第八章 <Ⅲ>

「あの子が――。りんが、目が覚めるなり『おうちに帰りたい』と泣きだしまして……」


 助手席の沙羅さらの言葉に、権平ごんだいらは「え?」とつぶらな目を見張る。

 車は交差点の信号待ちで止まっている。


「おうちというのは――?」


 そのとき信号が青に変わって、また車の列が流れ出した。


「前に住んでいた家です。ここから車で二時間ほどの山間やまあいにある、葛籠谷つづらだにという村です。あの子が五歳になるまで、そこにおりました」


「なるほど。そちらの『おうち』なんですね」


 前方に視線を戻して、権平がうなずく。


「ですが、その家はもう無いのです。――火事で全焼してしまって」


 寂しげに睫毛まつげをふせる沙羅の横顔には、少女の面影が残っていた。


「では、さっきのぬいぐるみも、そのときに?」


「そうなんです。焼け跡にどうしたわけか、あの頭だけが落ちていたそうで――。拾って届けてくださった方がいたんです」


「そうでしたか――」


 権平はいたましそうに眉をひそめる。


「火事が起きたのは、私どもが引越してから二月ふたつき程あとのことでした」


 沙羅はため息をつく。


「連絡があって、すぐに私が現場を見に行ったのですが――。林に火事のことを話したのは、だいぶ後になってからでした」


「それは、彼女がショックを受けると思われたからですか?」


「ええ――。あの子は引越すのを嫌がっておりましたから。必ず戻ってくるからと約束して、やっと納得させたのです。ぬいぐるみのことは――、親友のように大事にしていた子グマが、首だけの無残な姿になってしまったのを見たら、あの子がどうかしてしまうのではと――。それで、とうとう言い出せなくて――」


 沙羅は細い肩をすぼませた。


「そうですか。それで隠しておかれたというわけですね」


 権平は何度も深くうなずいた。「つらかったですね……」


「さっき、林に嘘つきと言われてしまいました」


 窓に流れ去る夜の街を見つめる横顔を、一筋の涙が伝わる。

 沙羅は手のひらで顔を隠しながら「すみません」とつぶやいた。


「しかし、それは嘘というわけでは――」


 権平は眉間に皺を寄せる。


「いいえ。林に隠していたことが、実はもうひとつあるのです」


 ひとつ息を吐き、沙羅は告白した。

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