美術史と強面女子
ミニュイとコンフェッティの業務方針は交わることなく数日が瞬く間にすぎ、コンフェッティがたびたび手にする手帳にはパリのうまいものばかりが記録されていった。
ウサギのロティ、鶏のコンフィ、スズキのパイ包み。美術館をひとつふたつ見ては、適当な店にはいるコンフェッティの毎日は、観光客のそれとたいして変わりがない。
ミニュイは歯をむき出して異議を唱えたが、一向に聞き届けられなかった。
そればかりか、犬の身だけではミニュイにできることはほぼない。女神ニケに窮状を訴えることすらできないのだ。
ある午後、コンフェッティはカフェ・レストランのテラス席でいつものように舌鼓をうっていた。ミニュイはその足元で与えられたミルクに舌を鳴らしていたところ。
それまでの晴天が嘘のように空が真っ暗になり、突然にどしゃ降りの雨が降り出したかと思うと、轟音と共に目の前の大木に雷が落ちた。
コンフェッティとミニュイは、顔を見合わせた。
「女神様はだいぶご立腹のようですね。次はあなたに落ちるかもしれませんね」
「俺はちゃんと仕事してんのに」
「プロセスではなくて、結果を求められているんじゃないですか」
そう言うミニュイの小さな心臓は、飛び出しそうなほどに躍動していた。
勤勉さを持ち合わせないコンフェッティになんとか調査させなければ、あの雷を受けるのは自分かもしれない。
それだけは、断じて避けたかった。両親に変わって育ててくれた祖母に合わせる顔がなくなってしまう。ミニュイは考えあぐねた。
かつて文豪や美術家たちに愛された街モンパルナスを歩きながら、コンフェッティは、この街では石を投げたら間違いなくカフェに当たるだろうと思った。
連なるカフェを通りすぎ、目指すは老舗のカフェ・ル・ドーム。
ミニュイから、たまには違う街のレストランを試してみてはと提案された時には、仕事仕事とうるさい魔獣がようやく理解を示してきたかと、コンフェッティは内心喜んだ。
しかも、一人で食事するよりはと、宿のマダムに相談するようすすめてきたのも、なかなかよいアイディアだった。
コンフェッティは期待に胸を膨らませながら、黒と金が基調になったクラシックな外観を眺め回し、ガラス張りのドアをくぐった。
宿のマダムには姪がいて、この店も彼女の指定だった。名は、アンジェリーナ。
人々がアンジュ、つまり天使と呼びたくなるほど、生まれたての彼女がまわりを魅了したのだろう。
美女を思い浮かべ、指示どおりカフェの奥に進める足取りは、軽い。奥に広がるレストランが、今日の食事の舞台となるはずだ。
レストランの店内に入ると、蝶ネクタイに黒いスーツのギャルソンが足音もなく現れ、予約席に案内してくれた。
コンフェッティはカフェよりいっそう重厚さを増したインテリアに、ここが割と高級な類いに入るレストランだと感じ取った。
古き良き時代を感じさせる内装を見渡しながら飲むシャンパンは、5月とはいえ昼の暑さに乾いたのどに、爽やかな風を届けてくれる。
時間をさかのぼったようなそのクラシックな雰囲気のせいだろうか、コンフェッティには居心地が良く、一目で気に入った。
宿のマダムは、いまでこそしわくちゃのまごうかたなき老婆だが、かつて美しかったことは、その背後に並べられた各時代の彼女の写真からわかった。姪もさぞ、と、心なしか楽しみになる。
この店の優美な雰囲気は美女をさらに引き立たせてくれるに違いない。きちんとした店らしく、客もこぎれいに着飾っているものが多い。
コンフェッティはガラス窓に映った自分のくたびれた姿に気付き、慌てて襟を引っ張り、裾を引っ張りしたが、客たちのなかでは浮いて見えた。
くしゃくしゃなトレンチコートもシャツも、あちこち伸ばしたり縮めたりしても今さらあまり変わらないと悟ったコンフェッティは、姿勢だけをぴんと伸ばして、そわそわと時計に目をやった。
アンジェリーナは美術大の学生なのだという。美を愛し、美を学ぶ、美女。想像するだけで、頬のあたりがにやついてくる。
ふと入り口に目をやったとき、ちょうど入ってくる客に目を見開いた。
他の客とは、明らかに異様な風体。
サーモンピンクのワンピースがここまで凶暴性を秘めるのを、コンフェッティははじめて目の当たりにした。
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