第30話:月の隠れた夜に
「さっぶい……」
玄関先で昏い空を見上げると、粉雪が顔を掠めていった。
「ついに降ってきたかぁ」
どれくらい積雪するのか、どこまで冷え込むのか。
きっと明日以降、想像を絶する銀世界に驚くに違いない。
白く染まった息を吐きながら、私はマフラーを巻きなおした。
よし、行くぞ。と頬を叩いて道路に踏み出す。
深夜、日付もほんの少し前に変わり、すでに家々に明かりはない。
街灯だけがぽつりぽつりと灯って、舞い降りる雪を浮かび上がらせていた。
ここまで寒ければ野生動物も変質者も心配ないだろう。多分。
虎鉄がいれば完璧なボディーガードだったのにな。
今頃は千秋さんと一緒にぐっすりに違いない。
あのふかふかを抱いて寝たらたまらなく良い夢が見られる気がする。
ああ、恋しいなぁ。
早く朝にならないかなぁ。
朝になったら会えるのになぁ。
一人にやけて、この前スマホで撮った虎徹の写真を見るべく鞄に手を突っ込む。
「あれ」
ごそごそ、がさがさ、と漁ってあることに気がついた。
「え、お財布が入ってない」
ポーチやスマホはある。
なのに、愛用している長財布が見つからない。
家に置いてきたのだろうか。
いや、違う。
今日は家でお財布をかまっていない。
なら……お店?
ロッカーに鞄を投げ置いた時にうっかり落としてしまったのかも。
幸いお店の合い鍵はすぐに発見できた。
コンビニへ行く前にお店に寄らせてもらおう。
夜更けに申し訳ないけれど、このまま手ぶらで帰ると酔っ払いたちが怖い。
静かに財布だけ持ち帰って、明日千秋さんに報告すれば大丈夫だろう。
雪が激しくならないうちに戻らねば。
そうじゃなきゃ雪だるまになってしまいそうだ。
「よし」
私はビニールハウスの群れを速足で抜けた。
お店に着いた頃には酔いもすっかり冷め、体も寒さに慣れていた。
ヤナギさんの愛車は駐車されたまま、薄っすらと雪を被っている。
そこからお店の二階部分を見上げたが、完全に真っ暗だった。
もうこんな時間なので当たり前だ。
千秋さんは夢の中のはず。
あまり物音をたてないようにしなければ。
「お邪魔しまーす……」
慎重にガラス張りのドアを解錠して押し開ける。
植物たちに見つめられながら、スマホの懐中電灯機能で視界を確保しつつロッカーまで進んだ。
そっとロッカーを開き、スマホで照らす。
「おお、あったぁ」
案の定、長財布が斜めに立ち上がったアクロバティックな姿で発見された。
このままコンビニに行けばミッション終了だ。
再びそっと財布を鞄に収め、まわれ右した、その時。
ごとん、と地鳴りのような音と振動がお店を震わせる。
お腹に響く低音と振動は数度続き、最後に鋭い犬の鳴き声が二階から耳に届いた。
虎鉄だ。
こんなに鋭利で警戒を露わにした声なんて初めて聞く。
二階で、千秋さんの住居スペースで、一体何が起こっているのだろう。
「千秋さん? 虎鉄?」
心配になって、二人を小声で呼んでみる。
「アアァァアアアァ……」
返ってきたのは、虎鉄のものですらない微かで禍々しい呻き声。
息が止まってしまいそうなどす黒い音の連続だった。
誰かが、何かが、二階にいる。
千秋さんと虎鉄の眠る二階に。
恐ろしい何かが。
「ち、千秋さん……?」
逃げ出したい衝動を抑え込んで、私は階段を上る。
呻き声は断続的に続き、最後の一段に足をかけると同時に大きな物音が家を揺らした。
スマホで照らした板張りの廊下に異変はない。
特に荒らされた形跡もない。
廊下の左右と突き当りに一つずつドアがあり、正面は浴室に続くようだった。
そのうち右側のドア近辺に、虎鉄を見つけた。
伏せたまま歯を剥き出しにして、低く唸る大型犬。
私が近づいてもまったく尻尾を振らない。
纏わりついてもこない。
「虎鉄、千秋さんは?」
話しかけても、唸り続けるばかり。
「アアァァアアアアァ――」
ドアの向こう側から、あの呻き声が響く。
獣とも人ともつかないおどろおどろしい声が。
私は、意を決してドアノブをひねった。
「ちあき、さ……えっ?」
室内は生臭い空気が充満していた。
その臭気を感じ取った途端、スマホのライトが電源ごと落ちた。
「な、なんで」
いくら操作しても、スマホはうんともすんとも言わない。
暗闇の中では、生ものが腐ったかのような悪臭がより鼻につく。
鼻が曲がりそうな刺激臭と例えるのがぴったりだろう。
加えて視界は黒色で塗りつぶされている。
ただの闇とは一線を画す、黒。
まるで、黒の絵の具で塗りつぶされて色が封じられているかのような暗黒だ。
いつか見た、色も光も失われた世界。
既視感のある空間に体がぶるりと震えた。
恐ろしい。
帰りたい。
でも。だけど。
ここで引き返すわけにはいかない。
「千秋さん、いますか……?」
部屋の中ほどまで進み、名前を呼ぶ。
しかし、その問いに答えたのは。
「アアアァァアアァァアアァァァァ!!」
ぎらぎらと光る、昏い血色の双眸だった。
「ひぃっ」
恐ろしさに腰が抜け、その場にへたり込む。
化け物だ。そう形容するしかない獣が、目が慣れてきた私に牙を剥いた。
どす黒く痩せた肢体に、歪に裂けた口。
肉のない手足は異様に長く、鋭い爪が備わっていた。
姿かたちは人間を想起させるが、人とあまりにもはかけ離れた化け物。
黒を上塗りして浮き上がったそれが、目前で口を開き――
「アアァァァアアァアアア!!」
私の右腕に噛みついた。
牙が肉を深く抉り、激痛に気が遠のく。
殺される。いやだ、死にたくない。
誰か、誰か助けて。
「たすけて……」
腕を食いちぎられる。
そう覚悟した刹那、殺意を露わにした虎鉄が化け物に襲い掛かった。
絶叫する化け物と混ざりあうようにもみ合い、喉笛に噛みつく。
激しい抵抗をうけるも、虎鉄は怯むことなく的確に急所を狙う。
私はあまりの
部屋を這い出て、廊下を転がり落ち、ガラス戸から飛び出す。
早く助けを呼ばないと。
虎鉄があの化け物に殺されてしまう。
千秋さんも、もしかしたら別の部屋で倒れているのかもしれない。
走れ、すみれ。
走ってあけび様とヤナギさんに伝えるんだ。
猫又のあけび様ならきっと解決してくれる。
それなのにどうして。
「たすけ、て」
体がひどく重くて、脚がもつれて歩けない。
まるで腕の咬傷から毒がまわっているように、手足が言うことを聞いてくれない。
次第に頭もぼうっとして、呼吸もままならなくなった。
苦しい。
死にたくない。
誰か。
誰か。
「た、すけ」
しんしんと降り続く雪の中、私は力なく崩れ落ち、意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます