E17 劉樹のお世話は誰のもの

 ――十二年前、パリ郊外の広いアパルトマンにて。


 ママンは散らかり気味のリビングにゆりかごを出していた。

 中には、可愛らしい赤ちゃんがいた。

 名前は、黒樹劉樹だ。


 劉樹が産まれた時、蓮花と和は普通に兄と姉として家族にいた。

 劉樹が生後三か月の時、蓮花は八歳で小学生、和は五歳で本来なら入園した幼稚園に行っているはずだった。

 疲れの見える家庭に光が差すように、劉樹は誕生した。

 それはそれは、小さな赤ちゃんの劉樹は、二人には可愛がられた。


 まだ、ミルクの時期で、黒樹の元妻は、美しいはずの金の髪を振り乱して、半醒半睡はんせいはんすいと言っても構わない状態で、黒樹との愛の結晶を育てるのではなく機械的に世話をしていた。


 蓮花は、気の利く子で、ミルクを持って母親が寝てしまっていると、最初、膝をトントンと叩き、それでもダメなら、蓮花がミルクを与えて、重たい劉樹のゲップまで出してやった。


「りゅうきちゃん、りゅうきちゃん。おねえちゃんよ。今ね、ママンはお休みしているの」


 和も優しい子で、おむつ替えの時に、お尻拭き用の濡れティッシュや新しいおむつを持って来て、使用後のおむつはキチンと丸めてビニールに入れ、ゴミ箱に捨てていた。


 劉樹のお世話を手伝うことで、自然と蓮花と和の兄弟の絆は深まった。

 その手助けがいけなかったのか、黒樹の元妻は、自分の時間を作りたがるようになった。


 黒樹の元妻は、キッチンにあった、夫の飲みかけでない新しい飲み物を出して、トクトクとグラスに多めに注いだ。


「私って、何にもできないじゃない? 高卒だし、リセ・Nの一年から付き合っていた、陽翔が、まさか妊娠させるとは思わなかったのよ。彼のことは嫌いではなかったけど、ちょっと足りない所があって、結婚までは考えてもみなかった。まあ、子どもがいたのなら、私が働けないから結婚も仕方がなかったけど……」


 クイクイとグラスの中で飲み物を波打たせながら、あっと言う間に減らして行く。

 なくなれば、新しく注ぐ。

 自分で注げばいい、こんなものとヤケッパチを見せつけるようだ。


「二十歳で妊娠中に、二人でドライブしていたら……。あのバカ、事故ってしまったのよね。陽翔だけ、ぽっくり逝っちゃって。……恨むわよ。一人で産んだ蓮花にも会わずに」


 蓮花が、キッチンのドアをノックした。


「ママン、いるの? お話しがあるの。入ってもいい?」


「それからね、聞いている? 陽翔。間もなく、なるべく早く再婚してやったの。山野と。この男、つまんないのよね。和をもうけたら、さっさと日本へ帰っちゃって。蓮花なんてその時は三歳よ。和は大人しくない赤ん坊で困ったなんてものじゃないわよ」


 何かの写真たてを見ながら話し掛けていた。


「ママン、お酒臭いわ。黒樹のお父様から電話があったの。今日も遅くなるって。先に食べてくれって」


「酒じゃないの。ジュースよ! また、仕事、仕事かよ!」


 バンとテーブルを叩くと、グラスが傾いてこぼれた。

 それは、蓮花だけが見ていたが、とても驚いたのを覚えている。

 綺麗とは言い難いテーブルの上をクモが這ってすするようにアルコールを飲んでいた。

 黒樹の元妻は、アルコールに走ったのだった。


「なんて、男運がないんだろうね。こんな、郊外に立派な家なんてなくてもいいからさ、職場の隣にいたかった……」


「ママン……。私がいるから、大丈夫よ」


「うっさい! 何ができるって言うのさ! 料理とかどうするの? 火を扱えるの? 毎日、電子レンジで頭に来ているって、顔に書いてあるわ!」


 興奮して、体を震わせて、蓮花の顔を指差した。

 蓮花は、先端恐怖症なので、ぎゅっと目を瞑った後で、ママンに明るい笑顔を見せた。


「そんなこと、気にしていないわよ。ママンの買って来てくれるものは何でも美味しいの」


「おねえちゃん、どうしたの?」


「こら、和! 又、散らかしたでしょう。さっさと洗濯物たたみなさいよ」


「はい。すみません。ごめんなさい、ママンを怒らせてしまって。ごめんなさい」


 黒樹がしているのを見て真似ている、土下座を何回もした。


 ――それから三年後。


「双子なのですか?」


 産科の医師に告げられた。

 ぶすっとしている黒樹の元妻に、医師はフォローを入れた。


「ええ、そうです。おめでとうございます」


 蓮花は十一歳の中学生、和は八歳の小学生、劉樹は三歳の未就学児だった。

 三人とも日本国籍にしてあるので、又、そうなる可能性は高い。

 黒樹の元妻はそれもしゃくに障った。

 自分の親に、孫だと笑顔で手を引いて連れて行ったことがない。

 何故なら、似ていないから。

 悔しくて仕方がない。

 今度の子達が、金髪であっても、国籍をフランスにしてくれなかったら、別れようと思った。

 日本は二重国籍は厳しいから、海原も山野も黒樹もファミリーネームがついてしまい、厄介だった。

 そんなこととバカにしないで欲しいと真剣に考えていた。

 いつ離婚するかしか頭になかった。


 劉樹は、妹か弟ができるとワクワクしていた。

 蓮花と和にとても可愛がって貰ったので、劉樹もそうなりたいと幼心に思っていた。

 いつだか、傷付けられた。

 二人がまさか、黒樹の元妻の連れ子だなんて思ってもみなかった。

 蓮花の父親は海原陽翔で、和の父親は山野拓磨だなんて、酔った母から聞かされた。

 子どもでも、父親の違う兄弟だとは理解できた。

 でも、何となく、同じママンのお腹から産まれたことは分かっていたから、いつまでも仲良くしていたいと思った。


 劉樹は、この後産まれて来てくれた妹達を大好きになり、蓮花や和と同じく、育児のお手伝いをした。


 しかし、とうとうその日が来てしまった。

 蓮花十六歳、和十三歳、劉樹が八歳、虹花と澄花が五歳の時にママンはいなくなってしまった。

 どんなに皆で土下座をしても許してくれる日が来なくなった。


「ママンが恋しい……」


 滅多に弱音を吐かない劉樹が呟いた。


「僕が守るから。ね、怖くないよ。ね、皆」

 

 それから、劉樹は家事のスペシャリストを目指した。

 皆に苦労を掛けたくない。

 美味しいごはんを作って、楽しく食べよう。

 さっぱりとしたお洗濯をして喜んで貰い、掃除も細々として行き届いたものにしよう。

 虹花と澄花の宿題なら一緒に勉強をし、ママンが恋しくて泣いたら、抱き締めてあげよう。

 ただ、劉樹の好きな、スープ春雨をたまにでいいから、作らせて欲しい。


 そのささやかな願いの為に、日々、家事にいそしんだ。

 今、劉樹のお世話は誰がするのだろう。

 この小さな胸にチクンと来るのは、自分だけで十分だと思った。


 ……ママン。

 せめないから、お顔を見せてね。


 劉樹は、心の中で、ひなぎくさんとお父さんと一緒にお仕事のお手伝いをしていれば、黒樹の元妻が現れるのではないかと思った。


「ねえ、皆で、アトリエデイジーのお手伝いをしようよ。まだまだ、学校は始まらないぴくよ」


「うん? どうした、劉樹。いつもながらに殊勝だな」


「お父さん、お願いします。ひなぎくさん、お願いします。この通りです」


 校門で地べたにがばりと土下座をしたので、特にひなぎくは驚いた。


「まあ、まあ、顔を上げて。お気持ちありがとうございます。でしたら、色々と楽しくしましょうか」


「お、劉樹、いいなあ。俺もやるよ」

「私も」

「いいでしょう、パーパ―」

「お願いします。パパ」


「何ていい子達なのだ。パパは、一生忘れないよ」


 一人一人を抱き締めた。


「私もがんばりますね。皆、無理はしないでね」


 ひなぎくは、事情を知らなかったが、沢山の幸せに包まれた。

 皆と握手をして、頭を下げた。


 こうして、アトリエデイジーは闇を引きずりつつも、動きだした。

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