2章 うまれたけもの

2章 うまれたけもの_01

 黒獣こくじゅうが伝説の生き物だと言われることが多いのは、彼らにまつわる話があまりにも神話じみていたからです。しかし、黒獣というのは実在する生き物です。

 この世界に黒獣が生まれたきっかけは、何だったのでしょうか。古い書物の一説によると悪魔と黒い雌犬の血を引き、新月の夜にその産声を上げたとも言われています。つまり、噛まれたからといってその生き物が黒獣になるというわけではありません。黒獣は、生まれもっての血筋ということになります。生まれ落ちた黒獣の子たちは、初めはちっぽけで力もなく、ただ震えて鳴くだけの小さく幼い獣でした。その黒獣と呼ばれる子たちを育てたのが、黒い雌犬だったのです。悪魔との子とはいえ、母犬にとっては黒獣も大切な可愛い我が子たちなのでした。乳を与え、狩りの仕方を教え、野山の歩き方を学ばせました。幼く弱かった黒獣たちは、気が付けば立派な黒い大きな犬へと成長していったのです。黒獣たちの成長は目覚ましいものがありました。狩りの仕方を教えれば、すぐに覚えて獲物を仕留めました。足場の悪い山道も、足を踏み外すことなく楽々と走り抜けてみせました。正に、他者を狩るために生まれてきた生き物といった風でした。これらの成長は、母犬を喜ばせましたが、あまりにも手がかからないので心配をしていました。手のかからない生き物は、どこか心がいびつになってしまうからです。黒い雌犬は、若い黒獣たちの発達しきっていない心を心配していました。

 成長した黒獣たちは、自分と母犬はどうやら違う性質を持っているのだと気付き始めていました。自分たちが聞こえる遠くの物音や、隠れている生き物の体温を見ることは、黒獣である自分たちだけに与えられた能力であり、母犬はそうではなかったのです。姿形は、母犬と似たような犬の姿をしていましたが、母犬のように優しい茶色の目ではなく真っ赤に燃える血のような目をしています。牙も爪も、母犬に比べると、うんと鋭くて力の加減を間違えると簡単に物を壊してしまうのでした。黒獣たちは母犬と同じようになりたかったし、なろうと努力をしていました。遠くの物音が聞こえても聞こえないふりをしましたし、なるべく優しい力で物に触れるようにしていました。しかし、別の血が混ざっているためそれは難しいことです。母犬は黒獣たちに違うことは悪いことではないと教えました。与えられた能力は生きるために必要になるものだと教えたのです。遠くの物音を聞き分ける力も、隠れている生き物の体温を見る力も、力強い牙や爪も、全て必要なもので恥じるべきものではないと教えたのです。黒獣たちは、母犬の教えを聞いて改めて自分たちの力を、上手く使おうと決意したのでした。仲間たちを助けるため、母犬を助けるために自分たちの力を使っていこうと決めたのでした。若い黒獣たちは、まだ血の恐ろしさを知らないのです。彼らの意思とは反する行動を起こさせてしまう、恐ろしい血が流れているという実感がまだなかったのでした。

 黒獣たちも成長し、そろそろ独り立ちの日が近付いていた時期のことです。夜中の狩りを終えて巣穴に戻りましたが、母犬はいませんでした。どこに行ったのか見当がつかないので、ひとまず巣穴で待とうということになりました。やがて夜が明けましたが、母犬が戻ってくる気配はありません。いよいよ心配になってきた黒獣たちは、相談を始めました。

「母さんが戻ってこないなんて、おかしい」

「どこへ行ったのだろう」

「心配だよ、探しに行こう」

 それぞれの黒獣たちは呟きます。身体はすっかり大人になりましたが、彼らはまだ子どもに違いありませんでした。母犬が大好きで、寂しがり屋であったのです。まだ雪が溶け切らない三月の早朝に、黒獣たちは母犬を探しに行くことに決めました。何かあったら必ず遠吠えで知らせるという決まりで、彼らは心当たりのある場所を駆けて行きます。いくら捜しても、なかなか母犬は見つかりませんでした。

途方に暮れた一匹の黒獣が、とぼとぼと村の外れの農場を歩いていました。いくら呼んでも母犬は返事をしませんし、その体温を見ることさえ叶わなかったのです。これだけ探してもいないということは、母犬は自分たちに愛想を尽かしてしまったのではないかと心配になりました。せめて、母犬に育ててくれたお礼を言いたかったのです。何度も母犬を呼びながら、黒獣は駆けました。足に怪我をしても、まるで気になりません。黒獣が駆けて行った後には、血の跡が雪の上に点々と並んでいました。村の外れの農場の片隅に、母犬が倒れているのを見つけました。大急ぎで母犬の元へ駆けつけましたが、氷のように冷たく優しい茶色の目はぴったりと閉じられていました。自分だけではどうにもできないと思った黒獣は、遠吠えで兄弟たちに知らせました。全員が集まるまで五分もかかりませんでした。すっかり冷たくなってしまった母犬は、人間が仕掛けた罠に首を挟まれていました。辺りの雪は赤くなり、逃れようともがいた跡も見られました。母犬の側には、捕まえた狐が力なく倒れていました。母犬は、狩りが終わり帰る途中に、人間が仕掛けていた罠に掛かってしまったのです。黒獣たちは、突然の母犬の死を受け入れられず静かに母犬を見つめるばかりです。

「母さん、母さん」

 何度呼んでも、母犬は目を開けることはありません。それでも、呼びかけずにはいられませんでした。ここにいては、いつ人間に見つかるか分かりません。日が昇りきってしまう前に、どうするかを決めなくてはいけません。

「置いていくなんて嫌だ」

「じゃあどうする?」

「連れて行こう。僕らの家に」

 罠の鎖を噛み千切り、母犬を背中へ乗せて黒獣たちは急いで巣穴へと戻りました。もう助かる見込みがないということは分かっていましたが、母犬を置いていくことなどとてもできなかったのです。巣穴に戻り、母犬の首から罠を取り外して毛皮をかけました。それでも、冷たい母犬が温かくなることはありません。そうして黒獣たちは、食事も忘れて母犬の側へついていました。

「人間が許せない。母さんは、悪いことなど何もしていないのに」

「奴らはまた罠を仕掛ける。犠牲になるのは弱い生き物だ」

「僕らがどうにかしないと」

 黒獣たちは、ひそひそと話し合いをしました。母犬を殺した恐ろしい罠を、二度と仕掛けさせないためにはどうしたらいいのか頭を悩ませました。やがて日が沈み、辺りは闇に飲まれました。他にも危ない罠を仕掛けているかもしれないから、見回りをしてそれを壊そうということに話が落ち着きました。黒獣たちは、こんな思いを他の生き物たちにさせたくはなかったのです。林道の側、納屋の裏、食料庫、罠はあちらこちらにありました。見つけた罠を一つ残らず壊しながら、彼らはそれぞれの持ち場を見回って行きます。暫くすると、巣穴の方から奇妙な音が聞こえてきました。パチパチという何かが爆ぜる音が聞こえます。胸騒ぎがして、一匹の黒獣が巣穴の方へと駆け出しました。巣穴の様子がおかしいと、遠吠えで兄弟たちへ知らせます。巣穴の近くへと戻った黒獣は、巣穴に火が点けられたのだと悟りました。松明を持った何人もの人間が、巣穴を取り巻いています。古い大木の根元を巣穴としていたのですが、大木はぼうぼうと燃えており、燃え尽きた枝が地面へ次々と落ちてきます。とても近づくことはできません。

「あそこに、母さんがいるのに!」

「今行ったら危ない、あの人間たちは猟銃を持っているよ」

 人間たちはそれぞれ、猟銃を肩から下げています。あの猟銃で撃たれたら、いくら黒獣とはいえただではすみません。それは、母犬から教わったことでした。

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