それはたぶん、きっと無理



 今、駆け上がったばかりだから、まだ起きているのは、逸人もわかっているだろう。


 芽以はドアの前で、フリーズしたまま思っていた。


 開けないでいると、無礼討ちにされるだろうか?

 神田川さんとかに、と。


「芽以」


 呼びかけてくる逸人の声が殺気をはらんできた気がして、


 おっ、怒っているのですか……?

と怯えたそのとき、ぼそりと逸人が言うのが聞こえてきた。


蝶番ちょうつがいを外すか……」


 ひっ、と芽以は息を呑む。


 この部屋のドアは外開きなので、蝶番が外にも出ている。


 それを切断する気なのだろうか。


 って、この鍵、貴方がつけてくれたんですけどーっ!?


 つけてくれた意味は、どの辺にっ?

と思いながら、芽以は賃貸の建物のドアを壊されないよう、慌てて鍵を開けた。


 ドアを開くと、

「芽以……」

と不安そうな顔で、逸人が呼びかけてくる。


 いや……今、この上なく、不安になっていたのは、私なんですが。


 主に防犯上の理由で、と思っている芽以に、逸人は、


「俺は今日、お前に、なにかしたか?」

と問うてくる。


 いいえ、なにもしていません……。


「お前は、明らかに俺を避けているが。

 なにか俺に落ち度があったか」


 ありません。


 あったとしたら、不必要に格好良すぎて、私を緊張させたくらいのものです、と思っていると、


「芽以」

と呼びかけ、逸人が一歩、部屋に入ってきた。


 芽以は思わず、一歩下がる。


「……芽以」


 逸人がもう一歩、前へと進んだ。


 つられて、芽以も下がる。


 これは、社交ダンスか? 将棋か?

と自分でも思いながら、逸人の次の一手を待つように、芽以が動かないでいると、逸人はなにを思ったか、一瞬考えたのち、一歩引いてみた。


 いや……前へは出ませんよ。


 前へ出たら、芽以が下がったので、後ろへ下がったら、前へ出るとでも思ったのだろうか。


 相変わらず、おかしな人だ、と思っていると、逸人が言ってきた。


「そうか。

 今日、相馬の家に帰ったから」


 ――帰ったから?

と思っていると、


「圭太のことを思い出したんだな」

と言い出す。


 いや……。

 欠片も思い出しませんでしたけど、そういえば。


 相馬の家は、よく圭太とも遊んだ場所のはずなのに。


 日向子からのメッセージでその名を目にするまで、思い出しもしなかった。


 今も、あの家のことを考えて、真っ先に浮かぶのは、かなり、呑んだくれていたお義母さん、大丈夫だったかな、ということと。


 バイオエタノールの暖炉が綺麗だったな、ということ。


 そして、お義父さん、今度行ったとき、呑みそびれた仙台の酒を出してくれるかな? ということだけだった。


 いや、今度行くのは、いつになるのかわからないから、もう飲んじゃってるかなーと思っていると、逸人は思いつめたような顔で、

「芽以。

 俺はお前が圭太を忘れるまで――」

と言ってきた。


 忘れるまで?

と次の言葉を待ったが、逸人は、

「いや、いい、おやすみ」

と言って、行こうとする。


 思わず、芽以は逸人の手をつかんでいた。


 逸人が、えっ? という顔で振り返る。


 ああっ、自分からつかんでしまったっ。


 しかも、こんな暗がりでっ。


 襲ってすみませんっ、くらいの勢いで、芽以は手を離して、飛び退いた。


「芽以」

と振り返った逸人がなにか言おうとしたとき、芽以がパジャマのポケットに入れていたスマホが鳴り出す。


 慌てて取ると、


『ちょっと芽以さんっ。

 今から来てくれないっ?』

という切羽詰まったような女の声が聞こえてきた。


 富美だ。


『早く来てっ。

 日向子さんと話が続かないのよーっ』


 いや……。


「殺されます」


 思わず、口からその言葉がもれていた。


 圭太が居る今、行ったら、きっと日向子さんに殺されます。


『えっ? 殺される?

 誰に?』

と訊き返してくる富美からの電話を取った逸人が、


「莫迦か。

 芽以はもう寝てるんだ、切るぞ」

と言って勝手に切ってしまった。


 ああっ!

 それ、あとが大変ではっ? と思ったのだが、逸人は芽以のスマホを布団に放り、

「大丈夫。

 酔ってるんだ。


 明日には覚えてない」

と言う。


 いや……覚えてると思いますけどね、と横目にそれを見ていると、逸人が、自分を見つめ、

「芽以。

 俺は今、猛烈に後悔しているんだ」

と言ってきた。


 なにをですかっ?

 会社を辞めたことを?


 それとも、私と結婚したことをっ?

と思っていると、


「ずっと勉強しかしてこなかったことをだ」

と逸人は言い出した。


 ……言ってみたいな、そのセリフ、とまったく勉強してこなかったことを後悔している芽以が思っていると、


「俺は圭太のようにお前を楽しませることはできなかった。

 あいつみたいに、豊富な話題も、多彩な遊びも知らないからな。


 お前は、昔から、俺と居るより、圭太と居る方が楽しそうだった――」


 おやすみ、と言って、逸人は行こうとする。


「待ってください、逸人さん」

と芽以はその腕をつかんでいた。


 廊下と窓からの明かりの中、逸人が足を止め、自分を見下ろす。


「私は逸人さんと遊ぶのも好きでしたよ。

 でも……、逸人さんと居ると緊張するんです」


 そう言うと、逸人は少し寂しそうな顔をした。


 この人に、そんな顔はして欲しくない。


 だから、洗いざらいぶちまけよう、と芽以は覚悟を決めていた。


「私、圭太とだと緊張しないけど、逸人さんとだと緊張してしまうんです、昔から。

 二人きりになると、なにしゃべっていいか、わからなくなったりして。


 でも、それは逸人さんが嫌いだからとか言うんじゃなくて。

 むしろ、逸人さんの方を尊敬してたから――」


 そう言いながら、芽以は俯く。


 そうだ。

 自分はずっと、二つ下の逸人を尊敬していた。


 敬語で彼としゃべっていたのもそのあかしだ。


 逸人の手がそっと芽以の頭に触れた。


「……頑張るよ、芽以。

 二人で居るとき、お前にそんな風に硬くなられないよう。


 もう少し、お前に親しみを覚えてもらえるよう……」


 頑張る――。


 そう言って、逸人は軽く芽以の額に口づけ、出て行った。


 いや……無理ですから。


 額に手をやり、芽以は思っていた。


 ほんっとうに、貴方と居ると緊張するしっ。


 今なんか、もうどうしていいかもわからなくて。

 失神しそうになってますからっ。


 この先も、貴方の側に、平気な顔で居るのは、きっと無理……。


 そう思ったあと、なんでだろうなあ、と思う。


 圭太だと、いくら側に居ても、こんな緊張することなんてなかったのに。


 布団の上に座り込んだ芽以は、いつまでも暗がりで、逸人の消えたドアを見つめていた。




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