第31話:醜穢なる鬼
「――れじゃどうにもな……」
「常子を――」
揺蕩う意識が朧気に感じ取ったのは、若い男性の叫びと少女の淡々とした話し声。
熱い。
まるで火にくべられてた薪のように全身が燃え盛っている。
思考が溶けてまとまらない。
指一本動かせない。
「……光坊には儂から説――」
「もしばら……には戻れな――」
遠くて近いところで繰り広げられる会話を感じながら、長い間臥せっていた。
聞こえるのは心配していたり、呆れていたり、驚いていたりする声。
言葉の意味はほとんど理解できない。
そこに乗せられた感情ばかりが私を優しく包み込み、ゆっくりと熱を取り払っていく。
どれくらい経ったのだろう。
あれだけ苦しかった呼吸もいつしか楽になり、腕の痛みも弱くなった。
時が経つにつれ会話は鮮明に届き、意味が分かるようになる。
ずっと聞こえる、おばあちゃんの優しい声。
気まぐれに枕元にやってきては、愚痴を漏らすあけび様。
ヤナギさんも定期的に私の様子を確認しに訪れた。
たまに頬をつねるのは、多分あけび様だろう。
こんなにも感じるのに、私は目を開くことも口を動かすこともままならない。
そんな状態が永遠に続くと思い始めた頃。
「いい加減目を覚まさんか、ぬか漬け娘」
ぺちん、とおでこを叩かれて意識が浮上する。
「う、うぅ……」
「ええい、煩わしい。唇にわさびでも塗ってやろうかの」
「わさびは……やめて、ください……」
「ならさっさと……おぅ。起きよった」
最初に目にしたのは、天井と、きょとん顔で私を覗き込む袴姿のあけび様だった。
「寝ても覚めても珍妙な顔は変わらぬなぁ。気分はどうじゃ?」
「いたた……全身バキバキです……」
節々が痛む体を起こして、軽く背筋を伸ばす。
見慣れた二階の自室。
どうやらいつものお布団に寝かされていたらしい。
「七日も寝ておれば当然じゃろうて」
「なのか、ですか」
「お主のようなぺーぺーが七日なら上等じゃ。本来なら瘴気にやられて死んでおったぞ」
「死んで……」
まだ頭がうまく回らない。
私は、ええと、確か。
「赤い目の……」
化け物に襲われて。
「あ、あけび様、千秋さんと虎鉄は!?」
私を助けるために飛び掛かった虎徹と、姿のなかった千秋さんは。
「案ずるでない。あやつに虎鉄が力で劣るわけなかろうが」
「でも、あの化け物が虎鉄に!」
「やかましいの。虎鉄の怪我は大したことはない。今朝も雪に埋もれてはしゃいでおったわ」
「千秋さんは!?」
「童か? 虎鉄に腕を食い千切られておるからの。ひと月は不便じゃろうなぁ」
「え……?」
どうして千秋さんが虎鉄に。
上手く回らない頭に情報を一気に注がれ、混乱する。
「おい! 小倅!」
目を回す私をよそに、あけび様はヤナギさんを呼んだ。
数秒後、軽快な足音が階段を駆けあがってくる。
「どうしましたかーあけびさ、うええっ! すみれちゃん起きてるし」
襖を開いて現れた軟派男に後ずさるほど驚かれた。
「ええと、お久しぶりです」
「さっすが常子さんだわ。大丈夫? 腕ちゃんと動く?」
「腕、ですか」
改めて噛みつかれた右腕を軽く動かしてみる。
特に痺れもなく、痛みもない。
指も曲がる。
「うわ」
なのに、着せられていたパジャマの袖をまくって確認すると、グロテスクな紫色のケロイドが残っていた。
「普通に動きます。傷跡は残ってますけど」
「ごめんけど傷は勘弁して。動くだけでも結果オーライってことで」
「まぁ、はい」
ニコニコ笑顔のヤナギさんは、あけび様の隣に胡坐をかく。
「小倅。常子はどうした」
「虎鉄と一緒にぐっすりお休み中ですよ。七日間ほぼ付きっ切りでしたし」
「つまらんの」
あけび様は一瞬だけ寂しそうに眼を伏せた。
「あの……」
説明が欲しい。
千秋さんが何故虎鉄に咬まれなければならなかったのかや、あの化け物について。
「すみれちゃんってさ、常子さんの孫の割にこっち側の事情には疎いよな」
「こっち側とかひっくるめて説明していただけませんか? はっきり言って混乱してます」
ニヤリとヤナギさんが口角を釣り上げる。
「知りたい?」
「お願いします」
含みのある笑みのまま、ヤナギさんは「ならお勉強の時間だ」と脚を組み直した。
「まずは確認。すみれちゃんは鬼住村に来るまで幽霊やあやかしの類とは無縁だったんだよな」
「はい。昔話や怪談には触れてはいましたけど、実際に見たのはあけび様が初めてです」
ずっとただの三毛猫だと思っていたあけび様が実は猫又だった。
始まりはそこからだ。
「よし。古くからの言い伝えや怪談、心霊現象。どれも科学的には証明できないけどな、俺や常子さんみたいなごく一部の人間には見えるし聞こえるし触れられる現実なんだ、コレが」
「霊感ってやつですか」
確かにおばあちゃんはまこちゃんが見えていた。
ヤナギさんの話に間違いはないのだろう。
「おう。微妙に違うけど、俗に言う霊感に近いな。大体は生まれつきで、霊感のある人間のごく一部には、祓う力や癒す力を持ってる奴もいる。俺や常子さんがまさにそれ」
続けて「常子さんいなかったら、すみれちゃん今頃お空の上だわ、間違いなく」と首を竦めた。
「千秋さんは違うんですか」
「あーあいつ? あいつはなぁ」
後ろ頭をがりがりと掻き、目線であけび様に助けを求めるヤナギさん。
「ふん。儂は清く正しい天下の猫又様じゃ。瘴気を撒き散らす
「おに?」
さっきからあけび様は何を言っているのだろう。
何について、語っているのだろう。
「はいはい、こめかみ直撃デッドボールありがとうございます。小倅は精一杯頑張りますよ」
「私を襲ったのは、その、いわゆる鬼、なんですか?」
あの赤い目をした化け物が。
昔読んだ絵本の鬼とはまったく違う姿だった。
どちらかといえば、浮世絵の餓鬼に近い。
「ああ。しかも過去に七人を食い殺した人喰いのな」
お腹の真ん中がすうっと冷えて萎んでいくのを感じた。
あの夜、私は恐ろしいものと対峙していたらしい。
「すみれちゃんは、あいつに噛まれて瘴気をうつされちゃったわけ。せっかく俺が拘束してたのに自分から射程にインしちゃって死にかけたある種自業自得。なんで店に行ったんだか」
「私、お財布をお店に忘れたのに気がついて取りに行って。そしたら二階から尋常じゃない物音がして」
「部屋に入ってガブリ?」
頷くと、神妙な面持ちでヤナギさんが姿勢を正す。
「俺の監督不行き届きかつ、後の祭りなんだけどさ」
ちらり、とあけび様を一瞥するヤナギさん。
だが残念なことに、袴姿の美少女は大あくびをしただけだった。
二人とも説明を明らかに渋っている。
だとしても、私は知るべきだ。
自らの身に起こった出来事を。
「あの化け物な」
眉間に深い皺を刻みながら、ヤナギさんはじっと私の目を睨むように見つめた。
「――千秋なんだよ」
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