第32話:鬼と枷
……千秋、なんだよ。
何が。
どれが。
あの、化け物が。
たったそれだけの言葉で、私の脳みそは凍りつく。
見る間に思考が雪に埋もれるように窒息していった。
「千秋は元々、うちで飼ってた鬼の類だ。もう何百年も前。それこそちょんまげの侍が町を闊歩していたような大昔に、柳瀬家のご先祖様が調伏してペットにしてた鬼」
「侍のう。
白魚の手が滑らかな黒髪をかき上げる。
「つきごも、り?」
「農民たちがつけた人喰い鬼の名前だ」
千秋って呼んで。
名字で呼ばれるのあんまり好きじゃないんだ。
わずかに懐かしく、ほろ苦い記憶が甦る。
「月のない夜に現れては、集落の人間を食い荒らす。子供も妊婦も老人もお構いなしに。七人目が犠牲になった直後だったかね。ご先祖様へ鬼退治の依頼がきたんだそうだ。紆余曲折あったらしいけど、無事調伏に成功して手元に置いてたって感じ」
「でも」
でも、千秋さんは。
「ん? どしどし質問募集しとくぜ」
「千秋さんはずっと千秋さんのままで、一度も人間じゃなかったことなんか」
あけび様のように姿を変えたことなんか、なかった。
「あいつはまぁ、そういう個体だからな。月隠の鬼は、人に化けられない異形だ。化ける妖力もなし、知能もなしのザ、下等。自らの欲に忠実で、欲求を満たすためならどんな悪行も平然と実行に移す。滅茶苦茶タチの悪いタイプだな」
「でも、私の知っている千秋さんは理知的で、穏やかで」
受け入れつつある自分と、信じられない自分が葛藤していた。
もう少しだけ、迷っていたい。
「俺が人当たりの良い温和な人格と、誰にでも好かれそうな容姿を与えたんだよ。あいつがそう願ったから」
「与え……?」
「そ。人間としての千秋は、俺が作った紛いものに過ぎない。あいつが俺に感化されて、人と対等に話したい、傷をつけずに植物に触ってみたい、って願ったもんでね。なんせ欲に忠実な鬼だ。一度言い出したら叶うまで煩くて煩くて」
苦笑いを挟んで、ヤナギさんは続ける。
「俺が蒐集した植物の卸先としてもちょうどよかったし、持ちつ持たれつ利用させてもらった感じ? 鬼住村には常子さんもいるしな」
「おばあちゃんが、ですか」
鬼とおばあちゃんがどう関係あるのだろう。
「常子さんの力、半端ないんだぜ。どんなに強い瘴気もたちどころに浄化するわ、規格外の結界は張れるわの天才型。特に浄化に関してはトップクラスの実力者じゃねぇかな。何たってあの月隠の瘴気をきれいさっぱり消し去ってすみれちゃんを復活させるわけだし」
私にはちっとも受け継がれていない力が、おばあちゃんに。
にわかには信じがたい。
でも、こんなに真面目な顔で話すのだから、嘘ではないのだろう。
「今更じゃのう。儂がそばにおれば常子に不可能などないわ」
「うんうん。ですよねぇ。マジで冗談抜きでない。底なしに凶暴で、会話もちぐはぐになるような鬼の瘴気を祓えるなんてそうそういないっすよねぇ。そりゃ監視役も務まるわけだわ」
「常子にかかれば童の守りなんぞ朝飯前よ。虎鉄もよくやっておるしの」
腕を組み、大仰にうなずくあけび様。
「よくやってるって、やっぱり虎鉄もあやかし、なんですか」
以前、ただの犬だとあけび様は言っていた。
だけど、おばあちゃんですら孫の私が知らない秘密があったのだ。
虎鉄だって、もしかしたら人や異形に化けられるのかもしれない。
「たわけ。虎鉄はただの犬っころに決まっておろう。のう? 小倅」
「はいはいまた俺に振る。あー、虎鉄は正真正銘、店の前に偶然捨てられていただけの雑種犬。体もでかいし賢いから、月隠の鬼が暴れた時に噛み殺すように躾けてあるだけの、な」
あの人懐っこい虎鉄が。
私の歩幅に合わせて歩いてくれるあのお利口さんが。
ああ、でもあの夜の剣幕は間違いなく殺意が滲んでいた。
初めて聞いた唸り声だって、演技ではなかった。
虎鉄は私を護るために、鬼を、千秋さんを、殺そうとしたのだ。
そして、千秋さんは腕を食い千切られてしまった。
「飼い主が未熟なもんで、千秋は新月の夜にだけ人喰い鬼に戻るんだ。だから午後から店も閉めて、俺が拘束して日の出まで虎鉄に見張らせてんの。集落のはずれに店を構えさせたのも鬼住村の住人に危害を加えないための配慮。今回のはいわゆる不慮の事故的な感じだな。……ここまで理解できてる?」
言葉を探して黙っていると「ま、いきなりすぎで無理だよな」とヤナギさんがうなじを掻いた。
「店を出すまで大変だったんだぜ? あちこちで手に負えないやら、リスクが高すぎるやらで断られて。でも、鬼住村ならもしもの時の常子さんがいるし、
「天狗、でしたっけ……」
あけび様の飲み友達の。
「ありゃ、知ってたか。鬼住村周辺の山々はあの人の根城になってる。八天狗には及ばないが腐っても天狗だ。低俗な鬼くらい片手間で潰せる。味方につけられれば怖いもんはない。味方につけられれば、な」
敵対してしまったらどうなるのだろう。
ふと浮かんだ疑問の答えは解りきっていた。
聞くまでもない。
「ん? もっかい質問タイムいっとく?」
「いえ、その……千秋さんに、会えませんか」
私の他愛もない願いに、ヤナギさんは眉を顰める。
「今は会わせられない。数百年ぶりに人間の血を啜った反動で、まだ人に戻れていないんでね」
「それでもかまいません」
「いやいや千秋が嫌がるだろ。月隠のヤツ、すみれちゃんのことなんか、うまそうな肉、くらいにしか思わないぞ」
「別に私は気にしないです。もう――」
「だーかーらぁ! 会わせると千秋が後で泣きながら電話してくるの! あいつのメンタル何でか知らないけど絹ごし豆腐なの! 下手すると自害しかねないの! 飼い主の俺が直々にやめろっつってんだから引き下がれよ」
怒気を孕んだ鋭い目つきに、私は口を噤むほかなかった。
「じゃあ、いつならいいんですか」
だけど、ここで大人しく従ってはやらない。
怒号なら慣れっこだ。
そもそも目の前の二人は私を買い出しへ行かせた張本人じゃないか。
「顔に似合わず強情だこった」
明るい髪をぐしゃぐしゃと掻きまわして、ヤナギさんは不機嫌に口を開く。
「まともになるまであと数日ってとこだろうな。千秋に戻ったらすぐに連れてくる。だからお前はしっかり療養してろ」
「店は? 店はどうするんですか?」
「しばらくは店主急病のため臨時休業。心配しなくても俺が枯らさないように世話するつもり。すげぇ鉢の数で眩暈するけど、ま、なんとかなるでしょ」
「手伝わせてください」
食い下がると再び鋭利な視線が突き刺さる。
「は? 鬼に喰われたいわけ? 今度こそ死ぬぞ?」
「店員としてやるべきことをやるだけです」
真っ向から反抗する私とヤナギさんの間に凍てつくような空気が漂った、その時。
「こぉーんのぉー、すっとこどっこい!」
「あうっ」
ピリピリと張りつめていた私の脳天に一撃必殺のげんこつが降り注ぐ。
「なぁにが店を手伝うじゃ! この大馬鹿者め!」
仁王立ちのあけび様は、鼻息荒く「ぬか漬けは店の前に手伝う者がおろう!」と地団太を踏んだ。
「七日! 七日じゃぞ! 七日もの間、常子はずっとぬか漬けを看病しておったのじゃぞ!? 儂の常子が七日もまともに寝ておらぬのじゃぞ! 倒れたらどうしてくれる!!」
「……すみません」
ぐうの音も出なかった。
「飯炊きも掃除も! 雪かきすらせずにのうのうと眠りこけおって!」
「うぅ」
「店も童も小倅に任せておればよい! ぬか漬けは身繕いして常子に頭を下げるところからじゃろうが!」
「はい。い、今すぐ着替えます」
「じゃ、俺退散するわ。いる意味ないし」
ひらひらと手を振り、ヤナギさんが立ち上がる。
「すっごい不本意ですけど……千秋さんをお願いします」
あれほど突っぱねておいて、こんな風に頼むのは心の底から不愉快だ。
でも、私はまずやるべきことをして、千秋さんと話をしよう。
「へいへーい」
にやりと口角をつり上げて、ヤナギさんはウィルオウィスプへ帰っていった。
それからすぐ。
私は、涙ぐむおばあちゃんにぎゅうっと抱き締められたのだった。
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