『逸人、芽以と結婚してくれ』



『逸人、芽以と結婚してくれ』


 オープン前のまだ誰も居ない静かな店内の厨房で、ひとり、白いまな板の上のパクチーを見つめて思索にふけっていた逸人の許に、そんな阿呆な電話がかかってきたのは、わずか小一時間前のことだった。


 とるんじゃなかった……と思いながら、逸人はスマホに向かって言う。


「お前、錯乱してるだろ」


 だが、兄、圭太はただ、莫迦みたいに同じ言葉を繰り返している。


 ……やはり、錯乱しているようだ、と思う。


 まあ、ずっと思い詰めていたようだからな。


 この間、甘城日奈子あまぎ ひなことの結婚が決まり、圭太が跡継ぎになることが、正式に承認された。


 満場一致とはいかず、あのあと、こちらに接触してくるものが、かえって増えたりもしたが。


 それでも、仕事に関しては、圭太は本気で覚悟を決めているようなことを言っていた。


 ……が、この件に関しては、まったく覚悟が決まっていなかったようだ。


 ひたすら、うろたえ続ける圭太に、逸人は溜息をついて言った。


「何故、俺がお前の尻拭いを。

 結婚できるあてもないのに、芽以を何年も待たせてたのはお前だろ」


 こんな未来が来ること、初めからわかっていたはずなのに。


 子どもの頃から、圭太の未来は決まっていた。


 それでも、圭太は、自分の人生に芽以以外の女は居ない、くらいの勢いで、芽以に惹かれていったようだったが――。


「わかった、わかった。

 芽以が承知したらな」

と適当なことを言って、切る。


 スマホを棚の上に置いたあと、鮮やかな緑のパクチーを見た。


 そして、自分の店になってから、まだ誰も座ったことのない店内のテーブルと椅子を見、切ったばかりのスマホを見た。


 ……圭太。

 何故、芽以を連れて逃げない。


 会社なら俺がなんとかしてやったのに。


 お前は所詮、芽以より、会社の方が大事だったのか?


 後ろにあった木の丸椅子に腰掛け、腕組みをして、棚の上のスマホを見上げる。


 だいたい、お前は何事にも覚悟が足らないんだよ。


 そう思いながら、立ち上がった逸人はスマホを手にとり、滅多にこちらからかけることのない番号に電話した。


 なにか警戒した風に、

『……もしもし?』

と芽以が出る。


 圭太はもうこいつに、俺と結婚しろと言ったのかな、と思いながら、

「さっき、圭太から電話があって、お前と結婚しろと言ってきたぞ」

と逸人は言った。



 


 自分の言うがままに、

 ……まあ、脅したとも言うが。


 芽以がサインした婚姻届を見、

「婚姻届まで、走り書きで書くなよ」

と逸人が言うと、


「……走り書きした覚えはありませんが」

と芽以はこちらを見上げ、生意気にも反論してくる。


「お前、もうノートパソコン背負って歩けよ」


 二度とその手で書くことがないように、と言いながら、その汚い字で書かれた婚姻届を見つめた。


 こんな日が来るとは思わなかったな、いろんな意味で――。


 きっと、圭太の根性なしのせいだ。


 そんなことを考えながら、

「よし、明日から、此処に荷物を運べ」

と言うと、芽以は、ええっ!? と声を上げて立ち上がる。


 だが、なんだかんだで芽以は幼い頃から自分には逆らわなかった。


 まあ、目と口で脅すつもりもなく、脅しているからかもしれないが……。





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