らも手袋をつけた。

 本を、書き物机に据えられたビロウド張りの台の上に、丁寧に載せる。

 赤と白の箱にしまわれたその本の背表紙は金箔で著者名とタイトルが刷りあげられている。すでにもう、この佇まいから、この本は独特の雰囲気を持っていた。

「ご覧になってみますか」

 紳士は、箱から本を取り出すと、コンフェッティに手渡す。


 コンフェッティは白い指先で、表紙をめくった。手袋越しでも、紙の厚みやきめの細かさから、質の良さが伝わってくるようだ。

 見開きには、コクトー、フジタのそれぞれの直筆のサインが入れられていた。


「『海龍』は、コクトーが世界一周旅行の際に日本に立ち寄った旅行記のみを、抜粋したものなのです。日本の旅の案内役を務めたフジタが、挿絵を描きおろし、旅行から約20年経った頃に出版されたのですが、一枚一枚が素晴らしい銅版画なのですよ。本の形ではありますが、小さな美術館をひとつ持っているようなものです」

 息を呑んで、その一枚一枚をめくり、そのたびに、綴られた詩人の言葉と、銅版画が再現した、フジタの精緻な線に目を奪われる。

 隈取をした歌舞伎役者。

 たくさん描かれた茶道具など。

 髷を高く結い上げた芸者の姿。

 フジタのか細くもしなやかな、絹糸のような線画は、コクトーの眼差しが捉えた新鮮な驚きの数々を描き出していく。

 本を支える手にまで、彼らの感じた熱が伝わってくるかのようだった。


「この本の価値を高めているのは、銅版画ということばかりではないと、私は個人的に思っているのです。この本が出版されたのは、詩人、画家、ともにおおきな転機を迎えた年なのですよ。しかも、彼らの文化的な背景や環境そのものががらりと変わった、激動の年なのです」

「旅から20年もあとに?」

「ええ、これは私の憶測ですが――、出版された1955年という年は、パリの喧騒を逃れたコクトーが南仏に赴いた年で」

「……まさか、マントンか?」

「おお! ご存知ですか! そうです、そうです。夏の音楽祭に招待されたコクトーが『豪奢と素朴が同居する』と言って、旧市街の不思議な魅力にとりつかれ、南仏にアトリエを構えるきっかけともなった年です」

 コンフェッティは、マントンの街並みを思い出そうと試みた。しかし、蘇るのは、鶏のオリーヴ煮やレモンパイ、それに生ガキなど、数々の美味だけだ。

「――それだけではないのです。フジタにとっても、この年は大きな変化でした。何より大きいと言っても過言ではない。彼は祖国日本を心から愛していました、それは変わらないはず。けれども様々な状況から、彼は日本国籍を抹消して、この年に、フランス国籍を取得しているのです」

 パリのサロン・ダンフェールで、レオさんが「フランス人だ」と名乗ったことを、コンフェッティは思い出した。


 紳士は、あるページを指さした。

 そこには赤い筆文字で、タイトルが力強くも繊細に書かれている。その文字が、コンフェッティの目には光の輪郭を伴って、かすかに揺れて見えた。

「『海龍』というのは、詩人が日本文化に見出した、精神的な富の守護神、なのだそうです。相撲や歌舞伎、芸者といった日本文化に触れ感じた文章と絵が、20年経って、彼らの大きな転機にこうしてまとめあげられるというのは――、どのような環境下であっても、精神的な富は守られると、祈りのような思いも私は感じてしまうのですよ。あくまでも、私の、勝手な思いですが」


 それぞれが活動の拠点を変えたその激動の年に、二人の、異なる文化背景を持った芸術家たちの作品が、ひとつにまとめあげられて、世に出された。そこに思いを馳せると、それは決して彼ら二人だけの物語ではなく、コンフェッティは、自分らの環境にも通じる「祈り」を見出すような気持ちにさえなった。


 電話が紳士を呼び出し、部屋は、コンフェッティとミニュイのみになると、ミニュイは、全身を銀色に光らせ、その貴重な書物を覗き込んだ。

「扉ですね、間違いありません」

 コンフェッティは、『海龍』を手に窓の外でミカエルに踏みつけられている一匹の龍を見る。

「ミカエルが龍を退治した島で、人々の精神的な富を守る龍の本が、最果てと人間界を結んでいるのか……。感慨深いな」コンフェッティが呟く。

「取り掛かりましょう」

 ミニュイが毛を逆立てて力を蓄える。


 コンフェッティはビロウドの台に本を一度置き、扉となっている文字をそっと指でなぞると、白手袋を取り外した。

 息を整え、ペンを鼻先に立てる。指先で弾かれたペンの先には、明かりがともり、ちいさな光を本の上に落とす。


「最果て国交流省管理局所属、第十二代扉番、リュドヴィック・カネル・コンフェッティ。古き神々の御名のもと、ここに扉の締結を宣言する。モン・サン・ミッシェルの地と最果てとが末永く、結びあわされんことを」


 ミニュイの力を受けて、扉に注ぎ込むと、海龍の文字に浮かび上がった光の文字がくねり、金の龍の姿となって書庫を飛び回った。波打つ金の鱗から、光の粒がこぼれおちる様は、金の雪が降るようにも見え、コンフェッティたちはその美しさにしばし息を呑む。金の龍は、ぴたりと本の上に停まったかと思うと、文字にめがけて急降下した。金の飛沫が大きく部屋にあがる。飛沫とともにあたりには穏やかな香りが満ちた。文字の上に水面のように波打った光が収まる頃、その心を沈める香気が、墨の香りだと、コンフェッティは気づいた。


 芸術家たちの想像力によってつなぎ合わせられ、結び合わせられたその一冊に、コンフェッティとミニュイは、それぞれの思いを、重ね合わせて、見ていた。

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