鍵と魔法と給料泥棒

冬森灯

Prologue

パリで朝食を

 パリ南部、14区の片隅、午前7時。

 5月の光は、公園に隣接した大通りを、まばゆいばかりに明るく照らし出している。


 大通りに面したカフェのテラス席で、男が焼きたてのバゲットやクロワッサンの皮を小気味よく鳴らして、上機嫌に食べている。


 くたびれたトレンチコートをまとったうらぶれた姿とは裏腹に、パンやカップをつまむ指先の優雅さや、ピンと伸ばされた背筋には、育ちの良さが見え隠れするようだ。


 無精ひげに包まれた顔は、30代の半ばといったところだろうか。だが、食べ盛りの子どものように、まあよく食べる。いかにもうまそうな食べっぷりに、散歩中の犬と飼い主もしばし足をとめて、思わず頬を緩めている。


 店のギャルソンたちはそわそわ彼の動静に目を配り、見る間に減っていくパンの様子に耐えかねたのか、とうとう一人がはす向かいのパン屋に駆け込んでいった。もう一人は鋭いまなざしに射抜かれ、銀色のポットを手に、男のもとへ急いだ。


 テーブルからはものの10分ほどで、まるで手品のように、バゲットまるごと2本とクロワッサン3個が消え、うやうやしく口に運ばれるカフェオレはこれで6杯目。それも目の前でまたたく間に飲み干され、カップが差し出された。

「デザートをもらえるかな。ジャムと、ブリオッシュを3つほど」


 7杯目のカフェオレをゆっくりと味わい、男は懐から手帳を取り出した。マットな光沢をたたえる琥珀色の革に、銀文字が彫り込んである。リュドヴィック・カネル・コンフェッティ。男の名前らしい。


 コンフェッティは手帳に何かを書きつけると、思い出したように足元にブリオッシュをひとつ転がした。と、テーブルの下から黒い毛玉が飛び出して、ブリオッシュにむしゃぶりつく。


 ギャルソンは突如として現れた犬の姿に一瞬目を見開いたものの、すぐに興味を失って銀色のトレイを磨きだした。思わぬところからトイプードルが飛び出してくることなど、ライオン並みの食欲を持つ男に遭遇する確率に比べれば、パリではよくあることなのだろう。


 コンフェッティは、前足で器用にブリオッシュを抱え込む犬に語り掛ける。

「うまいだろ、ミニュイ。こっちのジャム、今まで俺が食べた中ではピカイチだ。イチゴジャムに胡椒を合わせるとは。人間てのは、すごいことを考えつくものだな」


 店を出て、メトロに乗っている間も、コンフェッティはパンとジャムのことばかり話している。


「あのジャム、よほどの達人の仕事だよ。流しのジャム屋から仕入れるそうだ。あちこち旅してうまい素材からうまいジャムを作るなんて、すばらしい仕事だよな! 同じ旅続きでも、俺とはわけが違う」


 ルーヴル美術館の入り口についても、まだジャムについて力説しているコンフェッティの歩みを妨害するかのように、ミニュイがまとわりつく。ぴょんぴょん飛び跳ねているのは、抱き上げろ、と言っているのだろう。


 コンフェッティが慣れた様子で肩に乗せるとまわりには聞こえないように、ミニュイが棘のある声で囁いた。


「いい加減、仕事モードに入ってくださいよ。ニケさんは怒らせると怖いですからね。僕はここで待つしかないんですから」


 いくら犬に寛容なパリであっても、こよなく芸術を愛する都の美術館内に、犬は入ることができない。ひらひらと手をふる後姿を、ミニュイは眉間に皺をよせて見送った。

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