時計都市の冒険
大滝 龍司
序 時計都市の出会い
ランゼルは工具を膝の上に置き、ため息をついた。
「おかしいな」
「おーい、どうだ調子は」
「全然わかりません」下からの声に応える。「歯車も雁木車も歪んだり欠けたりしてないし、軸も曲がってない、前に確かめた時と同じですよ」
「設計段階から間違えていたか」
「そんなはずは。完成した時はちゃんと動いていたんですから。工房から運ぶ間にどこか壊れたのかと思いましたけど……」
うーん、と首を捻ること、これで何度目になるだろうか。
「時計魔法陣への伝達系で齟齬が出てないかね」
「それは、たぶん、ないです。時計そのものは独立しているから、時計と魔法陣への発動にズレが生じることはあっても、逆に魔法陣側から時計本体へ影響が出ることはない、はず……」
脚立の上に腰をおろし、小柄な上半身を点検用扉から大時計の中へ突っこんだまま、ランゼルは首をかしげる。
それを見てか見ずにか、下にいた年配の技師が声をかけた。
「やはり一度工房に戻して、バラしたほうが良い」
「明後日までに間に合いますか」
「お前さんならできるだろ。原因がすぐにわかれば」
「まあ組み立てるだけなら」
気負いもてらいもなく平素に言ってのけるランゼルに笑みをこぼしながら、老技師は倉庫の出口へと歩いていく。
「店のもんに荷車を用意させてくる。すぐ運び出せるよう適当なところで切り上げとけよ」
はーい、とランゼルは返事をした。
老技師が倉庫――ランゼルたちベルランフィエ時計店の大時計だけでなく、他にも多くの展示品が納められている大きな倉庫――から出ていくのを耳で聞きながら、ランゼルは再び大時計の内部を眺める。
多数の歯車や軸、バネ、ギア、調節用のネジや点検用の小部品が、複雑に絡み合い、金色や銀色でつくられた精緻なモザイク彫刻のような、あるいは加工所で出た金属クズを子どもが手あたり次第に積み重ねたガラクタ遊びのような、いずれにせよ理解しがたく、またなんとも言えぬ美しさと迫力に満ちた小部屋を形作っていた。
それらが皆すべて定まったリズムに合わせて動き、全体が調和しているのを見て、ランゼルは感嘆のため息をつく。それはさっきまでの疑念と困惑からくるものではなく、自分の好きな世界を見て心が落ち着いた時に出るものだった。
この世で最も美しく、心底惚れている時計機械の芸術を見ながら、ランゼルはそこに何かしらの不備を見つけようとした。しかし歯車は不満を言わず、ギアはしっかりと仕事をし、点検のために外された時計魔法陣への伝達系が自分の出番はまだかと不平をこぼしているだけ。どこにも故障のしるしはなかった。
しかし、そんなはずはない。とランゼルは自問する。
あれだけの大失態が、何の理由もなく起こるはずがないのだ。
●
東方諸国の一つであるオストワイムは、山に囲まれた小さな国である。
その西部、山間部にあるパスリムの街は、時計都市として国内外に知られていた。
通りには数々の工房と時計店が軒を連ね、時計作りに適した綺麗な水と、研ぎ澄まされた技術の集大成を求めて、世界中から職人と商人が集まって来る。ここ数日はそれが特に顕著となった。パスリムが建設されてより百年、それを祝う祭りが催されるからである。
その祭の目玉の一つとして、商工会館を貸し切って時計の展示会が開かれることになった。
展示会の一般公開は明後日の百年祭当日からだが、その前に予行を兼ねて、招待客のみが観覧できる特別日が設けられた。しかし本番前と言いつつ、出展する側にとってはこの日こそが真の本番だったが。なぜならば、招待客はそれらの工房や時計店を普段から贔屓にしている貴族や出資者たちだからである。
他店のものに見劣りするような時計を出すことはできなかったし、ましてや完成が間に合わないなどという事態は絶対に避けねばならなかった。この日のために、街中の時計職人たちは日に夜をついで忙しく手を動かし、制限時間と格闘して、これをなんとかねじ伏せた。
そのため、当番技師を除いて、ほとんどの職人は特別日には倒れるように寝りこけるか、あるいは百年祭で使う別の時計の制作や修理や調整のため工房に留まり、展示会会場へ来る者はいなかった。
無論、例外はいた。
「やあランゼルくん。調子はどうかね」
正午まであと少しの頃、ベルランフィエ時計店の展示の前に、品の良い仕立ての服を着込んだ年配の紳士が現れた。
「男爵様!」
笑顔で答えたランゼルは、すぐ横に立っていた支配人に頭を軽く小突かれた。
「こら、他のお客様に迷惑だろう。失礼いたしました閣下」
「元気そうでなによりだ」
「ええ、ええ、こいつは時計があれば徹夜明けでも元気ですとも」
「今日は中央時計塔の計測時計も出展されているんですよ! ほら、あそこ。明日には積み込みされますから、今しか見られません!」
「だから大声を出すな、はしゃぐんじゃない」
うんうん、と楽し気に頷くと、男爵は自分の背後にいる人物を手で示した。
「こちらは、ターラント国からはるばる見えられたシャペオン夫人だ。ご領地で使う時計が欲しいとのことで、今日の展示会にお招きした。シャペオン殿、ここは私が贔屓にしている時計店で、パスリムでは一番の名門です。きっとお気に召していただけるかと」
紹介され、会釈をしたのは、男爵ほどではないが年を召した貴婦人である。傍らに若い男を連れており、これは付き添いか、あるいは護衛と思われた。少なくとも軍装を身に着けた使用人はいないだろう。
「おお、これはこれは」支配人はかしこまってお辞儀した。「ターラントの名高き領主様と聞き及んでおります。この度はお会いできまして光栄の至り……」
「まあご丁寧に。こちらこそ、よろしく」シャペオン夫人は柔和な笑顔を浮かべた。「ハーダー卿のお薦めと聞いて、楽しみにしていましたわ」
「恐縮でございます」
「それにしても、大きな時計ね。これも魔法の時計なのかしら?」
はい、おっしゃる通りです。と支配人はあらかじめ推敲を重ねた説明を口に出していく。ハーダー男爵もシャペオン夫人も、頷きながらそれに楽しそうに耳を傾ける。
一方、ランゼルは手持無沙汰になった。本音を言えば自分が詳しく説明したいのだが、彼が喋りだすと、説明が詳しすぎて聞いている相手がうんざりしてしまうため、特に貴人相手にはするなと周りから厳命されていたのである。
しかしその不満を解消する機会がやってきた。シャペオン夫人に付き従っていた草色の軍装の男が、ランゼルのそばに近づくと、声をひそめて尋ねてきたのである。
「そこな少年。見たところ見習い技師と見受けるが、あの時計はどういう仕組みなのだろうか。自分は魔法の時計というものには、とんと疎いので、できれば教えてもらいたいのだが」
ランゼルはその男を見た。背丈高く立派な体格をしているが、今は律儀に腰を折ってランゼルの背に合わせてくれている。身をかがめつつ、その目は大時計のすぐ側で会話を楽しむシャペオン夫人から片時も離れない。
なるほど。この人は護衛として、主人に危険が及ぶことがないか気になるのだな。と理解したランゼルは、小声で返した。
「あれは光と音と水の三つの時計魔法陣を組み合わせた、目や耳で楽しむ調度品としての時計です。火の魔法は使っていないので暖炉用や調理用のように火事になる危険性はありません」
「ほう、調理用の時計というのもあるのか。しかし時計をどうやって料理に使うのだ?」
「時間になると火を起こす魔法が働くものが代表的ですね。たとえば夜に鍋を用意しておいて、次の日の朝に時間を定めておけば、早起きしなくても暖かいスープが飲めるようになります」
「それは便利そうであるな。しかし火事になるやもしれんのか」
「使い方次第です。今の例だと、火を消す時計も使うようになっているんですけど、それを忘れてお鍋を焦がしたり、油が跳ねて引火してしまったり。でも時計そのものの欠陥で火事になることはありません。それは僕たち時計職人の名誉にかけて、常に安全かどうかの厳しい検査をしているからです」
「うむ、名誉を重んじるのは良いことだ。しかし光と水と……」
「音ですね」
「そう音。その三つで楽しむとは、どのような仕掛けなのか。いつ頃見られるのだろう」
「もうすぐですよ。今日は正午になると動くように調節してあるので。あとしばらくで……」
その時、会場全体を幾つもの音が包み込んだ。それは澄んだ鐘の音や、重々しい鐘の音であり、からくりの人形が動き出す音や、内蔵されたオルゴールから流れ出す音楽でもあった。
来場していたいずれも位高い招待客たちは、名門・名店の時計たちが奏でる大合奏に、驚嘆し、また感じ入っていた。親に連れられてきた子どもたちは思わず声をあげて、小さな子ははしゃぎ、大きな子も目を輝かせて、魔法を使いだした時計にかじりついていた。
「まあ、すばらしい」
ベルランフィエの大時計の前でも、ハーダー卿やシャペオン夫人、それに軍装の男も感嘆の言葉を呟いて、会場全体にさざめく人々と魔法を見渡した。
「みんな少しのズレもなく。私の国だったら、こんなに正確な時計は作れないわ。五分はズレちゃう。これだけの時計が正確に時を刻むなんて、やっぱりここへ来て正解でしたわ」
「それを聞けば、パスリムの全職人が喜びましょう」
夫人と男爵の談笑に似た会話が、あちこちで客人たちの口にのぼった。
しかしその中にあって、喜びとは程遠い者たちがいた。ランゼルと支配人である。
二人は蒼白となって互いに顔を見合わせ、そして大時計を見た。名門ベルランフィエが自信をもって用意した最新の時計が、この会場の中で唯一、正午になっていなかったからである。
そんな馬鹿な、とランゼルは愕然とした。つい一時間前には、ちゃんと他の時計と同時に時報を告げていたというのに。それより前、工房で完成してからも時刻が狂ってなどいなかったのに。
「ランゼル」
支配人の押し殺した、うわずった声を聞いて、ランゼルは当番技師を呼ぶために静かに駆けだした。ベルランフィエの大時計の針はまだ動いている。このままでは、時報が終わって静まりかえった会場に、遅れた時計の鐘の音と魔法が鳴り響いてしまう。そうなれば店だけでなく、贔屓にしている人々の面目も丸つぶれになってしまう。
ランゼルと当番技師は急いで大時計にとりかかり、支配人は「この時計は魔法陣を切り替えることで好きなように調節できまして……」と作業について誤魔化し、なんとか穏便に済ませようとした。
賓客の目の前で点検用扉を開くわけにはいかない。となれば外から文字盤の針を戻すか、動かないよう固定するか。ところがおかしなことに、どうやっても針は戻らず、止まりもしない。焦るランゼルたちの目の前で針は無常にも頂点へ進み、そして――
●
照明用時計の魔法が途切れてしまったので、ランゼルは作業を諦めた。陽も落ち、倉庫の中は真っ暗になっている。これ以上ここで何かをするより、工房に運び戻して詳しく調べたほうが良いだろう。
ランゼルが持つ照明用時計は、懐中時計の裏と表に別々の時計機構が組み込まれている。表側の魔法が切れたら、裏側の時計魔法陣を使って明かりを継続させる、古い仕組みだ。それでも普段使うぶんには不便はない。それが切れてしまうほどの時間、ここにいたのだ。
反対側の時計で明かりをつけなおし、切れた側のネジを巻くと、ランゼルは点検用扉を閉め、脚立を一段一段、気をつけて降りた。
チョッキや腰のベルトに設けた道具入れに工具をしまいこみ、大時計を見上げる。
こんなことは、はじめてだ。
パスリムでも有力な工房が集うお披露目の日に、時計職人として一番あってはならない時刻の狂いが起きてしまった。しかしそれでも、そのことに対する羞恥や絶望よりも、なぜそうなったのか、その原因がわからないことへの困惑のほうが強かった。
いつもなら、どこで間違えたのか、すぐわかるのに。設計図や部品に生じた爪の先より小さなズレから、組み込まれた時計魔法陣の影響で生じた熱や湿気による歪みの影響まで、ありとあらゆる失敗例とその症状を見てきたのに。
ランゼルは疲れた首をまわして、下を向く。と、その視線は大時計の土台部分へ向かった。
大時計の裏には扉が二つある。一つは今しがたランゼルが開いていた上部の点検用扉。もう一つは下部の点検用扉だ。しかし今日の展示に完成を間に合わせるため、時計下部に内蔵するはずだった時計機構は組み込まれておらず、この下の扉も無用のものとなっていた。
おや、とランゼルは気づいた。扉の下の隙間から何かがはみ出している。
照明用時計を近づけてよく見てみたが、なんだかわからない。紙か布のようだ。内部の埃よけのために敷かれたものだろうか。
裏側とはいえ見苦しくないよう片づけるべく、扉に手をかけ、開く。
ランゼルは息を飲んだ。
手にした時計から放たれる淡い光に照らされて、暗闇に浮かび上がったのは、大時計の中で丸くなっている人の姿。
青い服に身を包んだ、ランゼルと同じくらいの小さな女の子。髪は歯車を削りだす前の真鍮板のような輝きを返し、肌は文字盤に使われる塗料のように白い。
眠っているのか、目を閉じ、ぴくりとも動かない。
扉の隙間に挟まっていたのは、ドレスのような青い服のスカートの端だった。一目で上等なものとわかる生地を見るに、どこぞのお嬢様だろうか。展示会に連れられてきて、イタズラでここへ潜り込んだのかもしれない。
「ねぇ、君……」
とにかく起こそうと、ランゼルは少女の肩に手を伸ばす。
その時、突然少女の目が開かれた。瞳がランゼルへ向けられ、次いで、いきなり腕が伸びてランゼルの襟首を掴む。
「わ、う」
「騒ぐな、静かにしろ」
手で口をおさえられ、ランゼルの言葉が封じられる。
照明用時計が床に落ち、薄闇が二人を包む。その中で輝く少女の金色の瞳は、裏蓋を開けて覗き込んだ時計機構の精密さのような、吸い込まれるものがあると、場違いにもランゼルは思った。
「おまえ、中央じゃ見ない顔だな」少女はランゼルの顔を定めるように見ると、ゆっくりと手を放した。「展示会にいた他の店のやつか。どこから来た?」
「べ、ベルランフィエ時計店……」
「ベルランフィエ! そうか、こいつは、ついてる」
少女はニタリと笑う。見た目の美しさに比べて、言葉遣いも乱暴さも、笑い方も荒っぽい子だと、ランゼルは思った。
「頼みがある、私を匿ってくれ。悪いやつに追われていてな、ここから外へ逃げたいんだ」
「悪いやつって……」
ランゼルが尋ね返そうとした時、倉庫の扉が開く音と、老技師の声が聞こえてきた。
「おーい、ランゼル。そろそろいいか? 馬が来たぞ」
ランゼルは入口の方を見て、それから少女を見た。
「時間が無い。頼む、お願いだ」
少女はじっとランゼルを見ていた。つい今さっきまでの乱暴な振る舞いは鳴りを潜め、ただ真剣な眼差しと、不安に歪む口元が、彼女の深刻さを物語っていた。
なにがどうなっているのか、ランゼルにはわからなかった。だからランゼルは、少女のその姿を見て、正しいと思う選択をした。
「わかった、でも詳しいことを話してもらうからね」
「それは後だ」少女は言った。「けど、ありがとうな」
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