鵬の繭

爽月柳史

鵬の繭

 ピシッピシッ、と音がする。氷の割れる音がする。

 僕は目を開いた。朝である。少し開けた窓からは嗅ぎ慣れた潮の香りが流れ込んでいる。ピシッと僕の耳に音が響く。それは氷が割れるような音 で、現実には響いていない音、僕にとっては潮の香りと同じくらい馴染みのある幻聴だ。

 最近は少しだけ音が大きくなった気がするな、と思いながら、身を起こす。しばしぼんやりと時計を眺めた後、今日は友人のキロクと釣りをする 約束であったことを思い出して、急いで家を出た。


 外に一足踏み出すと、突き刺さるような陽光と、潮の香りが身体に迫る。僕はそんな夏の暴力を振り切って、いつもの埠頭へと走った。息を切らして埠頭に到着したとき、キロクは若さというやつをどこかに置き忘れたような静かな目で、鼻唄を唄いながら釣り糸を垂れていた。鼻唄は、魔法の竜と少年の哀しい物語の歌だ。キロクは何故かこの歌をひどく気に入っていて、機嫌が良いときも悪いときも口ずさんでいる。

 「キロクっ……ごめっ……待った?」

 「今夜、船を出す。お前もおいで」

 今夜は確か新月だ。

 キロクの提案に、僕の火照った身体が急速に冷えた。

 “新月の夜に船を出してはならぬ”これは海と共に暮らしを立てている村の暗黙の規則で、僕やキロクのようにこの村で生まれ育った者なら皆知っている常識だ。

 「キロク、今日は新月だよ」

 キロクはちらりと僕を一瞥して「そうだとも」と言い放った。あまりにもきっぱりと言うものだから困ってしまう。彼は村の規則のようなものを軽んじているような、不遜な態度を取ることが多い。それと同じくらい豊富な知識を周囲の人に聞かせてることも多いので、村の中では、不遜さよりも博識ゆえの有用性に軍配が上がり、まあまあ好かれている。ともすれば村八分にされそうなギリギリの線に悠然と佇むことができているのは、単純にキロクは非常に要領が良いから、ということだろう。

 「何で新月に船を出すの?」

 夜釣りはキロクも僕も好きだけれど、わざわざ禁じられている日に行く必要はない。キロクはクッと喉の奥を鳴らして言った。

 「いくらお前でもコンは知ってるだろう?」

 「えっと……お魚のコンのこと?」

 「ああ」

 それなら知っている。村の名物で煮ても焼いても美味しい魚だ。思い出したら朝から何も入れていない胃が鳴った。

 「もしかしてコンを釣りに行くの?」

 「コンは確かに目的だが、少し違うな」

 キロクの言葉は時折分かりにくい。

 「まず、お前は何故新月に船を出してはいけないか知っているか」

 僕は少し考えて、そういえば理由を全く知らなかったことに気づき、情けない気分で首を振った。

 「そうだと思った。ああ、落ち込むな。知らない奴の方が多い。新月の船出を禁止する理由は色々あるが、その最たる理由がコンなのさ」

 魚と新月の船出がどう関係しているのだろう、と首を傾げる。

 「新月の夜はな、コンが羽化をする」

 キロクは、深い海色にも見える瞳を細めて言った。僕はこの色が好きで少し見惚れてから、彼が奇妙なことを言ったことに気付いた。

 「うか」と口の中で呟いて考える。潮風が柔らかく肌を撫でるのを感じながら、頭の中の二文字はぐにゃりと意味を持った。

 「キロク、“うか”って“羽化”のこと?イモムシがセミとか蝶々とかになる、あの“羽化”?」

 「正確に言うとセミの幼虫はイモムシじゃないんだが…………まあ、そういうことだ。コンがホウに羽化をする」

 「魚もセミや蝶々みたいになるの?」

 そんなことは生まれてこのかた聞いたことがないし、見たことは勿論ない。魚は魚、そういうものだと思っていた。

 魚の羽化について考えを巡らせようとする前に、「いいや」とキロクが遮る。

 「魚は羽化などしないよ。コンが特別なのさ」

 「コンは魚じゃないの?」

 「魚だよ、コンはな」

 どういう意味だろう、と首を傾げていると、「ところで……」とキロクが声を掛けた。

 「お前の耳鳴り、具合はどうだ」

 僅かに気遣わしげな色が、彼の目に浮かんでいることに驚く。

 「えっと、最近少し音が大きくなった気がする。…………あっ、でもね、悪い訳じゃないんだ。もう慣れてるし」

 「知っているよ」

 キロクはふっと笑うようにして言った。何に対して彼が“知っている”のかは見当も付かなかった。

 「で、お前は来るか?」

 キロクが目はいつものように静かになっていることに、僕は安堵しながらも大きく頷いたのだった。

 船出は夜で、セミの羽化を見るときみたいに結構遅くなりそうだということで僕らは、早い時間に仮眠をとることにした。

 さっき抜け出したばかりの寝床に潜り込み、目蓋を下ろす。頭の奥で氷の割れる音が鳴るのを聞きながら。

 ビシッ

 一際大きな音が鳴り、僕は目を覚ました。窓の外は濃紺色で、もう殆ど夜だった。今までで一番大きな耳鳴りに不安を覚えながら、朝と同じように、僕は埠頭に向かった。

 キロクはやっぱり先についていた。作務衣をさらりと涼しげに着こなして、釣竿の代わりに櫂を担いでいる。

 「来たな」

 キロクは一言だけ船を見た。乗れという事だろう。僕が船に乗り込んだことを確認してからキロクも乗り込んで、船を繋ぐ縄をそっと外した。ぎっと船が鳴り、キロクの櫂が緩やかに水を掻く。船出だ。

 空はもう黒い色で星が散らばっていた。当然ながら月明りはなく、暗幕を引き延ばしたような海原を僕たちは行く。

 僅かに船を揺らす程度の波の音と、キロクの口笛の音が夜の空気に流れる。櫂が水を叩く音は心地よく僕は段々と眠くなってきた。

 「ホウの翼は天を覆う雲のように広く、嵐に乗って天にある何処かに行くんだとさ」

 「今日はこんなにも静かだよ」

 「伝承は単なる伝承だよ」

 キロクは再び口笛を始めた。もう埠頭は見えなくて、随分遠くまで出たんだなあとぼんやり考える。

 ビシッ

 ああ、氷の割れる音もするなあと耳鳴りに意識を沈めていく。朝よりも大きくなったみたいで、すぐ傍で氷が割れているみたいな気がする。一体 全体、この耳鳴りは何なのだろう。何時から聞こえていたんだっけ。幼い頃からという気がするし、ついひと月かふた月前に始まったような気がす る。耳鳴りがすることをキロクに話したのは何時だったろう。耳鳴りの聞こえ初めと同じでよく思い出せない。

 「キ……」

 「しぃっ」

 聞いてみようとキロクに声を掛けようとしたら、彼の人差し指が延びてきた。そのまま身ぶりで後ろを見るように指示される。

 シャァァァァァン

 水に何かが叩きつけられる音。驚いて振り返ると海から何かが飛び出した。

 それは大きな魚の形をしていて、月明かりもないのに鱗がキラキラとしている。

 「コン、だ」

 キロクが囁いた。

 コンは水に潜り再び宙に躍り上がるのを繰り返している。鱗が煌めいて、水音が鳴る、それは舞踏のようだ。しばらくして、僕はコンの姿が徐々に変わってきているきているのに気付いた。体で煌めいていた鱗は、コンが跳び上がるその度に、鱗粉のように周りに散った。

 そうして何度かの跳躍の後、コンはこれまでとは比べられないくらいに高く跳んだ。

 「はじまるぞ」

 コンは、もう魚に見えないくらいに膨らんだ体を窮屈そうに丸めた。丸まった背中から爆発するようにして一対の翼が飛び出した。翼は鱗よりも強く光輝いて月が出たかのようだ。

 僕がもっとよくみようとコンに目を凝らしたその時、

 ビシィッ!!

 頭を割るような大きな耳鳴りに僕の意識は暗転した。

 気が付くと僕はキロクに寄りかかっていた。光り輝くあの魚はもういない。

 「ねえキロク……」

 「終わったよ」

 「綺麗だったね」

 「羽化とは死だよ」

 「えっ」

 「羽化とはつまり死だ。死の間際の最期の生命の輝きだ。だからこそ美しい。

 けれども哀しいな」

 一息に言うキロクの声は何故か泣くようで、僕は何も言えなくなる。そんな僕の頭をそっと撫でて引き寄せた。

 「疲れたろうから。眠ると良い。埠頭に着いたら起こしてやる。起きなかったらちゃんとお前の家まで運んでやるから」

 キロクは優しく頭を撫でながら、口笛の曲を歌い始めた。穏やかな波音と合わさるような低く優しい声は、頭を撫でる手の優しさと合わさって僕を眠りに誘う。そういえばキロクの歌声を初めて聞いたなと思いながら、僕は眠りの縁に落ちていった。

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