第12話 緑の手
「千秋さん、聞いてくださいよ」
「どしたの?」
「昨日ですね、純さんとパソコンで通話してたんです。その時に、春仁さんが蜘蛛を飼ってるって驚かされて」
「あちゃー。いたいけな子に悪戯しちゃったかぁ」
「私びっくりして、夢にまで蜘蛛が出てきました」
「怒ってもいいよ。さすがに純さんがやりすぎ」
「うぅ、思い出すと膝が笑う……」
春仁さんの趣味を否定はしない。
でも、だけど、不意打ちは卑怯だ。
私は被害者である。
思い出せば思い出すほどグロテスクな夢に震えてしまう。
私は気付け代わりに両頬を叩いた。
「はい、おしまい! 私、外の苗の手入れしてきますねっ!」
「よろしくー」
チェスターコートを羽織り、私は一人で店先へ出た。
太陽は一番高い位置にあるというのに、空気はしんと冷えて肌を痺れさせる。
そろそろ厳しいらしい冬の到来なのだろう。
「えっと、クリスマスローズに、ビオラ、パンジー、プリムラ、こっちがスノードロップ、だっけ」
みんな、寒さに強い冬の花たちだ。
毎日見ているので、それとなく覚えてきた。
育て方もおばあちゃん愛読の園芸雑誌に載っていたので一応はわかる。
知識ばかりで経験値が足りていない、頭でっかちではあるのだけれど。
「寒い……早く終わらせよう……」
木製ラックにはぎっちり苗が並んでいる。
とりあえず、と私は左端のビオラに手を伸ばした。
枯れた葉や花がらを取って、土が乾いていたらお水をあげる。
もし害虫がいたら千秋さんに報告。薬剤か手で駆除する。
今の時期はあまり虫も活動的ではないので、そう簡単に被害は出ないそうだ。
だけど、油断は大敵。
奴らを甘く見るな、と千秋さんとおばあちゃんの両方から教わった。
「うっ、また虫……」
思い出すな、すみれ。もう忘れるんだ。
奇虫なんてもう忘れてしまうんだ。
浮かび上がる八本足の巨躯にかぶりを振って、作業に集中する。
日々の手入れが株の状態を左右し、後に影響を及ぼす。
だから私が、この子たちの嫁入りまできっちり面倒をみてやらねば。
「――ねぇ、おねえちゃん」
「……ふぇ?」
突然だった。
本当に突然、前触れも気配もなく、どこからか女の子の声がした。
「こ、こんにちは、おねえちゃん」
「え? あれっ」
声の方向へ首を回す。
すると、私の右隣に幼い女の子が立っていた。
「こんにちは。どうしたのかな?」
まだ五歳くらいの華奢な女の子だ。
ダッフルコートに赤いマフラー、もこもこのムートンブーツ姿で防寒はばっちり。
柔らかそうな猫毛はリボンで二つ結びにされ、ゆらゆら揺れている。
「あの、あのね。ええと」
「なあに?」
「えっと……あの……」
「もしかして迷子さんかな?」
女の子は首を横に振り、恥ずかしそうに手をもじもじさせる。
「違うよ……あのね、一番上の右側の子、喉が渇いたっておしゃべりしてるの……だから、お水をあげてほしいな、って……」
「一番上の……?」
恥ずかしがり屋さんが指さしたのは、右端のビオラ。
学校や公園によく植えられるパンジーを一回り小さくした、特徴的な花びらの花だ。
色は様々で、ピンクや青、黄色に紫まで数えきれないくらいの品種がある。
右端のは上の花弁が薄紫、下の花弁がクリーム色をしたものだ。
「あ……乾いてる……」
ポッドの中を確認すると、確かに土が乾いていた。
「えっとね、お花はね、冬も時々喉が渇くの。お昼のお日様が暖かいうちに、飲ませてあげてね」
「すごい、よくわかったね。教えてくれてありがとう。たっぷりお水あげなきゃ」
「うん……じゃあ、ばいばい」
「え?」
女の子は、小さく手を振ると、そのまま回れ右をして店の裏へと走り出す。
「待って! そっちは危な……あれ?」
慌てて追いかけるも、ちょうど角を曲がったところで、姿を見失ってしまった。
店の裏は雑木林が広がっており、もう草を分ける音すらしない。
「大丈夫かなぁ」
心配だ。
田舎ゆえ、変質者にはあまり遭遇しないが、野生動物はそこら中にいる。
どちらも致命的に危険な存在だ。
「すみれちゃん、あの子は大丈夫だよ」
店の中から一部始終を見ていたのか、千秋さんが窓を開け私を呼んだ。
「でもあんな小さい子一人じゃ危険です」
「大丈夫。あの子なら心配ないよ。ふらっと来てはああやって助言しくれるんだ。帰る家もあるし、迎えに来てくれる人もいるから平気」
「近所の子、なんですか?」
それなら安心だが、この辺りは極端に子供が少ない。
あんな小さな子、おばあちゃんから聞いたことないような……。
「まあ、そんな感じ。常子さんとも仲良しだよ」
なんだ。
そっか。
「恐るべしおばあちゃんの交友関係……。私、もう少し手入れしたら戻りますね」
「了解。終わったら休憩にしよっか。えへへ、ご近所さんに高級そうなコーヒーもらったんだぁ」
「私がいただいてもいいんですか?」
「一人じゃ美味しくないもん。付き合ってよ。ね?」
ぱぁっと笑う千秋さんが眩しい。
目が眩んで潰れてしまいそうだ。
「お茶菓子もあると嬉しいです」
「まかせて!」
親指を立てた千秋さんは窓の内側へと消えていった。
「よぉし、お水お水」
女の子に言われた通り、私はジョウロでビオラにたっぷりお水をあげた。
*****
不思議な女の子と再会したのは、その日の夜のこと。
仕事終わりに酒屋でお酒を買い、家へと戻る。
「ただいまー」
いつも通り玄関の引き戸を開けると――
「あ、おねえちゃん」
女の子が上がり
「へっ?」
「えっと……おかえりなさい」
「まーこーちゃーん、どこ行ったかいねぇー」
混乱していると、おばあちゃんが玄関正面の障子を引いて現れる。
「みぃつけた。あら、すみれちゃんも帰っちょったの?」
「見つかっちゃった」
「ただいまおばあちゃん。この子、どうしてうちに?」
白髪頭に割烹着姿のおばあちゃんは「あら、まこちゃん知っとるの?」と目を丸くした。
「まこちゃん……?」
「あの、おねえちゃん、えっとね、お水、ありがとう。お花がね、喜んでたよ。だからね、まこも嬉しいよ」
「どういたしまして」
「まこちゃんは、おばあちゃんのお友達のおうちの子だでねぇ。今日はお泊りして帰るけん、すみれちゃんも遊んであげてやぁ」
うなずくと、おばあちゃんは顔をしわくちゃにして笑う。
「よろしくね、まこちゃん」
「すみれおねえちゃん? おねえちゃんの名前、お花のすみれと一緒なの?」
「うん。お花のすみれだよ」
まこちゃんは、陽だまりのような暖かい表情できらきらと目を輝かせた。
「お花屋さんのおねえちゃんがお花の名前! かわいい!」
「ありがとう。でも、お花はあんまり詳しくないんだけどね」
「じゃあこのお花の名前も、知らない?」
まこちゃんが指さしたのは、玄関に飾られた鉢植え。
黄色い花が鈴生りに花茎を彩り、剣に似た深緑色の葉がつんつんと茂っている。
「えっと、これは……」
花の形を見るに、恐らく蘭だろう。
それ以上は、うーん……。
「蘭、だよね?」
「蘭のね、シンビジウムだよ。丈夫で他の子より寒いのが平気なの」
「シンビジウムかぁ! まこちゃんはお花博士だね。お姉ちゃん知らなかったや」
「お花屋さんなのに?」
「うっ……」
突き刺さる台詞をいただいてしまった。
精進せねば。
「すみれちゃんはお勉強中だけんねぇ。まこちゃんは物知りだけん、今晩は花のこと
「うん! すみれおねえちゃん、こっち来て」
まこちゃんに手を引かれ、私は玄関に靴を残して廊下に上がった。
「どこいくのー?」
「常子おばあちゃんちはすっごいんだよ。外も中もお花でいっぱいなの」
鼻息荒く、まこちゃんはずんずん廊下を進んでいく。
花のこととなると恥ずかしがり屋さんじゃなくなるみたいだ。
「ここ!」
広い屋敷を歩いて、びしっと指さされたのは仏間の障子だった。
まこちゃんはお行儀よく障子を開け、私たちは揃って畳の間に入る。
仏間には先祖の写真が掲げられた仏壇があり、微かにお線香の香りが漂っていた。
そして、窓際にはたくさん鉢植えの蘭が置かれている。
「カトレアにパフィオペディラムに、玄関の子とおなじシンビジウム! みんなとーってもきれいなの!」
一つずつ指さしてくれたが、品種の羅列に脳が追いつかない。
品名を知っていても、それらを瞬時に識別するだけの目が養われていないのだ。
でも、どれも花やつぼみをつけ、青々と葉を茂らせていて、元気いっぱいなのはわかる。
「まこちゃん、本当に詳しいね。全部名前がわかるんだ」
「わかるよ! まこね、お花大好きなの! 特に蘭が大好き! あのね、蘭はね、寒がりで育てるのもちょっと難しいの。でもね、このお部屋の子たちはね、ぜんぶ、ぜーんぶお店のみたいにきれいなの! お花をいっぱいつけるの、大変なんだよ。だからね、つねこおばあちゃんは緑の手を持ってるひと!」
「緑の手?」
「どんな植物も、元気にすくすく育てられるお花の神さまのこと!」
「へぇ神様かぁ。じゃあまこちゃんの手もきっと緑の手だね。だってまこちゃんさ、お花が喉乾いたなぁ、っておしゃべりしてるの聞こえるんだもん。絶対そうだよ」
私も欲しいなぁ、緑の手。
きっと仕事にも役立つ。
「まこのは違うよ。でもね、大きくなったらつねこおばあちゃんみたいになりたい! お庭もお部屋も植物でいーっぱいにして暮らすの! あと、猫も! ね、あけびちゃん!」
「にゃぁああ」
名前を呼ばれた張本人は、ひっそり廊下に佇んでいた。
どこまでも不服そうな顔をして。
「いつの間に……」
「にゃぁー」
あのふてぶてしい口調はどこへ行ったのやら。
あくまで普通の三毛猫を装うらしい。
「あけび様、いつもの買ってきましたよ。台所に置いておきますからね」
「にゃにゃー」
「あけびちゃん、おいで!」
まこちゃんに手招きされるも、あけび様はそっぽを向いて走り去ってしまった。
やっぱりふてぶてしい。
「逃げちゃった」
「逃げちゃったね」
「さっきは撫でさせてくれたのに。お腹減っててご機嫌ななめなのかな」
「ごはんより飲み物を欲してそうだけどね、あけび様」
うっかり口を滑らせた私に、まこちゃんは首を傾げる。
「まこちゃーん、お風呂沸いたけん、おばあちゃんと一緒に入らいでー」
「はぁーい。じゃあおねえちゃん、まこおばあちゃんのとこ行くね」
「このおうちのお風呂、大きいんだよー。風邪ひかないようにしっかり温まってね」
「うん。湯船で百数えたら出てくる!」
「いってらっしゃーい」
手を振って、まこちゃんは廊下を駆けていった。
軽快な足音が遠ざかり、ゆっくり掠れ消えていく。
「すみれちゃんも、お夕飯用意してあるけんねー」
「はーい! いただきまーす」
そうだ、私お腹ぺこぺこだったんだ。
いつもおばあちゃんは帰りの遅い私を待ってくれるが、今日はまこちゃんがいる。
先に二人で食べたのだろう。
一人でご飯を食べるのには慣れている。
両親は共働きで帰りが遅かったし、東京暮らしの頃は大半の食事を一人で済ませていた。
気を使いながら食べるご飯は、味がしなくて嫌だったから。
ここへ来る前は当たり前だった一人が、今ではほんのちょっとだけ、寂しい。
ああ、でももしかしたらあけび様がおこぼれを掻っ攫いに現れるかもしれない。
寂しさに浸りすぎるとお皿が空っぽになりそうだ。
「よーし、食べよ」
とりあえず鞄を置いて、着替えて、台所へゴーだ。
咲き誇る蘭を目に焼き付けて、私は仏間を後にした。
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