猫の手か、赤ちゃんか
そんなこんなで誤解を残したまま、芽以が出社する十日を迎えた。
「じゃあ、今日は私は居ないから。
彬光くん、よろしくね」
と芽以は不安を残しながらも、早めに来てくれた彬光にそう頼んだ。
「大丈夫だ、彬光。
居てくれるだけでいいから」
と逸人が言うので、この人でも、ひとりでは心細いとかあるのだろうかな、とちょっと思ったのだが。
単に猫の手も借りたい気持ちの表れだったのかもしれなかった。
さすがにひとりで店を全部回すのは無理だろうから。
「そうですよね。
居てくれるだけで違いますよね」
芽以は不安を押し殺し、自分に言い聞かせるように、そう言った。
「水澄さんが嵐のときなんか、赤ちゃんでも居てくれるだけで違うって言ってましたし」
「芽以さん。
全然、フォローになってません」
と彬光に言われたが。
「大丈夫です。
前向きに善処します。
頑張りますっ」
と怪しい政治家のような答弁を繰り返す彬光に見送られ、芽以は店を出た。
こうして通勤するのもあと少しか、と電車に揺られて会社に行った芽以は、ロッカーやデスクを片付けつつ、受付の仕事もした。
デスクの隅から出てきた黄色い大きな付箋を眺めていると、めぐみが、
「あれっ? それ、どうしたんですか?
古いみたいだけど」
と言ってくる。
「いや、引き継ぎのとき、よく先輩がこれに注意点書いて貼っといてくれたな、と思って、なんだか懐かしくて」
と呟くと、
「やめてください。
なんだか寂しくなるじゃないですか……」
といつも陽気で軽いノリのめぐみが言い出した。
すると、メモを取って、電話を切った千佳が振り向き、
「寂しいとか言わないでよ。
私も寂しくなるじゃないのよーっ」
と叫び出す。
「此処、卒業するときは、一緒にと思ってたのにーっ」
とひしっ、と両脇から二人が抱きついてくる。
今、お客さん来たら、何事だろうと思うだろうなと思っている途中で、既に、お客さんは来ていた。
千佳が気に入っているイケメン、大原だ。
「どうしたの? 今日、此処、人多いね」
別館側の受付もあるので、三人全員、此処に居ることは稀だからだ。
「いやー、彼女が今月末に寿退社なので、名残り惜しくて。
引き継ぎという名目で、此処に溜まってたんですよ」
と芽以を手で示しながら、千佳が笑うと、
「そうなんだー。
おめでとう、杉原さん」
と微笑みかけてくれる。
よく知らないイケメン様だが、ありがとうございます、と頭を下げると、千佳が、
「杉原の旦那さんは、中通りでパクチー専門店をやってるんですよ。
大原さん、パクチーお好きなら……」
で、一度、言葉を止めた。
一緒にどうですか、と今、言おうとしたな、と思う。
チャンスは逃さない女、千佳をためらわせるパクチーか、と芽以が苦笑いしていると、
「中通りのパクチー専門店って、何軒もあったっけ?」
と大原は言ってくる。
「いえ、今のところ、うちだけですが」
と芽以が言うと、大原は少し考えるような顔をしたあとで、
「もしかして、杉原さんの旦那さんって、逸人さん?」
と訊いてきた。
「えっ?
……逸人さんをご存知なんですか?」
えっ? と言ったあと、一瞬、詰まってしまったのは、本当は、
『主人をご存知なんですか?』
と言うところなんだろうなあ、と思ったからだ。
だが、まだ、あの人を主人とかいう度胸も自信もないな、と思っていると、大原は、
「いや、僕、相馬にも良く行くんだよね」
と少し慎重な口調になって行ってくる。
どうやら、圭太の会社とも取引があるようだ。
「逸人さんが辞めてしまったの、本当に残念だったよ」
大原は、そう、なにか含むところがあるように言ってくる。
あの、と芽以は迷いながらも、大原に訊いた。
「私、圭太とも幼なじみなんですけど。
今、会社で、なにか起こってますか?」
昨日、裏口に居たらしい圭太のことを思い出しながら、嫌な予感がしていると、
「いや、圭太さんもよくやってるんだけどね。
どうしても、代替わりするときには、不満が出るものだから。
また、圭太さんは、逸人さんって、すごく良く出来た人を押しのけて、後継者に決まったじゃない。
社内で不満持ってる人は、なんで、逸人さんじゃないんだと言ってるみたいで。
ちょっと今、あの会社、不穏な空気が漂ってるんだよね」
と教えてくれる。
「そうなんですか……。
確かに、圭太はいい加減で、チャラいところもあるけど。
仕事に関しては真面目なのに」
と呟いていると、大原は、ははは、と笑いながら、
「杉原さんが圭太さんとすごく仲いいのはよく伝わったよ。
身内のような存在なんだね。
って、もう本当に身内になったのか」
と言ってきた。
愚痴りつつも心配しているからだろう。
「今、結構大変かも。
気をつけてあげた方がいいよ、いろいろと」
親切にそう付け加えてくる大原にもう一度、頭を下げた。
「おっと、あんまりサボッてると怒られるね。
じゃあ、また。
お幸せに」
こちらに向かってやってくる人事の課長に頭を下げたあとで、大原はその場を去った。
「お疲れ様ですー」
と人事課長に三人が頭を下げると、
「お疲れ様。
ちょうどよかった。
杉原くん、まだ結婚の届け、出てないよ」
と人事課長は言ってくる。
「あっ、すみませんっ」
と芽以が謝ると、
「一応、出してね。
今月末で退社なんだろうけど」
と言われた。
はい、すみません、と言ったあと、お昼は千佳とランチに出た。
そのついでに、区役所に行ってみたのだが――。
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