9.祈り

「だから私はチェーラなんです。そして貴女が現れた。これは偶然では片付けられないわ」


ようやく雨が止んで、窓から光が差し込んだ。アスコラクは壁に背中を預けて腕を組んで微動だにしない。窓際のイネイは光を背負って影を落とす。一方アスコラクは窓から差し込んだ光を浴びて、神々しさを増していた。


「なるほど、クランデーロか……」


アスコラクはわずかに微笑んだ。


「確かに偶然ではない。お前、そいつの所に案内しろ」


「何故、クランデーロさん? あの人は関係ないわ!」


「お前の首の次はそいつが狩りの対象だ」


「そんな、止めて下さい。あの人は良い人なの!」


「私に首を狩られるということは常人の死ではない。それは通常の生き方から逸脱したからだ。よって、その死後も特異なものとなる。私に首を狩られた者は、私の下僕として労働の義務を負うのだ。お前に拒否権はない」


チェーラは反論しかけたが、思い直した。イネイが通常の生き方から逸脱したことと言えば、それはアスを助けたこと、そして助けられたこと以外に考えられない。これを理由に首を狩られるならば、本望だった。それにアスコラクからクランデーロを殺される前に知らせて逃がせばいい。それに、クランデーロならアスの情報を握っている可能性がある。もう一度話す価値がクランデーロにはあったのだ。


「分かったわ。でも少しだけ待ってください。今日の礼拝がまだなの!」


チェーラは外に駆け出した。その顔には笑顔さえ浮かんでいた。アスコラクは雲の切れ間からのぞく青空を見上げ、そこから差し込む光に目を細めた。そして習慣とは恐ろしいものだと思った。五年もザハトから離れているにも関わらず、チェーラは雨が降っている間は外に出なかったのだ。ここには当たり前のように傘たてが玄関にあり、傘もあるというのに、だ。

 しかし、気に入らないな、とアスコラクは思う。いくつか、チェーラの話の中に気になる点があった。だからアスコラクはチェーラの後を追った。アスコラクにはチェーラの後ろ姿が何処か懐かしく思えた。だが忘れがちな性格と自他共に認めるアスコラクには、それが不可解以上の何物でもなかった。


 教会はすぐ近くにあった。カーメニのように都市とは言えないゲロイトは、閑散としている上に高い建物がない。教会の十字架は遠くからでもよく見えた。ただだいぶ古く、手入れもなっていない。不満を無表情の下に隠したアスコラクが教会の扉を開けると、中は外見の小ささに反して広く感じられた。正面に大きなブロンズの十字架があり、その下には碑文が刻まれた黒い石があった。それ以外には特に何も無い簡素な教会だった。まるで十字架と碑文さえあればこの空間が完成していると宣言しているかのようだ。アスコラクは思わず扉を閉めることも忘れ、足を止めてそれを凝視した。他の聖堂や教会に比べれば質素なものだ。しかしだからといって、今度は不満だったわけでもない。十字架の中央に、男の生首があったのだ。もちろん作り物ではあったが、不釣り合い過ぎた。大きなブロンズの十字架の、ちょうどクロスした部分に、壮年の男の顔が浮き彫りになっている。その下ではチェーラが熱心に祈りを捧げていた。チェーラは主に祈りを捧げているつもりなのだろうが、傍からみるとその格好は、まるで男の首に祈りを捧げているように見える。


「カーミュ・デ・アッズ」


チェーラは最後にそう言って立ち上がった。


「それはお前の故郷、ザハトの祈りの言葉だったな?」


「はい。雨の日に、主のために、と祈ります」


「言葉が違う」


アスコラクは十字架へと歩み寄りながら呟いた。生首の男は精悍な顔立ちで、一点を凝視していた。教会に訪れた者を見下ろしもせず、遠く正面を見ていた。まるで目的地を見据えたところで、そのままこの男の時が止まったようだ。アスコラクが誰かに呼ばれたように振り返ると、山の方に虹がかかっているのが見えた。イネイはそんなアスコラクに気付かずに言葉を続けた。


「それは大陸が東西二つの大国に分かれていた頃のものだと言うから」


「これもそうだな?」


アスコラクは十字架の下に刻まれた碑文を視線で示した。似ている文字がいくつかある。a(アー)とo(オー)はよく似ている。しかし文字は現在も使われている物と近いため、間違えるほどではない。国や王は歴史上、世界中に生まれては消えていった。しかし文字を持った国は数少ない。中には王が勝手に既存の文字を改めることがあったが、それはもともと文字を持っていた国での話であり、珍しい事例だ。国として文字を発明し、独自の文字を使っていた国ともなれば、それはさらに数が少なくなる。文字が民衆にまで普及していた事例はほんの一握りしかない。中には文字が普及しなかったことを理由に、文字の使用をやめてしまった国まである。こうしてみると言語は民族にとって普遍的であるが、文字は民族にとって全く普遍的ではないことがよく分かる。それは今でも変わらないし、これからもそうであり続けるだろう。


「これは古代対戦の英雄、アパスの首の彫像です。『英雄、ここに至る』って書いてあります」


アスコラクは違和感を覚えた。


(至る?)


「アパスは忠臣として有名な将軍です。大戦の時に敵の策略に気付いたアパスは、自分の小隊を副将に任せて数人の兵と共に大指揮官のもとに書状を届けようとしたそうです。でも敵に殺されて首を取られた……」


チェーラは十字架の首に熱い眼差しを送った。太古のロマンにのぼせているような顔つきだ。この地は西の土地だ。アパスは西の大国の小指揮官。大戦に勝ったのは西の大国。だからカーメニのように栄えた都市が西に多い一方、東には貧しい地方が多い。現在に影響するほど大きな戦の鍵を、十字架の中央の男は握ったのだ。


しかし、この男は役目を果たさず死んだという。


「連れていた兵が届けたのか?」


チェーラは首を振る。


「兵はアパスを庇って全滅し、最後はアパス一人だったと伝わっています。届けたのは、首を失ったアパスの体でした。アパスの体は書状を大指揮官に渡した瞬間、倒れてそれきり動くことはなかったそうです」


アスコラクはようやく合点がいった。


「ではここでアパスが殺害されたのではなく、ここで書状が受け渡されたのだな」


「あ、はい。よくご存知ですね」


最期の地なら、ここに「眠る」だ。しかしこれは「至る」が正しい。だが、こんな過去はアスコラクにとって意味がない。アスコラクにとって古代も未来も同じ時間のつながりでしかない。時間を区切るのは人間なのだ。アスコラクは当然の如くに、アパスと同時代に知り合いがいる。チェーラの話に出てきた女性の様に、アスコラク自身を象った商業者記号の犠牲になった。


「あともう一つ、あります。アパスが首をはねられた場所は、カーメニの何処かなんだそうです」


「西側で殺害されたのか?」


「伝説なので史実かはわかりませんが、裏切り者がいたそうです。諸説ありますが、軍医の男だとされています」


アスコラクは碑文に再び目を落とした後、腕を組んでため息をついた。


「字を読んでいるのではなく、暗記か」


チェーラは顔を赤くして振り返った。


「そ、それはそうですよ。古語は読めません。でも物語は聞いて皆が知っているものです。今の字だって誰もが読み書きできるわけじゃ……」


「だろうな」


文字は限られた人々が使う道具だということくらい、アスコラクには常識だ。しかし、目の前の碑文を読んだかの様に語るチェーラの姿に、危うさがあったのだ。もしかしたら、この碑文が伝承と全く異なる内容を告げているかもしれない。しかし、チェーラをはじめとする多くの人々は自分の知識が間違っていると気付くことが出来ない。人々の真実は自分が得た情報であり、字の史実ではないのだから。いや、情報を固定化する文字が、史実を伝えているのかということも危ういことを、アスコラクは知っている。文字の「史実」が語るのは、いつの時代もどこであっても、所詮は勝者の歴史でしかないからだ。


(試してみるか)


「カーミュ・デ・アッズは古語の文法に反している。デの後には名詞しか付かない。だから、~のために、とはならない。その礼拝の言葉は間違いだ」


チェーラは目を見開いた直後、吹き出した。


「ご冗談を。そうでなければ何が正しいの?」


「人間の古語のことはあまり知らない。ただ、お前の礼拝の言葉があまりに不自然だった」


アスコラクは確信したように服の下に指を差し入れた。


「主の使いが正しても、人間は経験を取るか」


アスコラクは服の中から硝子細工の蝶々を取り出した。チェーラにはその蝶に見覚えがあった。


「それは! 何故、貴女がそれを⁉」


驚くチェーラの目の前に、アスコラクは蝶々を突き出した。その蝶の胴体は黒いムカデだ。


「噛まずに飲み込め」


「無理、絶対嫌。だってこれは……!」


アスが退治した妖魔だ。石に宿って成長し、人間に憑りついてその人間の生気を食べるのだ。首が斬れないから妖魔を使って殺そうとするとは、天使とは思えない暴挙だ。チェーラは激しく抵抗した。アスコラクはチェーラがただの虫嫌いで抵抗しているのではないと気付いた。


「何を勘違いしている。これは低級の妖魔だが、危険な種類だ。石の中で何百年とかけて成長する分、材料としては珍しい。人間にとり憑かせて」


「殺すんでしょ?」


イネイがアスコラクの言葉を遮ったが、アスコラクは表情一つ変えなかった。


「生きていればな」


「死骸? 硝子?」


イネイはその妖魔が半透明だと気付いた。


「半死半生。生きている時は人間から生気を吸うが、この状態だと逆の現象を起こす。つまりお前にこの妖魔の力を付与できる」


「影響は?」


アスコラクはチェーラの額をわしづかみして鼻をつまむと、呼吸を我慢できなくなったチェーラの口がわずかに開いた。アスコラクはそこを見逃さず、強引に蝶を口の中に押し込んだ。悲鳴一つなしに虫を飲まされたチェーラは、床に崩れて吐き出そうとした。しかしどうしても吐き出すことはできなかった。


「いちいちうるさい奴だ。今死ぬ者が影響を気にするな。それよりさっさと能力を使え」


「酷い! あんまりだわ」


「お前がいようがいまいが私は構わない。好きにしろ」


アスコラクはチェーラの首を一閃した刀を一振りした。刀はアスコラクの背丈ほどもある大鎌へと変じた。


「何を?」


「移動する。カーメニ大聖堂の上だ。それがないと落下死するぞ」

そう言ったアスコラクは「ああ」と何かに気付いたように声を出し、振り返った。


「もちろん、それでもかまわない。私の手間が省ける。嫌ならそれを使ってついてこい」


「それ?」


チェーラは自分の肩を振り返った。何か薄紅色のものが目に入る。あの蝶の羽の様なものが動いている。その羽はチェーラの背中から生えているのだ。チェーラはまるで妖精の様な姿になっていた。体をひねって回ると花びらの様な薄紅色の鱗粉が舞う。


「すごい……!」


「行くぞ。膝を抱えて翅に触れろ」


チェーラはアスコラクの指示通り、膝を抱えて体を翅で包み、恐る恐る手を伸ばした。翅に指先がふれると、羽がわずかに発光したが、何も起こらなかった。


「あの、失敗みたいですけど?」


チェーラは立ち上がった。目の前にはアスコラクの靴があった。周りを見渡すと、全てが巨大になっていた。


「な、何これ⁈」


チェーラは全てが巨大化した教会の中で驚きの声をあげていた。実はそれは反対で、チェーラが蝶々の大きさになっていたのだ。この妖魔の能力はこういう事なのだ。つまり、蝶の大きさにも人間の大きさにもなれる上に、翅によって飛行能力も付加される。


 アスコラクは空中で鎌を一閃した。空間に切れ目が入ると、そこから空の色がのぞいていた。まるで、突然そこに青い布を広げて誰かが立ったようだ。その澄んで深い空の色は、チェーラにとって、見覚えのある色だった。チェーラは瞬きを忘れたように、その空の色を見つめていた。



「まさか、カーメニの空なの?」

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