1章 はじまり_04

 「じゃあ、いただきます」

「いただきます!」

 クレアは元気よくそう言うと、サケのムニエルを食べ始めました。バターの香りが食欲をそそります。サラダにかかった、オリーブオイルベースのドレッシングも美味しいです。このドレッシングは、ショーンのお手製のものです。

「おいしい」

「よかった、よかった」

 ニコニコと笑って食べるクレアを見て、ショーンはホッとしました。こうやっている様子を見れば、歳相応の女の子です。ただ、クレアには様々な教育を施さなければなりません。読み書きがまだできないクレアには、読み書きを教えていかなければいけません。一人前の人間として生きていくためには、せめて読み書きができないと難しいでしょう。これから少しずつ、ショーンはクレアに教えていこうと思っています。二人でゆっくりと夕ご飯を食べて、クレアは一人でお風呂に入っていました。猫足のバスタブの中は、白い泡で覆われています。クレアはこうして泡風呂で遊ぶのが、一日の中でも楽しみな時間でした。ふわふわとした泡は、湯船の表面が見えないほどたくさんあります。シャワーを浴びて、泡を流してからクレアはパジャマに着替えました。少し厚手のパジャマは、肌寒い秋の日にぴったりです。

「ショーン、お風呂おわった」

 クレアはリビングへと戻り、本を読んでいるショーンに声をかけました。ミルクティーを飲みながら、難しそうな分厚い本を読んでいます。

「ああ、さっぱりしたかい?」

「うん」

「じゃあ、このジュースをどうぞ。私も風呂に入ってこよう」

 ショーンは、テーブルにオレンジジュースの入ったコップを置いていきました。クレアはオレンジジュースを飲みながら、静かなリビングをぐるりと見回します。花瓶が置かれたテーブルには、キャンドルがいくつか乗っています。ミルクのような色をしたキャンドルたちは、火がついていないととても静かです。リビングにも本棚があります。そこには、料理の本が入っていました。ショーンは、自分で料理をすることが好きなようです。クレアは一冊の本を取り出しました。字は難しくて読めませんが、料理の挿絵がたくさんある本は見ていて飽きることがありません。クレアがオレンジジュースを飲み終わる頃に、ショーンは戻ってきました。

「おや、本を見ていたのかい?」

「うん。これ」

 クレアは本の表紙を、ショーンに見せました。ショーンは髪の毛をタオルで拭きながら、クレアが見せた表紙を見ます。

「なるほど。『おいしいおかしの作り方』か。最近作っていなかったな」

「おかし? ショーン作れるの?」

「まあ、簡単なものだけれどね」

「作る? お手伝いする」

 クレアは目をきらきらと輝かせて、ショーンに話しかけます。それに、流石のショーンもまいったようで、困ったなあと笑いました。

「じゃあ、明日はクレアのエプロンを買った後に、おかしを作ろう」

「うん!」

 クレアは嬉しそうにそう言うと、手に持っていた本のページを再びめくり始めました。一体ショーンはどんなおかしを作ってくれるのでしょうか。クレアは楽しみで仕方ありませんでした。寝る前にはショーンが作ってくれた、ハチミツ入りのホットミルクを飲みます。ホットミルクを飲むと身体がぽかぽかとして寒さを消してくれます。ショーンはミルクたっぷりなミルクティーがお気に入りのようです。

「さあ、クレア。そろそろ寝る時間だよ」

 しばらくのんびりとしていましたが、時計の針が九時を回るころになるとショーンはクレアの寝支度をさせます。今日は掃除に散歩に、クレアも疲れていると思ったからです。

「うん」

 クレアは素直に頷いて、歯磨きをして寝支度を整えました。後は、ベッドに入るだけです。

「今日はこの絵本を読もうか」

 今日ショーンの部屋からクレアの部屋へ移した絵本のうちの一冊を、ショーンは持っていました。絵本の表紙は、飾り枠で囲われておりタイトルがきらきらとしたインクで印刷されています。まるで、夜空に星をこぼしたかのようです。

「なんの絵本?」

「今日は『カップケーキの友達探し』を読もう」

「おいしそうな名前」

「そうかい?」

 ショーンは、クレアに絵本を読み聞かせます。絵本に描かれている絵は、どれもふわふわとして砂糖菓子のようです。足の生えたカップケーキが、自分の頭に乗せるトッピングを探しに行く物語でした。色々なケーキが出てきて、目にも楽しい絵本です。カップケーキは最後には甘酸っぱいラズベリーを選んで頭に乗せました。これがショートケーキだったらきっとイチゴだったことでしょう。ココア生地のカップケーキには、甘酸っぱいラズベリーがぴったりでした。クレアは絵本の絵を見ながら、ページをぱらぱらと捲っていきます。

「カップケーキは、ラズベリーと幸せになれたのかな」

 クレアはぽつりと呟きました。めでたし、めでたしで終わった物語でしたが、選ばれなかったブルーベリーやチェリーのことを考えるとさみしい気持ちになります。

「きっと、幸せになったと思うよ」

「ブルーベリーとチェリーは?」

「他のケーキが選んでくれるはずさ」

「そっかあ」

 クレアはフルーツタルトやチーズケーキが、ブルーベリーとチェリーを幸せにしてくれたら良いのにと小さな溜息をつきました。ショーンはクレアの頭を撫でて、大丈夫だよと慰めました。

「ブルーベリーもチェリーも、誰かに選ばれるときを待っているのさ」

「そうなの?」

「クレアはどうだい?」

「え?」

 ショーンの言葉にクレアは目をぱちくりとさせました。

「クレアも、誰かに選ばれるときを待っていたのではないかい?」

「あ……」

 そこでクレアは闇市での生活を思い出しました。誰も身体の小さなクレアを選んでくれませんでした。同じ時期に商人の元に集まった子供たちは、とうに売れてしまってクレアは寂しい思いをしていました。やはり身体が小さい自分では、誰の役にも立てないのだとクレアは落ち込みました。しかし、そこにショーンが現れたのです。たまたま一人で残っていたクレアを、ショーンは買い取りました。金貨五枚というのは、決して安いお金ではありません。

「そうだった」

 クレアはほんの数日前の自分のことを思い出します。わずかな希望を持って、誰かが選んでくれるかもしれないとずっと待っていたのです。もしかしたら、絵本に出てきたブルーベリーやチェリーも同じ気持ちだったかもしれません。

「だからきっと、ラズベリーもチェリーも大丈夫。選んでくれる相手がいるよ」

 ショーンのその言葉に、クレアはホッとしました。誰も選んでくれないまま、終わりのない時間を過ごすことはとても悲しいことだからです。

「うん、そうだね」

 納得した様子でクレアは、ふわふわの毛布を首元まで引き上げました。絵本のページを捲っていた指は、いつの間にか止まっています。ランプの灯りを小さくし、ショーンはクレアのベッドから立ち上がりました。

「おやすみ、クレア」

 柔らかく淡い金髪を撫でて、ベッドサイドにあるランプの灯りをショーンは落としました。柔らかなオレンジ色に満たされていた部屋は、青く黒い夜の色にとって変わりました。

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