お前の部屋を見せてもらおうか



 そのあと、逸人たちがリビングに戻ってきた。


 父親が逸人の肩を叩き、

「まあ、芽以の部屋にでも行って、二人で話してきたらどうかね。

 ずっと私らと話しててもね」

と笑顔で言う。


 水澄は、

「あら、もう帰るんじゃないの?」

と言い、ふふふ、と笑っていたが。


 だが、逸人は、

「じゃあ、少しだけ。

 芽以」

とこちらを振り返る。


 なんだかわからないが、みんなに見送られ、芽以たちは、二階の部屋に上がった。


 兄たちの家は近所なのだが、翔平が産まれたときは、まだ、アパート暮らしだった。


 それで、水澄の実家が遠いこともあり、三歳くらいまでは、ほぼ、此処に居た。


 翔平の夜泣きがひどかったからだ。


 水澄が疲労困憊していたので、よく母が代わりに翔平の面倒を見ていた。


 そして、芽以はアパートを借り、実家を出た。


 母がそうしろと言ったからだ。


 一緒に夜寝られなかったら、仕事に差し支えるだろうと言われたのだ。


 父こそ、別に寝た方がよかったのではと思っていたが、父は孫可愛さに耐えていた。


 たまには、兄と一緒にアパートの方で寝ることもあったようだが。


 子どもを産んで育てるって大変なんだな、とその様子を見ていて思ったものだ。


 ドラマなんかだと、結婚して、子どもが産まれたら、ハッピーエンドでなんの苦労もなさそうに見えるんだが。


 ……シンデレラだって、子育てで苦労したかもしれないよな。


 いや、ああいう人たち、自分で面倒見ないか、と思いながら、階段で、芽以は前に居る逸人を見る。


 この人と結婚して、子どもを産むとか、みんなで遊んだあと、此処になだれ込んでいた学生時代には思いもしなかったな、と思う。


 いや……今でもすさまじく違和感があるんだが、と思っているうちに、おのれの部屋についた。


 逸人が振り返り、

「此処のもので、持ち出すものはないのか」

と訊いてくる。


「とりあえずはないです」

と言いはしたが、結婚するとなると、もうこの部屋のものは持っていけと言われそうだな、とは思っていた。


 それでなくとも、普段は使っていないのに、一部屋潰しているわけだから。


 いずれ、翔平の遊び場にでもなるだろう、と思いながら、ドアを開けた。


 何故か、前に居るのに、逸人が開けなかったからだ。


「……全然変わってないな」

と中に入り、呟く逸人に、


「そりゃそうですよ。

 大学出て、ちょっとしてから、家を出て、そのまんまですから」

と答える。


 逸人は、なにやら感慨深げに部屋の中を見回していた。


 芽以はふと、訊いてみる。


「お父さんたちとなにを話してたんですか?

 途端に和やかになったようですが」


「いや、会社を辞めて、パクチー専門店を開くことになったという話と。

 今までの貯金があるから、すぐに店が軌道に乗らなくても、芽以を養うくらいは大丈夫だという話をした」


 娘の生活の安定が保証されたから、にこやかになったのだろうか、と思ったのだが。


「お義父さんも、パクチーがお嫌いだそうだ。

 あれは人間の食いものじゃないと言っておられた。


 その点、話が非常に合った」


 ……人間、何処で意気投合するものかわからないものですね、と思いながら、

「そういえば、兄はパクチー好きだった気がするんですが」

と芽以は訊いてみた。


 兄は、出張で、バンコクに行ったら、全然料理にパクチーが入ってなくて。


 覚悟して行ったのに、なんだと思って、日本に帰り、パクチーを食べまくったら、はまったとかいうよくわからない人なのだ。


「パクチー好きなの、実は日本人だけなんじゃないかと思うことはあるな」

と逸人も呟いている。


 向こうの料理には、パクチーが入っていても、さりげなく入っているくらいのものだからだ。


 それぐらい自然に使う食材のひとつ、ということなのだろうが。


「慣れない食材でインパクトがあるうえに、あの強烈な匂いなのに、向こうの人は平気で食べてるから、余程好きなものなんだろうと思い込んでしまうんだろうな」


 逸人と父が目の前で、パクチーが如何に嫌な衝撃に満ち溢れているかという話をしていても、聖はにこにこと聞いていたという。


「俺は昔から、聖さんを尊敬してるんだ」

と逸人は言い出す。


 ええっ?

 貴方のような方が、あの不出来な兄をですかっ?

と芽以は思った。


 いや、兄は、ルックスは悪くないし、頭もいいかもしれないが。


 なんというかこう、逸人とは正反対な感じにざっくりな人なのだ。


「あの適当な感じ。

 俺には真似できん」


 尊敬する、と大真面目に語る逸人に、

「じゃあ、私のことも尊敬してくださいよ」

と兄とそっくりな、ざっくり感を持つ芽以が言ってみると、逸人は、


「尊敬してないこともない」

と言う。


 え? と思って見上げた芽以の頬に、逸人はいきなり唇で触れてきた。


 えー……。


 ちょっとどう反応していいのかわからずに固まってしまう。


 だが、逸人は、特にそこから甘い雰囲気を作り出すでもなく、

「そろそろ帰るか。

 下りるぞ」

と言って、さっさと出て行ってしまった。


 あとを追っていかなかった芽以を、振り返ることもせずに。


 な……なんなんですか、一体、と部屋の真ん中で立ち尽くしている芽以を母が下から呼んでいた。


「芽以ーっ。

 逸人さん、帰るって言ってるわよ。


 なにトロトロしてんのよ、あんたっ」


 ふらふらと下に下りる。


 兄たちと逸人が談笑して、別れの挨拶をしているのをぼんやり聞きながら、芽以はずっと思っていた。


 ……なんなんですか、ほんとうに。


 自分も機械的に挨拶をし、そのまま、逸人について、外に出る。


 逸人は夜道を歩きながら、

「冷えるな。

 さっきより、降ってきたようだ」

と傘を差すほどではないが、チラチラ降っている雪を見上げ、言ってきた。


 至って、冷静だ。


 先程、自分がなにをしたのかも記憶にないかのように。


 いやいや、なんなんですか、ほんとに……。


 私ひとりが動転していて、莫迦みたいではないですか。


 そんなことを考えながら、芽以は逸人のあとをついて帰った。


 まだ、逸人の唇が触れた感触の残る頬に手をやりたくなるのをこらえながら――。





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