18.瞳

「不審に思わなかったのか? スカリィ一人にこのような大きな家は必要ない」


イネイは「そうだけど」と答えながら石で白い外壁を破壊し続ける。大きな塊が次々に剥がれ落ち、天使の浮き彫りや白い十字架などが青い下地に鮮やかに浮かび上がった。四方八方の壁に浅い浮き彫りを施した宗教画が描かれていた。白い外壁に包まれてその鮮やかさが描かれた当時のまま封印されていたかのようだ。


「何これ、綺麗……!」


イネイは思わずため息を漏らした。


「ここが、もう一つのアトラジスタの教会だ。そしてこの集落の家一つ一つが主を祀っている教会だっんだ。このスカリィの家には、初めから今回の標的がいたんだ」


「どこに?」


「すぐ分かる」


アスコラクはにわかに厳しい顔つきになって家の中に戻った。中にはスカリィがアスコラクを待っていた。その手には大きな凸面鏡があった。


「イネイ、月の涙が生み出すもう一つの価値を教えてやる」


「金以外?」


アスコラクはスカリィと鏡を見据えていた。


「月の涙は鏡を葺くために使われた。鏡は呪物の一つだ。つまり月の涙は儀礼的宗教的価値を生み出す物でもある」


アスコラクは厳しい顔のまま「そうだろう、スカリィ?」と一歩踏み出した。


「今日は満月」


とスカリィは呟いて窓に向かって跳躍した。窓を破って外に飛び出したスカリィは、鏡をかばって背中から血を流していた。アスコラクとイネイもスカリィを追ってすぐに外に出る。そこを待ち構えていたスカリィは鏡を満月に月光を当て、アスコラクに反射させた。その光を浴びたアスコラクは白い髪が徐々に黒く、青い瞳が赤く変色した。肌も褐色に変わり、爪が伸びて体格も筋肉質なものに変わっていった。そこには女性ではなく青年がいた。青年は黒い翼を持っている。彼こそが、イネイの友人、天使のアスコラクの半身だ。鏡の中では天使のアスコラクが地上を見つめていた。


「アス!」


イネイは黒い長髪に黒い翼を持った青年を愛称で呼んだ。イネイにとって待ちわびた悪魔の登場だったが、今はそれ以上雑談している時間はない。


「何がどうなったの? スカリィ、アスコラクに何をしたの?」


スカリィはベールを脱ぎ、その上に天使が閉じ込められた鏡を包んでゆっくりと置いた。


「彼が待っていたのは天使だけ。悪魔は、いらない」


イネイの問いを無視して、呪文のように小さくスカリィは呟く。


「俺を知っているのか?」


黒いアスコラクは険しい表情で問いかける。


「彼は百年前のザハト小聖堂で彼女に出会い、首狩天使の正体が悪魔と天使の二つであると知ったと言っていました。彼は鏡の中から出られないかわいそうな人。だから私が天使を迎えに来たのです」


「彼」と、スカリィは鏡に目を落とした。スカリィの話を鵜呑みにすれば、フィラソフは鏡の中で生き続けていることになる。そして百年前のザハト小聖堂とは、イネイと天使のアスコラクが一度訪れた場所ではないか。


「あの時、鏡の中に?」


百年前、天使のアスコラクはザハト小聖堂に刻まれた「カーミュ・デ・アッズ」の碑文を調べるために、人間の姿から天使の姿になった。このとき、フィラソフはアスコラクを鏡の中から見ていたのだ。人間の姿をしているアスコラクは人々の記憶に残らないが、天使の姿をしているときにはその記憶に残る。


「あの時の……」


「そうか〈ジェイカ〉は敵、鏡、瞳か」


アスコラクにはひらめくものがあった。自分の半身が言っていたではないか。「私はここの神の敵か」と。その通りだ。「カーミュ・デ・ジェイカ」は「神・の・敵」である。しかしこの言葉は元々隠語なのだ。敵も鏡も瞳も相手に対峙し、自分の存在を映す。元々「神の鏡」が「神の瞳」を暗示し、今では「神の敵」という意味の言葉として用いられているのだ。


「彼に必要なのは天使だけ。貴方は彼の理想の邪魔になる。彼の幸せの邪魔になる!」


スカリィは突如アスコラクに襲いかかった。馬の脚力とトカゲの大きな尻尾で跳躍してアスコラクとの間合いを詰めると、虎のかぎ爪でアスコラクの首筋を掻き切ろうとする。その寸でのところで、アスコラクはイネイと共にそれぞれの羽を羽ばたかせ、上空に飛んで逃げる。しかしスカリィも鳥と蝙蝠の翼を器用に羽ばたかせながら、空へと舞い上がった。


「やめろ、スカリィ。お前をそんなふうにした男が、お前のことを想ってくれているとは思えない。自分のために生きるんだ!」


黒い翼を羽ばたかせながら、アスコラクは叫んだ。その叫び声に、スカリィも宙を舞いながら答えた。


「貴方たちは、何も知らないのです。彼の悲しみも苦しみも。いいでしょう、逃げると言うならば教えて差し上げましょう。彼は美しい人でした」

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