殺るなら今だが……



 少し富美と話して、芽以は電話を切った。


 ガラス扉の鍵を開けると、

「ちょっと聞いてよー」

と言いながら、日向子が雪崩れ込んでくる。


「あのー、開店前なんですけどー」

と苦笑いしながら言ってみたが、日向子は、どっかと窓際の席に腰を下ろし、


「なに言ってんのよ。

 あんた、私の義妹でしょ。


 愚痴くらい聞きなさいよねー」

と言い出した。


 そうですね。

 一応、義妹ですよね。


 そして、私は、二個上なのですが。


 たまには思い出していただけると、ありがたいです……と思いながら、芽以は、やさぐれている日向子のために、紅茶を淹れてきた。


「あら、美味しいじゃない」

と一口飲んで日向子が言ったとき、向こうを片付けてきてくれたらしい逸人がやって来て、日向子に文句をつける。


「日向子、朝っぱらからなんだ、帰れ。

 お前、自称妊婦なんだろうが、寒いのにウロウロするな」


「自称妊婦っていうか。

 思い詰めてたら、寝不足になって、生理が止まっちゃって。


 その話がうちの親から、圭太の方によくわからない形で伝わっただけよ。


 ……これ幸いと話を押し進めちゃったのは、ほんとだけどね」


 日向子は、そう言いながら、棚の上の小さな観葉植物を見つめている。


 話が話だけに、他に愚痴りにいけないんだろうなーとちょっと同情してしまった。


「あー、此処はなんだか平和ねー」

と日向子は言い出すが。


 いや、全然平和じゃないです、と芽以は思っていた。


 夫婦なのに、常に妙な緊張感が漂ってますしね……。


 そのとき、日向子が逸人を振り向き、

「逸人、なにかない?


 親と揉めて出てきたから、朝ご飯食べてないの。

 お腹空いた」

と言い出した。


 まったく、と言いながらも、日向子のために厨房に向かう逸人の背を見ながら、芽以は呟く。


「私、日向子さんを呪い殺したいです……」


 日向子が飲みかけた紅茶を吹いたようだった。


 振り返ると、日向子は、その琥珀色の液体を凝視している。


「今は、なにも入ってませんよ」

と言うと、


 今はっ? なにもっ?

と日向子は目線で訴えてきたが、それには構わず、芽以は彼女の前に座った。


「日向子さんは、どうして、逸人さんを呼び捨てにできるんですか?

 それも、あんな生意気な口まできいて」


「いや……あんた、喧嘩売ってんの?」


「いえいえ、そうではなくて、私も愚痴と相談です」

と小声になり、前屈みになると、日向子もつられて、身を乗り出してきた。


「私、一緒に暮らしてはいるんですが。

 日向子さんみたいに、逸人さんと打ち解けられません」

と言うと、


「いや、夫婦なんでしょ。

 呼び捨てにして、甘えなさいよ」

と日向子も小声で言ってくる。


「あの朴念仁の逸人でも、さすがに二人きりのときは、甘い感じの雰囲気出してくるんじゃないの?」


 想像つかないけど、と笑う日向子に、いえ、私も想像つきませんけどね、と思っていた。


「私、昔から、逸人さんを前にすると、緊張してたんですけど。

 結婚してから、より一層、それがひどくなっちゃって。


 得体の知れない行動とっちゃったりするんですよー」

と言うと、日向子は、わかるわかる、と頷いてみせる。


「私も、圭太の前ではそうだから。

 他の人の前では、もうちょっといい女を演じられるのになー」


 凍てつく窓の外を見ながら、そう呟く日向子に、

「いい女って演じるものなんですか?」

と訊くと、


「そりゃ、多少は格好つけないとね」

と言ってくる。


 そういうものなのだろうか。

 よくわからないが……、と思ったとき、日向子は笑って、ああ、という顔をした。


「私、圭太から名前しか聞いたことのない、あんたをずっと敵視してたけど。

 あんたは最初から私の敵じゃなかったってことよね」


「……どういう意味ですか?」


「だって、あんた、昔から、逸人にだけ緊張してたんでしょ?

 じゃあ、最初から、逸人の方が好きだったんじゃないの?」


 芽以は沈黙した。


「いえ……、そのようなことは」

という言葉がすぐには出ない。


 あまりにも突飛な展開すぎて。


 私が最初から逸人さんを好きだったとか。


 いやいやいや、そんな恐れ多い。


 だって、逸人さんは、子どもの頃から、なんでも出来て。


 何処にも隙が無いから、一緒に居るだけで、緊張して。


 幼なじみだと言うのに、向かい合ったら、口をきくのがやっとだった。


 特に近年――。


 だが、悩む芽以の前で、日向子はカラカラと笑って言ってくる。


「きっとそうよ。

 あんたはずっと、逸人が好きだったのよ。


 圭太のことは、なんとも思ってないから、側に居て、楽だっただけよ」


「あのー、それ、日向子さんにとって都合がいいから、そういう方向に話を持ってこうとしているだけでは……?」

と疑わしく思い、訊いてみたが。


「でも、私は自分の気持ちは揺るがないわよ。

 人になんて言われようともね。


 だから、今、私がちょっと言っただけで、そうかもってあんたが思うのなら。

 やっぱり、それで当たってるってことなのよ」


 そ……そうなのでしょうかね? にわかには信じがたいのですが、と思ったとき、日向子が言った。


「だってさー。

 昔から、圭太とキスしたら、ときめいてたけど、逸人とだと、なんにも思わなかったもんねー」


 ……今、なんと?


「いや、ちっちゃい頃の話よ」

と日向子は笑っている。


「ほら、子どもって、おじいちゃんおばあちゃんとかママとか、チュッてやるじゃない。


 それと一緒……


 あんた、それは凶器よっ」


 芽以は手近にあった棚の上のランプをつかんでいた。


 スタンド部分は鉄製になっているアンティークな柄のガラスのランプだ。


「それ、ガレじゃないっ?」


 幾らよっ、とわめきながら、日向子はおのが身を守るために立ち上がる。


「なによっ。

 可愛い子どもの頃の話でしょっ。

 みんな微笑ましく見てたわよっ」


「どうした?」

と日向子のために軽い朝食を作って逸人がやってきた。


 ああっ。

 それは、パクチー抜いたら美味しそうだなと思って、いつも眺めていた、エビがたっぷり入ったエスニック風サンド、パクチー抜きっ。


「私、今なら、日向子さん、殺害しても許される気がしてきました……」


「誰もなにも許さないわよっ。

 下ろしなさいよっ、そのランプーッ」

と日向子は逸人の後ろに隠れかけたが、いや、これでは余計に殺されるっ、と思ったのか、逸人から離れて叫び出す。


「助けなさいよっ、逸人っ。

 私、今、あんたの嫁に撲殺されそうになってんのよっ」


「どうせまた、なにかお前が余計なこと言ったんだろう。

 芽以に謝れ」


「なにその決めつけっ。

 あんた、どんだけ嫁が可愛いのよっ」

と日向子が怒鳴ったとき、


「おはようございますー」

と呑気な声がした。


「二時限目、休講になったので、早めに来ちゃいましたー」

とやってきたのは、彬光あきみつだった。


「あら、可愛い子」

と殺されるとわめいていた日向子の気がそれる。


 るなら今だが、まあ、もちろん、らなかった。


 此処は、逸人さんの大事な店だからな、と思ったとき、

「そうか。

 じゃあ、とりあえず、厨房に来い」

と今の騒ぎの深刻さをわかっていない逸人は、彬光を連れ、さっさと厨房に行ってしまった。


 いや、深刻とは言っても、芽以の気持ちの上での問題だが。


 ……私が、最初から逸人さんを好きとか。


 いや、そんな……、と思う芽以の目の前で、日向子が、


「あんた、恥じらう前に、その凶器から手を離しなさいよーっ」

とわめいていた。




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