第二章38『不安』
──暑い。寒い。苦しい。気持ちいい。
彼は一人、暗黒の空間でその混在した感覚を味わっていた。今、彼の身体には様々な感覚や感情、刺激が流れ込んでいた。熱気、冷気、痛覚、快感、怒り、悲しみ、喜び、そして後悔。
──あ……れ? 俺は……一体……。
何をしてたんだっけ、とその後に続けようとして彼は気付いた。そこが、彼にとっては見慣れた空間であることに。
「……っ! ここは……!」
そうして彼、
「……『時間跳躍』を使った時に来る所、だよなここ……?」
翔は辺りを見渡してそう呟く。翔がいるその空間は確かにその謎の空間にに似ていた。しかし唯一違ったこととしては、その空間が異様な空気に包まれていたことであった。
まるで、神かなにかの怒りがその空間に降り注いでいるかのように。
「随分と不気味になったな、ここも」
もうすっかりその空間に来ることに慣れたかのように、翔はそう苦笑する。その笑いにはどこか安堵の色も含まれていた。翔がその空間にいるということは、すなわち自らの作戦が成功したということの証明にほかならなかったからであった。
「……俺がここにいるってことは、『時間跳躍』に準ずる
そう呟いたのと同時に、翔の顔には笑みが浮かんでいた。
──なんか、改めて人間離れしてきてるな、俺。
その笑みはどんどん異質な存在になっていく自分に対する苦笑であり、同時にますます力をつけていく自分への誉れの笑いでもあった。先程までの暗い気分からは一転して、翔は満たされた気分に包まれていたのだった。それはまた人智を超えた所業を成し遂げたことによる達成感と、そしてその成功によって生まれた
──これで何とか、俺は
そう考えてから、翔はまた小さく笑った。そうして晴れやかな気分で翔が一つ息を吐くと、その時翔の後ろから声が聞こえた。
「──カケル」
その声はいつもと同じ、翔が聞き慣れたフィーリニと同じものであった。しかし翔はその声に思わず身震いをする。その声は確かに何度も聞いた、フィーリニと同質の声であったが、同時に聞いたこともないような邪気を孕んでいた。その語調はかつてないほど険しく、翔は呼び掛けられたにも関わらずその声の主の方に振り返ることが出来なかった。
──何……だ? 何か、
その悪寒の正体を知ることが出来ないまま、翔の背後の存在はきっぱりと言った。
「大丈夫ですよ、カケル。貴方に何があっても、私が助けに行きます」
その言葉は一見翔を気遣うものであり、その声色も単純に翔を心配しているようなものであった。しかし翔はその言葉にどこか違和感を覚えた。どこかが
そうして翔がその言葉にどこか嫌悪を覚えていたことなどつゆ知らず、その存在は言い放った。
「貴方がどんな失敗をしても、貴方がどんなに後悔に駆られても、貴方がどんなに罪の意識に苛まれても、大丈夫です。
まるで母親が自らの赤子に投げかけるような優しい口調で、翔の背後の存在はそう言った。その気味の悪い言葉に、翔は思わずその場から離れようと走り出す。
「……っはぁ、はぁ……」
翔は走った。その空間はやはりあくまで精神的なものらしく、その足に履いた
──っ!
その背後から迫る不気味な存在に、翔は思わず息を呑む。
──やだ。怖い。来るな。来るな。来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るなくるなくるなくるなくるなくるな。
しかし翔がどれだけ願っても、その背後の存在は翔から離れることは無かった。堪らず翔は絶叫と共にその場に倒れ込む。
「うわああああああ!」
それと同時に翔の身体が乱暴に揺さぶられ、翔の意識は現実へと戻っていった。
「……っ! おい、カケル!」
声の主は元二であった。その声に、意識がまだどこか夢の中にあった翔は、数秒の後に返事をする。
「……隊長……? ここは……遠征隊は一体……」
その頭を起動し直前の記憶を呼び戻すのに翔がそう苦心していると、元二がため息とともにその言葉に答えた。
「……『新種』は消えたよ。ビーと一緒にな。あの嫌な『気』が晴れてから、俺とリーで血眼になって探したんだけどな。なんの痕跡もなく消えちまったみたいだ」
そう元二が言った『気』というのは、翔が『新種』を未来に飛ばさんとした時に辺りに立ち込め始めた暗雲のようなもののことであろう。確かな邪気を孕んだその謎の気配は、確かに翔も嫌悪を覚えたものだった。その元二の言葉から状況を察した翔は、改めて辺りを見渡す。
まるで一切の音を失ったかのように静かなその雪原は、少し前までの不気味な雰囲気を失い再び厳かなものに戻っていた。今も降り続ける雪が少しずつその地面の厚みを増していく中、同時にその白の粉末は先程までの戦いの痕跡すらも消し去っているようであった。その情景を見渡して、翔は改めて思考を整理する。
──この戦場から、『新種』とビー先輩だけが消えた。隊長たちが言うんだから、その事実は間違いない。ってことは……。
そうして翔は目を見開いて、その顔を喜びに輝かせて言った。
「……やっぱり、俺の作戦は成功したんだ!」
突然そう叫んだ翔に、元二は驚いて翔の方を見る。しかし翔はそんなことなど気にしない様子で、その目を爛々と輝かせてぼそぼそと呟く。
「よしよし……! 相手に触らなくても『発動』できるなら、戦略の幅は一気に広がる……! 今回みたいに遠征中に対処出来ない敵に遭遇しても『飛ばす』ことが出来るし、遠征の帰りとかに
そうして目を大きく開き、笑みを浮かびながら何かを呟く翔の様子を見て、元二は思わずその言葉を発する。
「……カケル、お前
その元二の言葉に、翔は怪訝な顔をして答える。
「……はい? それはどういう……」
「いや、勘違いだったらいいんだけどな」
その翔の言葉を遮って、元二はそう続ける。
「……今日のお前、なんか怖いぞ。まるで
「──っ!」
その元二の言葉に、翔は呆然とする。それは翔の想定していなかった言葉だった。そして同時に、上がりかけていた翔の気分をどん底に落とすのに十分なほど、残酷な響きを含んでいた。
──あれ? 俺は、俺は一体……。
再び翔がその思考を混乱させようとするのを見て、元二はため息をついて指示を出した。
「……何が何だかわからんが、とりあえず基地に帰らないとな。『新種』とビーがどこにいるか分からない以上、闇雲に探すのも効率的じゃない。それに……」
そこまで淀みなく言ってから、元二はちらりとベイリーの背負った手負いのランバートの方を見て、苦い顔になって続ける。
「……ランが、外気を少し吸っちまった可能性がある。
その元二の強調した言葉の意味を翔は知らなかったが、それでもその元二のその言葉に翔は素直に頷いた。これまで独断行動をしてきた翔としては元二のその指示に従わない訳には行かない。それに加え、元二のその提案は翔にとっても願ったり叶ったりのものであったのだ。
──『新種』とビー先輩を未来に送った以上、今俺らがここにいてもなんの意味もない。早く基地に帰って、
翔の想定では未来に飛ばされているはずのフレボーグと『新種』についても、未だ油断はできない状態にあった。翔が彼らを未来送りにしたことでその戦いの決着が長引いたことには変わりないが、それでも彼らがこの世界に戻ってきた時に遠征隊が助けに入れないようでは当初の作戦の意味が無いのだ。
「……そうですね。早く帰りましょう、俺らの基地に」
そうして翔は元二に従い、基地への帰路に着いた。その心の内に一抹の不安を抱えながら。
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