天国脇で深海魚は眠る(薫の話)
だれかの体温が、わたしの瞼を撫ぜた。少しだけつめたくて、けれども血の通ったいきものの熱さは、記憶に囚われた深海魚のわたしにとっては火傷してしまうくらいの熱をもっている。
もう痛まないようにと海底へしずめた。そんなこころと心臓は既に軋んでしまった。浸透圧に耐えきれない肋骨は張り裂けそうで、息がつまるのだ。
何処までも透明な青、碧。
切り傷だらけの二つ目は瞼の裏にしまいこむ。このまま光を見ずに瞼ごと退化させてしまえれば良いのに。遠くでゆらいだ水面の向こうにいるかみさまには、ちっともわたしの祈りは届かない様子で、わたしの小さな心臓はまたくるしげに啼くのだ。
深海魚のわたしにとっては眠りがすべてで、それ以上もそれ以下も望まなかった。ただただ眠り、海の底よりも深く意識をおとして、すべてを忘れ去りたかった。そうすれば、くるしかったことも、哀しかったことも全部なかったことにできるから。この深い海の底で、自分がしんでしまったとしても、わたしは満足だった。幸せなことばかりを思い出に、息絶えることができるなら、それはどんなに素晴らしいことなのだろう。
けれども、80分の間隔で、だれかの体温がわたしの瞼を撫ぜるのだ。ほっそりとした指先の体温が、薄い皮膚のしたにいきている熱さを連れている。自分の肌の奥にも、まだ熱があることをわたしは思い出す。つめたい海の底では、人肌は火傷してしまうくらいに熱いけれども、それは深海魚の目を覚まさせるのだ。心臓をころしてしまいそうなつめたさのなか、だれかの体温のせいでとまりかけた拍動はくりかえされてしまう。
何処までも脆い青、碧。
なにも覚えていないわたしの心臓が、星屑を散らす。水面に映り込んだひかりが、刹那に瞬いて、月の引力でひいていく波のさざめきに消えていった。そうしてまた、わたしの二つ目は産まれなおしてしまうのだ。
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