いえ、まだ緊張しています



「破談にはしなかったが、延期になったそうだぞ、式」


 昼休憩に入り、二人で、食器を片付けていたとき、逸人がそんなことを言ってきた。


「えっ。

 そうなんですか……」


 食洗機に入れるのに、微妙に多過ぎた皿を洗いながら、逸人が言う。


「まあ、いつもあんまり物事を考えない圭太が今回はいろいろと考え込んでいるようだし。

 いいんじゃないか?

 一度、じっくり落ち着いて考えてみるのも」


 どうなるんだろうな、と不安には思うが。


 富美が言うように、早くに結論を出そうとする必要はないのかもしれないな、とも思っていた。


「俺たちも少し考え直してみようか」


 そんな逸人の言葉に、棚に片付けかけていた食器が手から滑り落ちかける。


 そ、それは、我々も破談にするというお話ですかっ?


 昨日、俺なら、芽以を諦めないと言ってくれたではないですかっ、と思っていると、逸人は、

「いや、俺も日向子のことは言えないなと気がついたんだ。


 なにか無理やりお前と結婚しようとした感じだからな。

 いっそ、婚姻届を破り捨てて、やり直そうかと思うんだ」

と言ってきた。


 いや、まあ、無理やりと言えば、無理やりでしたが。


 私はてっきり、貴方は圭太と家のために私を引き取ったと思っていたので、そこはちょっと圭太たちとは違うのでは……と思いながら、芽以は逸人を見つめる。


 あの婚姻届を書き直したいと思っていたはずなのに、いざ、破り捨てると言われると不安になった。


 またこの人書いてくれるんだろうか、と思って。


 一瞬、なにか考えていた逸人だったが、すぐに二階へと上がっていく。


 なにしに行きましたっ?


 なにしに行きましたっ? 今っ、と芽以が皿を片付けながら、何度も階段の方を振り返っているうちに、逸人が下りて来た。


 婚姻届と、そして、小さな箱を手に。


「お前が本当に俺を好きになってくれたときに、これも渡そうと思ってた」

と逸人はそのラッピングされた白い箱を見せてくる。


「指輪だ」


 ええっ?

 逸人さんが指輪を用意するとかっ。


 なんだかそんなことしそうにない感じがしていたので、本当に驚いた。


「これもとりあえず、なしにしよう。

 お前が気に入るかどうかわからないものだからな。

 俺が勝手に、お前にはこういうのが似合うかなと思って買ったものだから」


 めっ、めちゃくちゃ見たいんですけどっ、それっ。


 どういうのが私に似合うと思っているのか、知りたいんですけどっ、と思いながら、芽以の目はその小箱に釘付けになっていたが、逸人の目は、生ゴミ入れに釘付けになっている。


 ま、まさか、そこに捨てる気とかっ?

と思ったとき、裏口のドアが開いた。


 グレーのロングコートを着た圭太が立っている。


「圭太……」

と芽以が呼びかけると、圭太はつかつかと中へと入ってきた。


「昨夜から、いろいろとひとりで考えてたんだが」

と言い出す。


 逸人が言うように、そういえば、圭太が立ち止まって物事を考えるとか、あまりなかったな、と思っていると、圭太はまだ洗っていなかったまな板とその上の包丁を見た。


 おもむろに包丁をつかむと、逸人に向けてくる。


 前に出ようとした芽以を逸人が手で制した。


 逸人はひるむことなく、まっすぐ圭太を見据えている。


「いろいろ考えたんだが。

 やっぱり、俺は芽以を諦められない。


 芽以を殺すと可哀想だから。


 逸人っ、俺と一緒に死んでくれっ」


 ……普段物事を考えない人が考えると、ロクな考えにたどり着かないようだ。


 そう芽以は悟った。


「同じ顔の奴に、芽以を目の前で持ってかれるのは嫌だ。

 なにかが違えば、自分がそこに、芽以の横に居られたのかもと、いつまでも思ってしまいそうで」


 いや、だから、あんたが逸人さんと結婚しろって言ったんだーっと芽以が思っていると、

「逸人、俺はお前には、なにも敵わない。

 子どもの頃から、そうじゃないかな~とは思っていたんだが。


 昨日、はっきり、そうとわかったんだっ。

 芽以がお前を選ぶのも当然だ」


 人殺しになるくらいなら、頭に花が咲いたまま、そうじゃないかな~と思ってててくれた方がよかったんだが……。


 っていうか、そのパクチー臭い包丁で殺されたら、誰も成仏できなさそうだ、と思っている芽以の前で、圭太は、なおも言いつのる。


「わかってる……。

 俺は肝心なときに駄目な人間なんだ。


 絶対に、ゲーしてはいけない場面で、パクチーを吐き出したり――。


 あのとき、逸人はパクチーを飲み込んで、俺は吐き出した。

 だから、芽以はお前のものなのかっ」


 いや、それは関係ない……と思っている芽以の前で、圭太はおもむろに、まな板の横にあったパクチーをつかみ、口に放り入れた。


 もしゃもしゃと噛んで飲み干す。


「俺も今は飲んだぞっ。

 逸人っ。

 芽以を寄越すか、俺と一緒に死んでくれっ」


 逸人は溜息をつき、

「兄弟で心中とか、意味がわからんうえに気色悪いだろうが」

と言い出す。


 そうですね。

 そして、千佳みたいな人が、いろいろと邪推しますよ。


 美形の男兄弟二人で心中すると――。


 そのとき、

「よし、刺せ」

と言って、逸人が圭太の前へと一歩進み出た。


「逸人さんっ」


 逸人はこちらを振り返らないまま、言ってくる。


「芽以、こんなことなら、もうちょっとお前となにかしとくんだった」


 いや、今、なに言ってんですか、と芽以はそんな場合ではないのに、赤くなる。


 圭太は逸人に包丁を向けたまま、動かなかった。


 だが、その前に立っている逸人が、小首を傾げ、言い出した。


「おかしいな。

 走馬灯のようにいろいろと蘇らない。


 そして、無理やり過去を思い出してみても」


 芽以、とこちらを振り返り、


 「お前との思い出が全然ないっ。

  お前、圭太とばっかり居るじゃないかっ」

とよくわからない文句を言ってくる。


 いや、何処で怒ってるんだ、この人は……と思っているうちに、業を煮やしたらしい逸人が包丁を持つ圭太の手をつかんだ。


 圭太の方がびくりとする。


「さっさとしろっ、圭太っ!

 だから、お前は決断力がないと言われるんだっ」

と言いざま、逸人はその刃をおのれの腹に当てさせる。


 わああああああっ、と圭太は悲鳴を上げて、包丁を投げ出した。


「死ぬじゃないかっ」


 いや……殺そうとしてたんですよね?


 尻餅をついて叫ぶ圭太にそう思う。


 っていうか、刃を当てても引かなきゃ切れないから。

 切っ先ならともかく。


 普段料理しないから、知らないんだな、と芽以が思ったとき、

「こんにちはー」

とバリトンの素晴らしくいい声がした。


 裏口のドアが開いて、神田川が現れる。


「追加分持ってきましたよー」

とあのゆるキャラみたいな顔で笑った神田川は、


「あ、これ借りていいですか?」

と床に投げ出されていた包丁を取ると、開いたままのドアの向こう、青いカゴの中のパクチーをひとつ取り、茎に少し切り込みを入れてみせると、


「ほら、今日のはまた一段と香りが鮮烈なんですよー」

と芽以にとっては、あまり喜ばしくないことを言ってきた。


 近寄り、匂いを嗅いだ逸人は、


「ほう。

 なかなかいいですね。


 強烈な匂いに、ぐっと胃の辺りが引き絞られる感じがします」

と、それは褒め言葉なのか? ということを言っていた。


 逸人は、そのまま神田川と話し出す。


 神田川は床に座り込んでいる圭太に気づいているのだろうに、なにも言わなかった。


 神田川が帰ったあと、逸人が包丁をおのれの片手に打ち付けながら、


「すっきりしたか?」

と圭太を見下ろし、訊いていた。


 いや……今にも、貴方の方がりそうなんですけど、と固まる芽以の前で、圭太が座り込んだまま、


「……まあ、ずいぶん」

と言ってくる。


「お前も人がいいからめ込みすぎるんだろ」


 本当に人がいい人間が人を殺そうとするだろうか、と芽以はちょっと疑問だったのだが。


 逸人に言いくるめられた圭太は、疑いもせず、すぐに、

「そうか……」

と言ったから、やっぱり、そうなのかもしれない。


 少なくとも、逸人よりは単純で扱いやすい人間なのは確かなようだった。





 そのあと、実家の母から電話がかかってきて、お店が終わってからでもいいから、たまには晩ご飯でも食べに来なさいよ、と言われた。


 夜、店を片付けてから実家に帰ると、夕食と酒が用意してあって、ご機嫌な父親が訊いてきた。


「芽以、なにか変わったことはないか?」


 変わったこと?


 圭太が包丁つかんで、逸人さんに、一緒に死んでくれ、と言ったこととか。


 婚姻届と指輪を逸人さんに生ゴミにポイ、されそうなこととか?

と思いながら、


「ないよ」

と言うと、水澄が小声で言ってきた。


「お義父さんの、変わったことないかってのは、子どもは出来てないかってことなのよ」

と。


 ええっ? と振り向くと、

「今日、お友だちがお孫さん連れて歩いてるの見たんですって。

 可愛い女の子だったそうよ」


 私もさっき訊かれたわ、と水澄は苦笑いしている。


 横に居た聖が、

「この間、芽以に手を出させまいと、逸人を酔いつぶれさせようとしたくせになー」

と言っていた。


 いや、子どもどころか、結婚前に離縁されそうなんですけど、と思いながらも、美味しく酒と食事をいただき、家を出た。


 寒い夜道を歩きながら、またあの橋を通りかかり、クロッキー通らないかなーと思う。


 まだ自分からは逸人になにも言っていなかったことに気がついたのだ。


 それが逸人にとっていいことかはわからないが。


 クロッキーを見かけたら、ちゃんと告白しよう、と思いながら帰ったのだが。


 時間が遅すぎて、一台も出会わなかったうえに、手袋も忘れなかったので、逸人に手を握ってもらうこともなかった。


 なんかいろいろ間抜けだ、と思いながら、寝る前、まだ芽の出ない種たちに、

「今日もいろいろあったよ。

 おやすみ」

と話しかけたとき、誰かがドアをノックした。


 誰かって……


 まあ、逸人しか居ないが。


 一緒に暮らしている夫のような人なのに。


 ドアを叩いてきただけで、まだ、なんだか緊張してしまう。






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