E16 KAZ
――二年前のパリにて。
和は、十五歳。
日本人学校ではなく、地元パリ市内にある普通高校のリセ・デユメルシを選んだ。
まさか、将来日本へ行くとは思わなかったのも一因にある。
黒樹の金髪の元妻に似て、父親の山野拓磨には似なかった、その髪と瞳。
和は、元々は少し銀の入った金髪のロン毛に海のように深い碧い瞳だった。
あまりに綺麗な面立ちにぐっと来た女子は少なくない。
小学生の頃は、しょっちゅう冷やかされて、望んでもいないのに、少女漫画のようだと言われた。
その和が、この頃お気に入りのサンドウィッチ店、『セボン(おいしい)』に必ず寄っていた。
「はい、いつもの玉子サンドとレタスチーズ入りハムサンドですね」
「うん、よろしく」
和は、すごく微笑みたいのだけれども、付き合ってとも言っていないのに何かナンパな感じが嫌だったので、こらえていた。
「あ、細かいのがないや! 百ユーロでお釣りある?」
和は、黄色い二つ折り財布をあさったが、今朝、蓮花に貰った百ユーロ札(およそ一万三千二百円)しかなかった。
「ごめんなさい。さっきのお客様で切らしてしまって。お待ちいただければ、両替えをして来ます」
「うーん。これがないと、リセで午後から元気が出ないんだよ」
昼休みに、サンドウィッチを食べては、彼女のやわらかい笑顔を思い浮かべるのが楽しみだった。
「あ、あの。申し訳ございません。お代は明日にいたしましょう。遅刻してはいけませんし」
「それはいけないよ。僕は、もう寒いしマフラーが欲しいから、今日の帰りにでも買い物しようと思っていたの。その時にくずすから、帰りに寄る。なあ、君は夕方もいるのだろう?」
「申し訳ございません。私、マフラー、楽しみです」
彼女は深々と頭を下げた後、天使のように笑った。
和の普通高校に近い裏道にあるから、中々知る人ぞ知る店だと喜々としていた。
何故通っているかって、それは、玉子サンドがママンの味だからは建前で、本音は名前も知らない売り子さんが可愛いらしいからだった。
学校から、ちょっと出掛けて、気に入った羊毛で編んだベージュのマフラーを買った。
これで、もう寒くないと、早速首に巻いた。
いや、彼女の事を考えただけで、胸がはずむからあたたかいのだが。
そこの横道を曲がるんだと、路地裏に入った途端だった。
ドガッと蹴られた。
「ぐ、ふお……! 何が起こったの?」
「てっめ、ナマいってからよー。金髪!」
ドドガッと再びすねを蹴られて、和はしゃがんでしまった。
「痛いじゃないですか。僕は、何もしていませんよ」
何とか切り抜けようとしたが、相手は一人ではなかった。
「僕ちゃん、お金持ってる?」
もう一人、ガムを噛むヤツ。
「それに可愛いじゃなあい」
少し女装趣味なヤツ。
三人のガラの悪いヤツらに囲まれた。
「てめー、ムカついてるしよ。狩らして貰う」
「覚悟しな」
ヤツらに好きなようにされてしまった。
顔まで、ぼっこぼこだ。
髪もザクリザクリと切られた。
口にガムテープで声を押し殺された。
マフラーは、踏みつけられていた。
「お、いいじゃんこれ」
マフラーで首を絞められ、和はもう気が遠のいてしまった。
どれだけ時間が経ったのか、目を覚ました。
「つっ……」
マフラーを探すと、『セボン』のゴミ置き場にぐちゃぐちゃになって置いてあった。
「彼女とあいつらは何の関係もないはずだ。近寄らせてはいけないな……」
理不尽なだけ、理不尽なだけと呟き、その場から去った。
午後の日差しが段々と闇になった頃、和はポケットに手を突っ込み、黒樹の家に帰って来た。
「和、どうしたの? 髪をそんなに短く刈ってしまって……」
蓮花は、単なるイメージチェンジではないと和に疑問を投げ掛けた。
「……っつ。俺のことは関係ねーだろ! 今朝の金で切っただけだ」
和は、うっかり甘えで悪態をついてしまった。
こんな言葉遣いは和らしくない。
和は、兄弟でも黒樹の再婚により、十歳と九歳が二人の幼い
路地裏を歩くことはなくなり、玉子のサンドウィッチの美味しいお店、『セボン』には、もう行けなくなった。
そして、口数も少なくなった。
この時、黒樹は、真相を知らずに反抗期かと思っていた。
和は、がっつりと疲れたいと思い、冬休みにアルバイトをした。
輸送会社での荷下ろしだ。
美術作品の運搬を専門に扱うD運送会社で働いた。
「美術品って考えてみれば、大きさも形もばらばらなんっすね」
少しは話せるようになって来た。
「だからこそ、正しく扱わないとならないんだ」
「すっげ。これが、美術品を運ぶための専用車ですか」
やはり男の子、乗り物に興味がある。
「ああ、学芸員も一緒に乗れるんだ。勿論、温度や湿度も管理できるよ。何かあってもいけないから、衝撃を吸収できるようにもなっている」
「ただ、トラックだけではダメなんだ。専門の知識を持つ人もいないと、全部が機能しないのさ」
「成程っすね」
体を動かしながらも人との交わりを大切にしたいと、アルバイトをしながらしみじみ思うようになった。
「おっと、ここから先は、俺らしか無理だな」
「展覧会の設営には、学芸員さんと二人三脚で行うのは分かるよな」
「そうっすよね」
「俺らの作業服には、胸ポケットは飾りなのさ」
「万が一、美術作品が傷付かないようにな。長袖着て来いって言っただろう」
「ええ」
和は、一つ一つ頷いた。
「それも必要なんだ」
「個々の設置には、赤外線レーザーや特殊な台車も使いこなせなければならない。展示位置を決めるのは、俺らにとっても重要な仕事の一つさ」
和は、冬休み一杯を働いて払拭しようとした。
ここの人達は優しい。
少しでも仕事を覚えられて、可愛がられて、何だか、涼しい髪型にもなじんで来た。
もう少しだ。
もう少しがんばって、黒樹の兄らしくなろう。
皆、がんばっているんだ。
もう、自分のことは、僕とは呼びにくい。
俺と呼んでも、心根は優しくありたい。
家に帰れば、大切な家族がいる。
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