第35話 勇者と兵士

「…わかった」


 少女は勇者の条件を了承する。

 両手で抱えた自分の仕事道具を見つめた。重さはほとんどなく、両手を広げたより少しだけ大きい。青い半透明の正方形の中に、二つ、小さい正方形が入っているのが分かる。

 その小さな正方形は、以前、ほんの一時知り合った令嬢から手渡された彼女の記憶の欠片だった。そして、もう一つは勇者から手渡されたもの。

 少女は道具を起動させる。

 不思議な文様の渦が飛び出して、たちまち少女をとりまいた。

 少女の体はどこともしれない幾千万もの空間に取り囲まれる。


『魔王の過去を見てくる事』 

『もし、魔王の犯した罪の全てを知っても助けたいと、願うのなら』


 暗闇がすうと溶けるようにして、現れた景色に取り込まれていく。


『そのときは、この門を開けてやる』


 それが、勇者が少女に出した条件だった。

 少女は、周囲をみまわす。

 記憶の一番最初にでてきたのは、どこともしれない戦場だった。




 誰かの怒号。

 なりやまない爆発音。

 漂う血の匂い。

 地面に伏せる沢山の屍体。

 これは、勇者の記憶だ。

 多くの人間も魔人も死んでいく。

 記憶の中の今より少年らしさを残した勇者は、何もできない自分の不甲斐なさに震えている。勇者はまだ、勇者として目覚める前で、多少腕のたつ若者であっても、それだけでしかないのだ。

 また一人。

 勇者の隣に立っていた兵が死んでいった。

 勇者と同じ時期に軍に入った若者で、勇者の親友だった。

 今回だけじゃない、もう何人もの友人がただの小競り合いで命を落とした。


『勇者は、いないのか…!』


 顔が半分崩れ落ちた、だれかの絶望のうめき声。

 勇者はその人間の首元に指を添え、力を込める。ありがとう、そう言い残して死んでいった。

 また、爆発。

 今度は勇者の体も吹き飛ばされてしまった。

 ほんのひととき、意識を失ったのか、世界が真っ暗になる。

 次に、現れたのは。

 猛威を振るう魔人の姿だった。

 全身を毛で覆われた黒い魔人。


『ルンベ…!』


 誰かが叫んだ。

 辺り一面の人間も、魔人も吹き飛んだ。魔法でなぎはらわれたのだ。

 多くの者がおそれ、おののく中、ルンベは不適に笑った。


『新たな王が君臨した! 敬え、人間ども。恐れよ!』


 それは、宣言だった。

 人間の間に戦慄が走り、魔人達は歓喜した。

 圧倒的な魔人達の前に、人間は惨敗を喫し、そうして、その日の小競り合いは幕を閉じた。



 その日を境に魔人達の動きが、今までとは違うものへと変化していく。いっそ愚鈍さを感じさせるほど、力任せだったその行動は、知謀を得たものへ変貌していた。

 ずっと絶えず続いてきた魔界と人間界の間の小競り合いは、その規模が大幅に縮小される。しかし、それでも、よもや侵されるかもしれぬ、という危惧が人間の間にでてきたのは当然の事だった。表立った闘争が鳴りを潜めた代わりに、そこしれない不気味な静寂がいつのまにか国境を支配していたのだ。


『どうなってるんだろうなあ、ここは』


 ある日、訓練を終え、浴場で体を流しながら、勇者の同僚が言った。


『なあ、俺も自分で死ぬ事を選ぶのかな。やっぱり魔法だろ、アレ』


 おちゃらけたような言い方には、それでも不安が滲んでいる。

 戦闘での死者が激減した代わりに、ふしぜんなほどに自殺者数が増加していた。上官達は箝口令をしいたが、あまりの多さに末端の末端でさえ知っている。兵達はいかにもさりげなく振る舞ってはいるが、ふとした瞬間に恐怖の波が伝染して広がっていくのを止められない。


『ふざけるな。』


 しかし、その隣で一刀両断したのは勇者だ。

 体をゆすぎながら、叱りつけるようにして言う。


『そうやって怯えさせるための策略に決まっている。そんな魔法は存在しない。だいいち、お前がそんな簡単に死ぬようなタマか』


 同僚はひかえめな笑みを浮かべると、怯えを見せた事に照れるように頷いた。


『はは、そうだな。…そうだよな』


 勇者は、それを見て、安心した。

 きっと、だいじょうぶだろうと。

 その同僚が、首を吊った状態で発見されたのは、翌朝のことだった。

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