第28話 チランジア・ウスネオイデス




 ドアベルの音を聞きながら千秋さんが大きく大きくため息をつく。


「ごめん、朝っぱらからやかましくて」

「やっぱり元気な方でしたね。ダメな方向に」

「でしょ? 昔からつるんでる腐れ縁なんだけどさ、すぐああやって変なテンションで突っ走るんだ。ネットと一緒で」

「あはは……。いやぁ、生まれて初めて人妻判定されました……」

「大丈夫大丈夫。落ち込まないで。僕と比べればすみれちゃんなんてまだまだ花も恥じらう乙女だよ」

「よいしょしすぎですって……」


 私たち、そんなに歳変わらないと思います、千秋さん。

 でも嬉しくて勝手に口角が上がってしまった。

 人妻も乙女も生まれて初めて言われたかもしれない。

 乙女の方だけは心から嬉しい。


「よーし。じゃあ準備しよっか。今日は仕入れもないし、そうだなぁ」


 仕入れがなくとも仕事は山盛りだ。

 例えば……。


「そろそろウスネオイデスの霧吹きタイミングな気がします」

「あ、確かに。僕が取るからお願いできるかな」

「了解です。開店時間までに終わらせます」

「うん。看板出したら奥のメンテナンス手伝ってね」

「はい!」


 ほんわりと微笑んだ千秋さんはフックに手を伸ばし、もじゃもじゃのウスネオイデスをテーブルに下ろす。

 その間、私は急いでロッカーへ行き、鞄を投げ置いてエプロンをつけた。

 支度を終えて店に戻る。

 すでにもじゃもじゃは全て下ろされており、「後は頼むよ」と言って千秋さんはジャングルへ消えていった。

 朝の段取りはもう覚えているから、一人でも平気。

 開店まで時間もたっぷりある。

 私は左手にウスネオイデス、右手に霧吹きを携え、順にしっとり色が変わるまで霧吹きしていった。

 チランジアはたくさんの種類があり、いくつかは奥のジャングルにもぶら下がっている。

 種類ごとに性質も好みも違い、水やりのタイミングも異なる。

 だから、店のカレンダーにしるしを記入して、千秋さんに状態を見てもらいつつ霧吹きしてあげている。

 まだ私には彼らの喉が渇いたタイミングは計れない。

 葉が内側に巻いてしまったら水不足なんて知識はあるが、いまいち見分けがつかない。

 実際私はまだまだ素人で、緑の手には程遠いのである。


「早く千秋さんみたいな緑の手になりたいな……羨ましい」

「んー? 何か言ったぁー?」

「いえ独り言です! 気にしないでください!」


 作業の佳境でつい口を滑らせてしまい、しかもジャングルから返事まで帰ってきてしまった。

 とりあえず誤魔化して私は霧吹き作業を続行する。

 ふわふわのトリコームに覆われたウスネオイデスは、今やしっとり艶肌美人さんだ。


「おわり。ええと……観葉植物も葉水しとかなきゃ。多肉とサボテンは今日は無しで、鉢植えの花がらも……」


 あれもこれもそれも。

 日課の手入れが終わったらパソコンを立ち上げて、事務作業も待っている。

 突然へそを曲げる子もいるし、お客さんがいつ来るか見当もつかない。

 イレギュラーと戦いつつ、植物たちを美しいまま維持する。

 植物屋さんとして当然の責務だけど、簡単なことではない。

 緑の手の千秋さんにとっては容易くとも、私にとっては日々が戦争だ。


「すみれちゃん、大丈夫そう? 調子のおかしい子いない?」


 しっとり艶肌美人さんをトレーに残し、店内の観葉植物に霧吹きしている最中。

 ジャングルからひょっこり千秋さんが様子を窺いに現れた。


「大丈夫そうです。葉っぱも触った感じ、しっかりしててぶよぶよしてないですし」

「サボテンと多肉も?」

「はい。ハリがあってつやつやですよ」

「黒くなってるところはない?」

「見たところなさそうです」


 みんな健康的な緑色だ。

 紅葉している子も、艶があってぷりぷりしている。


「よしよし。やっぱり冬はいいね。加温と加湿でちゃんと育ってくれて」

「夏が怖いんですよね」


 高温多湿にさらされると彼らは瞬く間に溶けていなくなる。

 多肉もサボテンも、熱帯植物も、あの石ころみたいなリトープスも。

 みんながみんな日本の夏を苦手としているのだそうだ。

 鬼住村は山間部だから、なんて気を抜いていると悪夢が待ち構えているのだろう。

 叶うなら、経験したくない地獄だった。


「あはは、そんな顔しなくても。僕もついてるから最悪の展開にはさせないよ」


 固まっていた私の両肩に大きな手がとん、と置かれた。


「だって怖いじゃないですか。もしここにいる子たち全部枯らしちゃったら、私ショックで三日は寝込んで泣きます」

「泣かせません」


 またとん、と肩が叩かれる。


「まだまだ雪も降っていないし、数か月後には春が待ってる。それだけ時間があればすみれちゃんも彼らの声みたいなものを感じられるようになるよ」

「声、ですか」

「そう、声。正確には観察眼、かな。毎日見たり触ったりしていると自然と経験が積み重なっていくんだ。しっかり向き合って目に焼き付けて、手触りやにおいや纏っている空気を読み取る。すみれちゃんは真面目でじっくり人と付き合うタイプだから、向いてると思うよ?」


 欠点は、真面目過ぎて融通が利かないところだろうか。

 お店の商品として扱っているものに粗相する想像をしただけで背筋が凍る。


「もし間違えてしまったら、私は」


 失敗したくない。

 失敗は敗北だ。

 そう教わって育ってきたから恐ろしい。

 ここでの仕事が充実している分、恐怖は増幅してしまう。


「すみれちゃん」


 唇を結んだ私に、ご機嫌なゴールデンレトリバーみたいな笑顔が降り注いだ。


「僕はね、失敗を経験するのも大切だし、失敗するべきだとは思う。でも、もし失敗したら僕を頼って欲しいな」

「……はい」


 言葉に詰まるくらい、久しぶりに心臓を鷲掴みにされる微笑みだった。


「いつの間にか色々させちゃってるね。最初はパソコンが出来ればそれで、とか何とか言って来てもらったのに」

「せっかく植物屋さんで働かせてもらってるのに、パソコン作業のみが業務内容だと逆に辛いです。私も楽しんじゃってますし、じゃんじゃんやらせてくださいね」

「頼りにしてるよ。やっぱり一人きりでやるより誰かがいた方が楽しいもん。仕事にハリも出るし。すみれちゃんと出会えてよかった」

「私も、千秋さんに拾ってもらえてよかったです。っと、看板出しますね」


 霧吹きを置いて、私はOPENの立て看板を店先に移した。



 *****



 今日は平日。

 お客さんは少なめで、切り花がよく売れる日。

 近所のおばあちゃんに「頑張ってや!」などと声かけしてもらえる日。

 鬼住村は人と人との距離が近くて、隠し事は不可能だ。

 今や村中に常ちゃんの孫の勤務場所は知れ渡っている。

 干渉されすぎるのは好きじゃないけれど、今の環境は嫌いじゃない。

 みんな優しくて、本当の孫のように接してくれる。

 時々店に農作物のお裾分けを持ってきてくれる人もいる。

 この前貰った蒸かしたてのさつまいもは絶品だった。

 もう少ししたら干し柿ももらえるらしい。

 私からあげられるものは何一つないのに、みんなたくさん与えてくれる。

 おせっかいで世話焼きで、温かくて心地良い人々が私は大好きだ。

 もちろん、千秋さんだって。


「こんにちはぁ」


 ちょうど小腹の空いてきた午前十一時半。

 ひょっこりと店に現れたのは、常子おばあちゃんだった。


「おばあちゃん! いらっしゃいませ」

「常子さん、こんにちは。いつもありがとうございます」


 キルティングコートを着込んだおばあちゃんは、皺くちゃに目を細めた。


「あけびちゃんはここにおるかいね?」

「二階にいますよ。今頃虎鉄と寝ているはずです」

「あらまあ、虎鉄ちゃんは随分好かれとるねぇ」

「虎鉄はあけび様のお気に入りの寝床ですからね」


 おばあちゃんがふふふ、と笑うと階段を駆け下りてくる八本分の足音が聞こえてきた。


「噂をすれば」


 さすが獣。察知能力が鋭い。


「にゃあああ」


 あけび様は虎鉄を従えて颯爽と登場する。

 甘え声で一鳴きするとおばあちゃんの足に体を擦りつけて喉を鳴らした。


「あけびちゃん、虎鉄ちゃんと一緒でもいいけん、ぼちぼちお仕事しらいで? な?」

「にゃああああ」

「うんうん。虎鉄ちゃんも来てくれるかいね?」


 今度は私たちの隣でちょこんとお座りする虎鉄に話が振られる。


「うわんっ」

「あらぁ、虎鉄ちゃんはほんとにええ子だねぇ。千秋ちゃん、ちょっと昼過ぎまで虎鉄ちゃん借りるで。お散歩行こうなぁ、虎鉄ちゃん」


 虎鉄は頭を撫でられてご満悦だ。


「ええ。あけび様と常子さんとなら虎鉄も喜びます。リード、繋ぎますね」


 ふさふさの尻尾を振る虎鉄にリードがつけられる。

 虎鉄は賢いわんこだ。

 リードを持つ人間が子供であろうが、おばあちゃんであろうが、引っ張るなんて悪いことはしない。

 実際私が散歩に行った際も、突然走り出したり強く引っ張たりなどは一度もなかった。

 全力疾走の自転車と並走するほどのポテンシャルを兼ね備えているが、ちゃんと空気は読んでくれる。


「どうぞ。いってらっしゃい虎鉄」


 リードの持ち手がおばあちゃんに手渡された。

 虎鉄は早く外に出して! とその場で足踏みをしている。


「わふんっ」

「村のはずれから神社の方までぐるっと一周するけんね。あけびちゃんもはぐれんでよ?」

「にゃ」

「じゃあすみれちゃん、しっかりお仕事頑張ってやぁ。おばあちゃんもわんにゃんパトロールしてくるけん」

「うん。気をつけてね」


 おばあちゃんは三毛猫と雑種の和犬を従えて、店のドアを押す。


「あぁ、そうだ千秋ちゃん。どこかおかしなところ、無かったかいね?」

「いつも通りですよ」


 振り返って尋ねられた問いに、千秋さんはそっと目を伏せた。


「孫をよろしくねぇ。迷子の慧ちゃんはおばあちゃんが探しとくけん」

「毎度お騒がせしてすみません」

「にゃあん」


 最後にあけび様が念を押し、一人と二匹は店を後にする。


「ねぇ、すみれちゃん」


 視界からふさふさの尻尾が消えた頃、千秋さんは私を呼んだ。


「今日の午後はどう過ごすつもり?」

「しっかりお休みを楽しもうと思ってます。おばあちゃんの冬支度も手伝う予定ですし、夜はあけび様に捕まってると思いますよ」

「うん、それが正解。楽しそうだ」


 視線を合わせずに、千秋さんは困ったように笑う。


「さぁて、奥の水槽の水替えするから手伝って」

「わかりました。私バケツ用意しますね」

「ありがとう。よぉーし、今日もやりますかぁ」


 千秋さんはぐっと大袈裟に伸びをした。



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