第八章 <Ⅱ>

 病院の夕食を、りんがなんとか半分ほど口にするのを見届けてから、沙羅さらは病室を後にした。エレベーターで冷え冷えとした階下へ下りると、明かりの消されたロビーは静まりかえっていた。


 ――娘と離れて眠るのは何年振りだろう。


 ひどく重い足を引きずるようにしてタクシー乗り場に向かっていると、ポケットの携帯電話が震えた。


「もしもし――?」


権平ごんだいらでーす。白銀しろがねさん、まだ、病院ですか?」


 滑舌かつぜつの良い声が朗らかに響いて、はっと沙羅は気を取り直した。


「は、はい。いま帰るところで――。お陰さまで、明日の午前中に退院します」


 電話の向こうから、ニッコリと頬笑む気配が伝わってくる。


「そうですか。良かったですねえ。いま、車で病院の近くまで来てます。正面玄関で待っててください!」


「まあ、そんな……。ありがとうございます。すみません」


 見上げる空に夕星ゆうづつまたたいている。私は一人だと思っていた。

 沙羅は通話を切ると、両目にハンカチを押しあてた。



 権平の愛車は黄色い中古のSUVだった。笑顔の大男が運転席から手を振っている。沙羅は会釈えしゃくして、助手席に乗り込んだ。


「すみません。こんな御迷惑までおかけして」


「とんでもないですよ。これしきのこと」


 権平はハンドルを回しながら、左右を確認した。


「なにか買い物はありますか?」


「いえ。今夜はもうなにも……」


「では、まっすぐお宅へ向かいますね」


 家路を急ぐ車の列は混雑気味ながらも、順調に流れていた。

 テールライトの赤い列とヘッドライトの黄色い列が、華やかに行き交っている。


「御主人には連絡取れましたか?」


「はい、なんとか。あちらは海が荒れていて、帰国はどうしても週末になると」


船便ふなびんしかない島では、大変ですねえ」


「すみません。御心配おかけして」


 地質学の研究者である林の父、白銀しろがね眞彦さなひこは、ジュラ紀の地層を調査する国際プロジェクトチームに参加して、一月前からタスマニア近海の離島にいた。


「ところで、つかぬことを伺いますが――」


 運転席の権平が、横目でチラリと沙羅を見る。


石動いするぎたちが、あの後、またお邪魔しませんでしたか?」


 沙羅は不思議そうにまばたきをする。


「いいえ。あれきりですけど?」


「そうですか。なら、良かった」


 権平は、ふふっと笑った。


「あいつらとは病院のロビーで別れたんですが、なにかコソコソしてましてね。実にいい子たちなんですが、何をしでかすか分からんところがあるものですから」


 日頃の三人組のやりとりを思い出すと、権平の頬が自然にゆるむ。

 石動は人一倍熱血で短気だが、天然の桐原きりはらも、天使の靱負ゆきえも、まるでストッパーにならないから、結果、本人が自制せざるを得ないんだよな。あいつら、ほんとうに面白いチームだ。


「――林は幸せです。権平先生や石動さんたちと巡り合えて……」


 沙羅は子どもの頃から、人に甘えるのが苦手だった。

 でも、今は助けが欲しい。林の為に。


 ――この人になら、すべて打ち明けてもいいかも知れない。

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