E11 初めての涙
ひなぎくが、カチャリと静かに五〇三号室の鍵を回す。
手荷物は、ピンクのポーチが一つだ。
流石に浴衣姿は、はだけると恥ずかしいので、着替えの淡い黄色のスーツにした。
「お待たせいたしました」
黒樹は、寒くないのか、ホテルの白地に青の浴衣で行きたいようだ。
第二次ベビーブーム生まれの黒樹は、小学校なんてランニングに短パンで行ったものだと笑っていた。
強がるのが漢なのかも知れない。
「二階の『しだれざくら』に予約を入れてある」
エレベーターは、たまたま誰もいなかった。
ボタンは黒樹がパッパと押した。
黒樹には、少しせっかちな所もある。
「お食事が和食でしたから、バーは洋風でいいですね」
「うむ。どうやら、『しだれざくら』は、和風バーらしいぞ。お箸でいただけるとあった」
黒樹が浴衣の袖に腕を通して、ひなぎくにはちょっと偉い人に見えた。
今までも、大学院で教わって来た教授なのだから、しっかりした肩書があるのだが、いつもおちゃらけているせいか伝わって来ない。
今夜は少し違う男性に見えた。
「それも楽しみですね」
俯いて、静かなエレベーターの時間を長く感じた。
ひなぎくが、自分がそうなのだから、黒樹も同じではないかと思った程錯覚があった。
「子ども達なのですが、楽しそうにお食事をした後で、はしゃぐのかと思ったら随分早く寝付きましたね」
ポーンと二階に着いたチャイムで黒樹に続いてひなぎくも降りた。
「ああ、旅の疲れもあるのだろうな」
「そうですね、環境の変化とかも」
黒樹が振り向いたので、ひなぎくはドキリとした。
しかし、ひなぎくにとっては、黒樹への想いは隠さなければならなかった。
子どものことだけではなく、恋愛においては自分から踏み出せない性格なのだ。
今までも、視線が合うのも避け、顔を赤らめるのもためらって来た。
「ここだ、先に入ってくれ」
「ありがとうございます。プロフェッサー黒樹」
『しだれざくら』の一等の席を案内された。
緋色のテーブルは斜めになっており、二人で景色を共有できた。
夜景にしだれ桜がライトアップされている。
花はなくとも絶景であった。
テーブルには、一輪の青いバラがあり、珍しいと思った。
「又、プロフェッサー黒樹か」
腰かけた途端、額に手を当てて唸った。
こんな場面は、今までに数回あった。
「ええ。生涯、プロフェッサーでいてください」
「それは、拒絶か? プロポーズなのか?」
黒樹は、紛らわしい言葉に突っ込みを入れるしかなかった。
ひなぎくは、俯いて首を横に振った。
「私は、待つ女なので。プロポーズは多分難しいと思います」
「待つ? もう三十路だぞ。女はな、子どもなんてぽんぽん産むものではないのだぞ」
急に哀しそうにうなだれるひなぎくに、黒樹は肩を引き寄せ、ぽふぽふと優しく抱いた。
「悪かった……」
「いいえ、そんな」
「俺は、ジンが好きなんだって知っているよな。ラムベースでフローズンダイキリでもどうだ?」
「お任せいたします」
綺麗な黄色のカクテルが届いた。
ひなぎくは、自分が着ている服に合わせてくれたのだとはっとして頬を染めた。
「ありがとうございます。お気遣い嬉しいです……」
俯くと、頬を流れるものに白いデイジー柄のハンカチを当てた。
「この温泉郷はさ、掘削してみて偶然源泉に当たったそうだよ」
「そうなのですか」
「ここはさ、俺のじいさんと地元に嫁いだ姉夫婦の墓があったんだ。どうやら、のまれてしまったようだよ。この酒のようにね」
一気にグラスを傾け、喉をコクリと動かした。
「それは、お辛いですね。お母様はどうなさったのですか」
「生きていても、別れるってことはあるそうだよ」
ひなぎくは、聞いてはいけない話を振ってしまったと思い、口を両手で覆った。
「今は、同じT県でも、別の町の人だ。新しく
「私も、これからアトリエで働けるのが楽しみです」
明るい話に切り替えた。
「それなら、俺とずっとやって行こう。何も焦ることもなかったかな。ひなぎくちゃんが気にしないなら未婚でいいのだけれども、老婆心ならぬオジサン心が出てしまってな」
あまり飲めないひなぎくは、チーズをいただいた後でちょぴりとフローズンダイキリを口にした。
口当たりは良かったが、大人の味がした。
やはり、未婚のバージンでいるのは難しいことなのか、ひなぎくは悩み始めた。
「あの……」
「なんだ?」
「子どもは、私、好きなのです」
黒樹の愛おしい五人の子ども達を思い浮かべて、好きだと告白した。
遠回しに、婉曲的に告白した。
お酒の雰囲気にのまれたのであろうか。
「うん、それで? ひなぎくちゃんが、うちの保育士や家政婦でもやりたいのか」
「保育士や家政婦ですか。主婦とは違うのかしら」
ひなぎくには素朴な疑問だ。
何せ結婚生活の経験がない。
「それは、全然違うよ。お金を貰う貰わないの問題でもなくて。何が一番違うと思うんだ?」
「一番の違いですか。うーん」
考えても言葉にならない。
「それは、『愛』だと思いませんか……?」
黒樹が、人に教えることで、最も大切なことを初めて言葉にした。
落ち着いた大人の眼をしていた。
「愛……」
ひなぎくは、胸を打たれた。
今までの自分がどこか落している所があると思っていたけれども、この『愛』だとは思わなかった。
ひとなみに『愛』を持ち合わせていると思っていたからだ。
黒樹に対しても淡い想いがあるけれども、それは違うのか。
「先ずは、ひなぎくちゃん。ご自身を愛しなさい。自分を大切にできないと、人のことまで責任を持って、できませんよ」
「自分は、後回しではないのですか」
ひなぎくは、自分が優先との意外な意見に心がゆらりと揺れた。
「俺は、俺が溺れてしまって助かっていないのに、溺れた人を助けられない。そんなに器用ではない。そう思いませんか」
決して酔ってはいない澄んだ瞳で語られた。
「分かりません。分かりません、まだ」
カクテルを持つ手がピリリと震えたのをコトリと置いて休ませた。
綺麗な黄色を見つめて、自分の顔が揺らめくのを感じた。
黒樹の優しい言葉の波がひなぎくを締め付けて行く。
「これから、大人の愛と親の愛について、思いもよらない災難にあった時に発揮するでしょう。それまで、仲良くできるお友達がいたら大切になさい。恋人がいたら、その手を離してはいけません。夫婦になっていたら、別れても縁は切れないと祈り続けなさい」
黒樹は、ひなぎくの手をそっと両手で包んだ。
つかまえた蛍を逃さないかのように。
黒樹の手を涙で濡らして、赤子のように顔をはらして。
初めて……。
泣いた。
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