第二章11『雪原を駆ける』

 翔がだき抱えたその小さな身体は、これまでどれだけの悲しみを経験してきたのだろうか。この少年は親を無くし、この寒い世界で一人、何かに追われながら生きてきたのだ。それでもこの少年が最後まで翔のことを気遣おうとしていたのは、紛れもなく少年キラの『強さ』などではなく、溢れんばかりの『優しさ』であったのだ。


 今や翔がだき抱えたキラの身体は熱を帯びており、その目から滲む雫はこれまでキラがどれだけ苦労してきたのかを如実に表していた。もしこの少年が英雄ヒーローのように強い人間であったら、こんな涙など流すはずもない。やはりキラはただの一人の子供であった。人より少しだけ怖さを我慢することができただけの、本当はちっぽけな子供だったのだ。


 ちっぽけな存在だという面では翔も似たり寄ったりである。啖呵をきったはいいが、まだ何の策も翔の頭には浮かんでいない。救援たすけは基地を包囲する彼らが消えない限り来ることはできないだろうし、そもそもこの逃走劇は翔の独断によるものだ。そんなものに遠征隊が付き合ってくれるとは思えない。


 ──つまりは絶望的、ってことか。本当に、何をカッコつけてるんだ俺は。


 翔は内心そう思った。しかしそれを口には出さない。出してはいけないのだ。口に出してしまえば、だき抱えた少年キラにその弱音が聞こえてしまう。


 英雄ヒーローは弱音を吐いてはいけない。弱さを見せてはいけない。助ける対象に、不安を抱かせてはいけないのだ。


 改めてイバラの道だな、と翔は苦笑する。本当は翔には格好を気にしている暇などない。翔の知恵を総動員して、翔の総力を尽くして、何とか切り抜けられるかといった状況なのだ。しかし、翔は誓ってしまったのだ。目の前の少年の前で、英雄ヒーローで居続けると。


「……さぁーて」


 そうして思考をまとめてから、翔の足がようやく接地する。翔の身体は先程まで大跳躍していたのだ。その足に履いた、天才少女アンリお手製の靴によって。


 ──これの使い方はよくわからねぇが、ひとまず底を蹴り付ければ大跳躍ができることは分かった。


 四面楚歌のこの状況から脱するには僅かながら有難い力である。翔は心の中でアンリに感謝し、改めて周りを見渡す。


 先程の大跳躍により包囲を抜けたが、依然翔の状況が悪いことには変わりなかった。想定外のその翔の大跳躍にも隊列を乱さず、敵はこちらに向かってくる。


 ──むしろさっきの跳躍ジャンプで基地からまた離れちまった。このままじゃジリ貧だ。


 逃走劇と称しても、翔とキラの最終目的地は基地である。しかしその前には大量の兵士が列をなしている。あれを正面突破するのは、先程の大跳躍を考慮に入れても不可能であった。


 ──さて、どうするか。


 翔がそう思案し始めた時、翔の耳に通信が入る。


「カケルさん! 聞こえますか!?」


 そう通信をしてきたアンリに驚いて翔は返す。


「アンリ……? なんで通信を……」


 翔はアンリの忠告を破ったのだ。キラを見捨て逃げるべきだというアンリの指示を仰がずに、翔は一人勝手にキラと逃げ回る覚悟を決めた。しかしそんなことを微塵も気にしない様子で、アンリは続ける。


「カケルが私の忠告なんて聞かないことは予想が付いてましたよ。カケルさんがその子供を見捨てないと決断したなら、私達もカケルさんを助けるまでです」


 そのアンリの言葉に、思わず翔は目を潤ませる。


「……ありがとな、アンリ」


「礼は助かってから聞きますよ。さて、私が作った靴は履いてますか?」


「……ああ、もちろん」


 翔は改めてその靴を見て答えた。それは一見普通の靴であるが、それでも先程の大跳躍はこの靴のおかげなのだ。改めてその靴に感謝し、翔は来たる通信に耳をすました。


「気付いてるかもしれませんが、それはただの靴じゃありません。大跳躍はもう体験しましたか?」


「ああ。すげぇんだな、これ」


 最初無意識的に使った時はその機能が厄介なものにしか思えなかったが、使いこなすことができれば一級品である。先程の大跳躍は人をひとり易易と飛び越え、十メートルは先に着地することができた。通常の脚力では考えられないほどの跳躍である。


 その翔の言葉から既に翔がその靴を使いこなし始めていることを察し、アンリは言う。


「……流石はカケルさんですね。カケルさんの身体能力の高さなら、その靴にもすぐに順応する慣れるだろうな、と思ってましたよ!」


「お世辞は今要らないっつーの。この靴、何か名前とかあるのか?」


 翔はアンリにそう問い掛ける。しかしその翔の言葉に、アンリは少し唸ってから返す。


「……私、名前とか付けるの苦手なんですよね。なんかカミサマにでもなった感じになるので。だから、カケルさんが好きなように名付けしてもらっていいですよ?」


 アンリのそのどこか斜に構えたような考えに苦笑しながら、翔は少し思案する。しかしもうほぼ結論は出ているようなものであった。


 ──兎のようにこの雪原を駆ける、この靴にはこんな名前がぴったりかな。


「『雪兎シュネーハーゼ』。そう呼ぶことにするか」


 その名前がどこか少し気恥しい気もしたがその感情を翔はさておいた。今はそんなことよりも、目の前の状況打破が最優先だ。


「それとカケルさん、もうひとつ連絡事項があります」


 と、そう集中し始めた翔にアンリから通信が入る。


「基地は今や包囲されていて、ゲンジさんや、カナリアランバートさんはどうあってもそちらには行けそうにありません。けど、裏口の方から一人増援を送っておきました」


 その者の正体を聞く前に、アンリがひとつ息を吸ってからその答えを言った。


「……フィーリニちゃんをそちらに向かわせています。彼女にはゲンジさんのマスクを付けてるので、カケルさんの居場所はいつでも把握できます。だからカケルさんは通信を全員に繋げた状況で、ひとまず逃げ回ってください」


 隊長である元二のマスクには特殊の機能があり、そこに通信した者の居場所を大まかに特定することができるのだ。加えてそれを付けて助けに来るのは、遠征隊としては恐らく敵に一番気付かれないノーマークであろうフィーリニである。時間さえあれば、確実に翔はその増援と合流することが出来るだろう。


 そして何よりもその知らせは翔を奮起させるものであった。


「……フィルが来てる、か。そりゃ百人力だ」


 かつて一緒にマンモスをも倒した仲だ。その相棒が助けに来るとなれば、翔の安心感は計り知れない。


「……じゃあ、確認になるが俺がすべきことは……」


「通信を全開オープンにしたまま、フィーリニちゃんが来るまで敵から逃げ回る、ですよ」


 そのアンリの声を聞いて、翔は安堵とともにひとつため息をつく。


「……ありがとな、アンリ。お前のお陰でだいぶ頭が冴えてきた」


 改めて目的が定まり、翔のやるべき事が明瞭クリアになった。翔がすべきことはたった一つ。敵から逃げる、それだけだ。ひとつのことだけに専念できるのならば、翔の頭もまた別のところに使うことができる。思考と状況を整理してくれたアンリに、翔はそう礼を言う。


 しかしその翔の言葉になんとも可愛げなくアンリは返した。


「例には及びませんって。それより、大事な私の『雪兎シュネーハーゼ』ちゃんとやらの実証実験も兼ねてるんですから、頑張ってくださいよ?」


「実証実験って……。ホント可愛げねぇな、お前」


 翔はそう苦笑しながらも、改めて周囲を見渡す。


 ──本当に四方八方に敵、敵、敵。詰んでる状況のようだけど、まだやれることはあるよな。


 翔はそう決意し、改めてその少年キラを抱き抱える。これから翔がすべきことは敵から逃げ回ること。そしてそれに最適なものが、今翔の足には付いている。


「……『雪兎シュネーハーゼ』×『全身活性化アクティベート』!」


 そう言い翔はその包囲の一点に駆けていき、そしてその靴底を強く踏んだ。


 瞬間、翔の身体が急加速を始め、その包囲を文字通り『飛び越えた』。それほどの大跳躍でありながら翔が完璧に着地することができたのは、紛れもなく『全身活性化アクティベート』──名ばかりの平凡な力、その高い運動能力のお陰であった。


「……キラ、しっかり掴まってろ」


 翔は抱き抱えたその子供にそう呼びかける。その忠告は最もなものであった。その直後再び翔は『雪兎シュネーハーゼ』により急加速を始めたのだから。


 冷たい風が肌を突き刺す。元より風の強いこの世界に、加えてこの急加速である。その身が切る風は容赦なく翔の肌を突き刺していく。


 しかしその分翔の肺に供給されていく酸素と、そしてその雪原を駆ける爽快さは並外れていた。いつの間にか空から覗いていた太陽の光を浴びながら、翔は思わず笑みを浮かべる。


 ──よし、これならいける……!


雪兎シュネーハーゼ』と翔の持ち前の身体能力の高さにより、文字通り翔とキラは雪原を駆けていた。翔を包囲していた敵ももう遥か遠くにいる。そのうちの何人かはこちらに向かってきているが、もはや翔とキラの移動速度は並の人間の追いつけるものではなかった。


「およ?」


 しかし爆速で動く翔達の速度が急落したのはその直後だった。翔が靴を見てみると、その理由がすぐにわかった。


「……なるほどね、連続しては使えないのか」


 その靴、雪兎シュネーハーゼという靴はどうやら靴底が瞬間的に飛び出すことにより急加速を可能にしているようであった。しかしそれは裏を返せば、一度大跳躍をしたら一度接地しその靴底を元に戻すことが次の発動に必要となる。つまりは長い時間大跳躍をし続けるということは不可能だということだ。


「……けど、それでも十分だ」


 しかしその逆境の中でも翔は笑っていた。こんなもの、仕組みが分かればなんともないのだ。そして同時に、翔は自らが向かうべき目的地を思い付く。


「……まだ、あの洞穴残ってるかな」


 翔はそう呟きながらも、かつて彼がフィーリニと一緒に住んだあの洞穴の方向へ、雪原を駆けていった。




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