11.倫理

アスコラクは黙ってチェーラの後に続いた。おそらくもう店にクランデーロはいないだろうと、アスコラクは考えていた。しかし自分の仮説を確かめるために、チェーラに好きにさせる事にした。


 石畳の道を蝶が進む。その後にアスコラクが続いた。珍しい蝶に、道行く人々が思わず振り返る。そして、後方を音もなく歩くアスコラクを見て、思わず道を開けて立ちすくみ、息をのむ。だが、その体からにじみでる神聖さと強さのために、アスコラクに声をかける者はなかった。店はアスコラクの予想通り閉まっていた。人の気配もなく、扉には鍵がかかっている。チェーラがまだイネイだった頃、必死にクランデーロの名を呼びながら、ドアを叩いた時と同じ状態だった。ただ、あの時とは違って、家自体が劣化していることが分かる。埃で汚れたガラス窓が一部、欠けていた。


「どうしたのかしら?」


そう言いながら、チェーラはクランデーロが現れない事を祈った。


「帳簿や薬草の採取月日を見てこい。なければ消耗品の減り具合だ。数字は分かるだろう?」


「簡単なものはね」


チェーラは割れた硝子の隙間から店の中に入った。入ってすぐに、チェーラはくしゃみをした。店内があまりにも埃っぽかったからだ。窓から差し込む光で、埃が部屋の中を空気の動きに合わせて滞留しているのが分かる。


「窓、あったんだ……」


クランデーロの店は荷物が多かったことから、積み重ねられた木箱や大きな棚で、窓がふさがれていた。そのため、日中でも店の中があんなにも暗かったのだ。


店内は埃に覆われ、五年前と同じ店内とは思えないほど広かった。商品がほとんどなくなっているせいで、奥まで見渡すことが出来た。クランデーロがいつも座っていたカウンターの上にも、数冊の古い本が残され、埃が積もっていた。確認のため、本の中を見てみた。しかしこれは食用植物のスケッチに、何かしらの説明が載っているだけで、アスコラクが言うような採集記録ではなさそうだ。クランデーロには不要になったものばかりで、この部屋は構成されているようだ。


自分を助けたせいで町を追われたなら申し訳ないが、アスコラクからは逃げられる。後はアスコラクをどう誤魔化すかだ。チェーラは帳簿と共にその答えを探した。置き去りにされた瓶の中は乾き、ナイフは錆びている。アスコラクが言うような記録はない。ふと、古い本の陰に、蜘蛛の巣がかかったランプが目に入った。この店で唯一の光源であったあのランプだ。中に小さくなった「燃える氷」が入っている。


「何て危ない事を……!」


燃える氷は水に浸けて、日光の当たらない涼しいところに保管する。そうしないと揮発して可燃性のガスが発生するからだ。チェーラは急いでアスコラクの所に戻った。


「どうだ?」


アスコラクは壁に背を預けて言った。腕を組んだまま、微動だにしない。


「何もなかったわ。それより大変! 燃える氷がランプの中に放置されていたの。しかもあんな埃だらけの部屋に、本の近くによ。火事になるわ!」


「しかし石の都なら被害は少ない。しかもそんなに多量ではないはずだ。その氷は五年前に放置されたんだ。燃えるならとっくに火事になっている。まあ、運がよければ燃えて欲しいという程度のものだろう。燃えても燃えなくても、どちらでも構わないんだ」


「どういうこと?」


「奴はそうやって暮らしているんだ。過去の自分を消しながら」


「クランデーロさんがいる所を知っているの?」


アスコラクは顔を微かに歪め、踵を返した。


「お前は戻れ。私の役には立たなそうだ。クランデーロの方が片付き次第また出向く」


「え? あ、でも私、ごめんなさい!」


チェーラは一目散にザハトへ飛んだ。妖魔の力をもらったおかげでスピードはかなり出る。それに路地裏はチェーラの得意な道だ。チェーラは最短距離を飛びながら、両親との思い出に浸っていた。


(懐かしい。パパ、ママ、帰ってきたわ)


チェーラは家族で競争した帰り道を思い出した。そしてザハトの我が家に帰ってきた。五年前と同じ佇まいのその家は、チェーラに錯覚さえ覚えさせる。家に誰もいなくなってから、五年もたつ。もう売れてしまって、誰かが住んでいてくれればそれでいいのだが、果たして「極悪人」の家を買うような奇特な人はいるだろうか。もし、売れていなければ、クランデーロの店のように埃に思い出がそのままうずもれているに違いない。

 ふと、チェーラは窓に目をやった。アスが板をはめてくれたあの窓を見れば、人が住んでいるかどうかが分かるからだ。もし、アスのはめた板ではなく、ガラスが直されていれば、この家は新しい家主に巡り合えたことになる。結果的に言えば、アスがはめた板はそのままだった。ただし、窓は木箱のようなものでふさがれていて、全く窓の役割をはたしていなかった。

イネイは今までの事は全て悪い夢で、扉を開けば両親が出迎えてくれる気がした。


「そこか」


アスコラクの声はチェーラを現実に引き戻し、チェーラは思わず扉に伸ばした手を引っ込めた。アスコラクは何の躊躇もなくドアを開けた。その時、鈴の音がした。客の来店を告げるための、あの音だ。それはチェーラにとって、不吉な響きを持っていた。アスコラクはその音を気にする様子もなく、悠然と中に入った。


 チェーラは開け放たれた扉の向こうに絶句した。扉を開ければ、父親の作業場があったはずだ。しかし、そこには石を削るノミも、石に打ちこんで割る楔もなくなっている。代わりにあるのは大量の壺やビンだ。天上からは薬草や動物の骨が下がっていて、積み上げられた木箱や大きな棚が窓を塞いでいた。チェーラと両親が食事をしていたテーブルと、父親の作業台がつなげられ、奥でカウンターの役割を果たしている。よく分からないくらい複雑に混ざり合った匂いもそのままだった。暗い室内の光源は、やはりランプ一つだ。そのカウンターの中には、猫背の老人が座っていた。かつてチェーラが暮らしていた家と、クランデーロの店の中身がそっくり入れ替わってしまったようだ。


暗がりの中に白髪交じりの老人の影が揺らいだ。


「クランデーロさん。どうして?」


カウンターの中のクランデーロは、アスコラクと睨み合ったまましばらく動かなかった。やがてクランデーロが立ち上がってアスコラクと真正面で対峙した。外の光を背負うアスコラクと、室内で闇の中に沈むクランデーロは対照的だった。アスコラクの白い服に対して、黒い服を着ているために、より一層その対照さが際立って見えた。


チェーラには違和感があった。五年前と比べ、クランデーロは全く老いたという印象を受けない。確かに子どもが成長する速さと、成人の老化の速さは違う。しかしいくらチェーラが出会ったときには老人だったとはいえ、こんなことがあるだろうか。


「お前は頭がいいな。医者の次は建築家か?」


入り口に立つアスコラクは、カウンターの中に座るクランデーロに言葉を投げ入れた。そこには皮肉と棘が十分すぎるほど含まれていた。クランデーロは答えない。濁った瞳でただアスコラクを見据える。しかしその老人の瞳には、冷たく強い光が宿り、チェーラの背筋を凍らせた。クランデーロの濁った黒い瞳の奥のぎらついた光は、五年前にクランデーロの店で会った男を彷彿とさせる。チェーラの記憶にいるクランデーロは、「優しくて腕の良い薬屋のお爺さん」なのだ。チェーラにとって今のクランデーロは、よく似た別人のように感じられた。


「不死や換魂は大罪だ」


その言葉にクランデーロは顔を上げ、鼻で笑った。その歪んだ笑みに、チェーラの息が詰まる。


「断罪の天使よ、主が絶対の法ならば、何故いつの世にも悲しみがある? 正しき者が死に、ずる賢い者が生を謳歌する?」


「人間は弱いからだ。しかしお前の心配は解決される。私の存在によってな。狡猾な老人よ、貴様にそれを問う資格はない。信心深い一家が暮らした家を乗っ取り、その娘を貶めた。お前はイネイが処刑された晩、首のない死体に囁いたのだろう? 三千年前、アパスに囁いた様に“チェーラ”と」


チェーラの心臓が大きく跳ねた。「チェーラ」とは名前ではないのか。何故昔の英雄が出てくるのだろう。しかも、クランデーロが不老不死でもない限り、その英雄に囁くことは不可能だ。チェーラの中で何かがこれ以上聞いてはいけない、と警鐘を鳴らす。


「チェーラは元々〝体″をさす言葉だった。しかし言葉は変化する。似た発音、類似した意味。例えば、オッズがアッズになる様に。ザハト小聖堂を建築したお前は故意にそれを行った。お前は私が知る中でも最も罪深い」


チェーラは眩暈を感じ、全身から嫌な汗が噴出した。アスコラクは羽を出現させて剣を抜き放ち、柄を握る手に力を込めた。チェーラはそれを驚きの眼差しで見た。羽は異界を行き来するためのものであるとアスコラクは言っていた。今のアスコラクの行為は、クランデーロの首を狩って人間界から離れると宣言したように思えたのだ。


「チェーラは、首、だな。体が支える象徴的な部位だ。首級によって個人は識別される。だから、処刑記録を作成するために首は必要だった。しかしだからこそ、首級さえあれば記録は作れる。体がなくても、だ」


「そうだ。個人は首級に象徴される。故にわしが言葉で補った。しかし何が悪い。希望を果たせず散った未来ある人間の願いを、叶えただけではないか。主が残酷にも奪ったその希望を、わしが救ったのだ」


「まるで、お前が主の代わりに人を救った様な言い分だな」


「代わりではない!」


クランデーロは身を乗り出し、カウンターを拳で叩いて叫んだ。カウンターの上のランプや本が一度宙に浮き、ガラス管がガシャン、と大きな音をたてた。両手を強く握り締め、唾を飛ばしながらクランデーロは叫び続けた。


「人間を理解し、救ってきたのは初めから人間だ。不死がいけないのか。長生きや病の克服は人間の夢だ。私はアパスの望みを叶え、アパスの魂、西の国を救った。今までも薬を民に与えてきた。知識を蓄え、生きたからこそ出来たのだ。不死身とて完全ではない。こうして老いている以上、生死の倫理も守られるだろう」


「ザハトの民を欺き続けた貴様がそれを言うか。彼らは貴様の様に自分の罪から目を背けたりしなかった。貴様は詭弁で自分を擁護しているに過ぎない」


アスコラクは冷淡に落ち着き払った口調を変えない。クランデーロの体が一瞬大きく跳ねたかと思うと、そのままガタガタと震えだした。カウンターに肘を付き、頭を抱えてうずくまった。


「あれは事故だった。不幸な事故だ。わしはただ、彼に相応しいものを捧げただけだ」


「ゲロイト教会。あれが貴様の建築家としての初仕事か。体がたどり着いた場所に、欠落した首を補う。その首は、本当に英雄が眠るべき場所、ザハトを見つめる。いや、正確にはザハトの町の中心であるザハトの小聖堂を見つめているはずだ。貴様が英雄に捧げた、世界一の小聖堂を……」

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