3-4 正義の衝突

「我らが女神」を讃える声が上がった瞬間、アーサーが音を立てずに動き出した。一見、人だかりから距離を取るようだが、実際は緩やかな曲線を描きながらゆっくりと彼らに近づいていく。時々いぶかるような視線を向けつつ、あくまでも自然に。

 人々を刺激しないようにしているのだ。かつ、状況とその変化をうかがおうとしている。先輩の意図に気づいた少年兵たちは、誰からともなく散らばった。キリクもひとり本部方面へ足を向け、そして群衆を視線だけで振り返る。制服の下で冷たい汗が吹き出した。

 セルフィラを讃えた人に反応してのものだろう。人の山のそこかしこから賛同と称賛の叫びが立ち上がっている。しかし、すぐさまかぶせるようにして、反論の声が爆発した。

「ラフィア様が加護をお与えにならないと言うのか?」

「その通り! ラフィアは迷える人を放置し、傲然と世界を見下ろしているだけではないか」

「貴様、主神を冒とくするつもりか!?」

 ただの言葉は会話となり、会話は議論へ進化する。そして議論は一秒ごとに過熱していく。

 雄叫びが空気を震わせる。人々が一斉に拳を突き上げた。

 キリクが反転したときには、もう収拾がつかない事態になってしまったと思われた。

 だが、この短時間で沸騰して渦を巻いた怒りがぶつかり合う寸前――力強い声が、天を打つ。


「そこまでだ!」


 王の声だ、とキリクは思った。


 人だかりが揺らぐ。彼らは一斉に、自分のむこうに立っている軍服の男を見た。

「拳を収めろ。神々はあなたたちが争うことなど、望みはしない」

 わずかな間、場が静まり返る。

 普段だったら「軍人が何を言うか」という反論がすぐに起きるところだが、今はそれがない。軍服の意匠で、ディーリア中隊の軍人だと分かるからだろう。中隊の本来の役目を知らない人々でも、その通称に感じるものがあるようだ。アーサーの威に気おされた人もいるだろう。

 民衆の怒りが再沸騰する前に、キリクはアーサーの方へ駆けだす。その間に、方々から警察官が駆けてくるのを、視界の隅に捉えた。

 警察官の影と、力強く立つアーサーを見比べた人々の反応は、二つに分かれた。そそくさとその場から去っていく人と、なおも目をぎらつかせてその場に残る人。キリクたちが対処にあたるべきは、後者だ。

 駆けつけた警察官が、キリクには聞き取れないほどの早口で怒鳴った。警告を発したつもりなのだろう。その手には、金属の棒が握られている。目をぎらつかせている人々のいくらかは、それでも微動だにしなかった。それどころか、拳と主張を同時に振りかざしたのだ。

「黙れ、汚らわしい教会の犬が!」

 黒い衣で頭から足元までを覆った一人が、警察官めがけて躍りかかる。だが、その人の拳が振り下ろされることも、警察官の棒が振りかぶられることもなかった。二人が衝突する少し前にアーサーが割り込んで、黒い衣の人を制したのだ。鮮やかな手並みで流血沙汰が防がれた。

 けれども、それは同時にきっかけにもなった。くすぶっていた激しい感情が爆発し、残っていた人々が軍人と警察官を見定めて、次々に暴れ出す。少年兵たちも否応なしに巻き込まれた。

 自分の方へ飛びかかってくる一人に気づいたキリクは、身をひねってむちゃくちゃな攻撃をかわす。瞬時に腕をつかんで、逆にその人を伸した。かたい地面に叩きつけられ、彼をにらんできたのは、兄と同い年くらいの学生だった。

 キリクは小さくかぶりを振る。よぎった痛みを振り払い、混乱の現場に自分から飛びこんだ。見境なく飛びかかってくる人を、止め、時には軽く組み伏せ、場合によっては警察官と協力して拘束しなくてはいけなかった。

「民間人相手に何をやっているんだろうな、私たちは」

「まったくですね」

 初老の警察官と、暗い軽口を叩きあう。しかし、そんな時間も長くはない。

 混乱はみるみる広がる。通りの方からも悲鳴が上がる。なんとかして、被害を食い止めなければ。

 キリクと警察官は、それぞれ別の方向に駆け出した。

 一部の人の願いとは裏腹に、勃発した暴動は広がる一方だった。とはいえ、過去の記録と比べると「暴動」の中では規模の小さいものだ。もちろん、当事者にしてみれば、過去の記録や後々の数字は慰めにもならない。騒動は騒動、混乱は混乱だ。

「落ち着いてください、落ち着いて! あなたたちをむりやり制圧する気はないんですよ!」

 剣は身に着けているが、それを民間人に向けるわけにはいかない。飛びかかってくる人々に素手で対応しながら、キリクは懸命に声を張り上げる。現場を見渡せば、ロベールも同様に苦しい戦いをしていた。クリストファーの姿が見当たらないのは心配だったが、今は友人を探している余裕はない。

「落ち着いてください……ってば!」

 一人を組み伏せて拘束する。駆けつけてくる警察官にその人を引き渡し、キリクは大きく息を吐いた。

「やめておけ、セレスト一等兵。君が苦しくなるだけだ」

 静かな呼びかけは、けれど少年の努力を穏やかに退ける。キリクが振り返ると、いつの間に騒ぎの中から抜けてきたのか、アーサー・オルディアンが立っていた。警察官は彼に一瞥もくれず去ってゆく。警察官を見送ったキリクは、わずかに眉を寄せた。

「……連隊長も連隊長です。自分から止めに行かれるとは思ってなかったですよ」

「ああいう役目は、慣れている者がやればよいのだよ。が重荷を背負う必要はない。言ったところで聞かぬ者など、いくらでもいるしな」

 さすがに疲れているのだろうか。翳りを帯びた青天の瞳が、暴徒と化した人々を見やる。

 民衆の暴徒化というだけで悪い事態だが、さらに悪いことも起きていた。この場に残った人々同士でも、まだ争いが続いているのだ。ラフィア派とセルフィラ派は、言葉と暴力をもってより激しくぶつかり合う。

 アーサーがきびすを返した。軍服の裾がひるがえる。キリクも、彼に続いた。

「やっかいなものだ。だが、もう少しの辛抱だぞ。そろそろイルフォード中尉の命を受けた増援部隊が到着するはずだ」

 キリクは短く息をのむ。いつの間に本部へ連絡をしていたのか。思いはしたが、わずかな感心は口に出さない。とにかく目の前のことに集中する。つかみ合いになっている若者たちを見据えて、少年は石畳を蹴った。


 唐突に起きたラフェイリアス教徒同士の争いは、ディーリア中隊の増援部隊が到着したことで、じょじょに終息していった。しかし、事後処理のためあちらこちらを駆けまわっているうちに、時間は激流のごとく過ぎていく。キリクが、ひょっこりと戻ってきたクリストファーを連れて本部に戻る頃には、太陽が西の彼方へ没しようとしていた。


 クリストファーとロベールの二人は、今日はもう無理、とうめきながら本部の中へ戻っていく。キリクに至ってはその気力すら失せていて、しばらく本部のすぐ外で突っ立っていた。そのうち立っていることすらおっくうになり、壁にもたれかかる。

 君が苦しくなるだけだ――そう忠告してきたのは、第一連隊隊長にしてカンタベル公爵である男だが、早くもその言葉を噛みしめることになりそうだった。

 ぼんやりしているうち、少年の耳がある音を捉えた。誰かが言い争うような声だった。のろのろとそちらに目を向け、キリクはあっけに取られる。

 本部の建物のそば、人目につかないところにいたのは、彼らの隊長と彼らの皇族だった。変装をやめたアーサーに対し、ステラ・イルフォードが呆れを通り越した冷ややかな視線を投げている。

は私たち任せてください、と何度言えばご理解いただけるのでしょうか」

「冗談はよせ。おぬしにはお忍びなどできんだろう。顔を知られすぎている」

「だからこそもう一人がいるのでしょう? 今回だって、あなたの身に万が一のことがあれば……」

「承知している。覚悟もしている。でなければ、高貴なる者の義務とはいえ、軍人など務まらない」

「殿下がそうお思いでも、誰もがそう思っているわけではありません。アデレード陛下のご心労を増やすおつもりですか」

 ここで初めて、アーサーが言葉に詰まった。吹雪をまとうイルフォード中尉は追撃の手を緩めない。

 キリクは、ふっと口もとをほころばせた。オルディアン連隊長には申し訳ないが、どうにも笑いがこらえきれない。ようやく彼は、体を起こすと、本部に足を踏み入れた。疲れてはいるが、なるべく急ぐことにする。たまたまとはいえ、盗み聞きしていたと知られるのは、さすがにまずいだろうから。


 キリクが本部に入った直後。今なお立ち話をするステラたちのすぐ上を、黒い外套がなびきながら通り過ぎていった。



     ※



 灰色の群れの隙間からのぞく夕日は、薄い雲をほのかな茜色に染め上げる。幻想的な色彩漂う帝都の空に、時を告げる鐘の音が響いた。人々は空を見上げる。子どもと労働者は、こぞって片づけを始め、あるいは家路につく。先ほどまで騒乱が起きていた広場のまわりでも、人々は重い腰を上げて眠りの支度を始めるのだろう。だが一方で、夜を己の舞台と心得る人々は、昼のまどろみから覚めていた。通りに点在する酒場には、ぽつり、ぽつりと明かりが灯りはじめる。

 にわかに騒がしくなった街角で、一人の男が小柄なあるじの前にかしずいていた。

「暴動は収まったらしいな」

「はい」

「ディーリア中隊が出動したか」

「そのようですな。彼女の姿は確認できませんでしたが」

「まあ、それは当然だろう。些末な騒ぎのたび、司令官がのこのこ出てきていたのでは、隊の統率が取れなくなる」

 小柄な主は吐き捨てるように言った後、街に向けていた視線を配下の男に戻した。

「それよりも。ここ最近の調査の成果を聞こうじゃないか」

「はっ――」

 男は淡々と、己の仕事の報告をしてゆく。その終わりに、今までより深く低頭した。

「ラフィアの片翼かたよくが嗅ぎまわっていることは確かなのです。しかし、なかなか足取りが追えず……申し訳ありませぬ」

「おまえにすら尻尾をつかませないか。『金の翼』め、やってくれる」

 男の頭が、また一段低くなった。それを見下ろす主の目は、冷ややかというより無関心である。

「しかたがない。魔導に通ずる片翼は、四年前から鋭くしたたかで、身を隠すのが上手だったと聞くからな」

 恐縮しきった男に対し、主は鷹揚な態度を崩さない。時を追うごとにかしこまる男に「もういい。予想の範囲内だ」と声をかけた主は、静かに腕を組んだ。


「大導師様から通達だ」


 冷たい一言が落ちると、男ははっとして顔をあげた。彼の、驚きと興奮を見て取って、主は口の端を持ち上げる。

「『時は満ちた。今夜、宣戦すべし』」

 声に出した主自身、高揚しているのを隠し切れていなかった。薄暗がりに浮かび上がる、ぎらついた瞳が男をにらむ。

「意味は分かるな? 動くぞ」

「はっ」

「定めの時に術を使い、獣どもを動かせ。承知のこととは思うが、獣どもは神からのたまわり物。手荒に扱うことは許さない」

「承知いたしました。万事、予定どおりに」

 再び頭を下げた男。主は彼を、ただ黙って見ていた。

 鐘の余韻は、都市の喧騒に吸いこまれて消えてゆく。帝国の都は、動乱の夜へと確実に歩みを進めていた。

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