第7話 先輩
案の定、翌日も拓斗はお店にやってきた。
学校終わりらしく、胸に名札を付けたままで。
駆け寄った虎徹をすぐさまリードに繋ぎ、意気揚々と散歩へと出掛けて行った。
「なあ千秋。ロホホラいつ退院?」
散歩から戻ってきた拓斗の第一声がこれだ。
「うーん、そうだなぁ」
千秋さんはポイントカードにスタンプを押す。
この時私は、午前中に撮った植物の写真をホームページにアップしている最中だった。
「
「マジ? 嘘じゃねぇよな?」
「嘘じゃないよ。約束する。だけど」
「わかってるわかってる! じゃな! オレ、用事があるから帰る!」
「がんばれー」
千秋さんのエールに見送られ、拓斗は店を飛び出して消えた。
「……元気ですねぇ」
「微笑ましいよ」
笑い合って、再びお店に穏やかな空気が戻る。
今日は生花の水揚げを習い、写真を撮り溜め、ジャングルにあるガラスケースをぴかぴかに磨いた。
元々ウィルオウィスプでは切り花の販売をしていなかったが、近隣住民の希望で少量置いているのだそうだ。
だから普通のお花屋さんのような量はないし、仕入れも毎日ではない。
どちらかと言えば鉢植えなどの取り扱いが多く、枯れた葉や花を取り除く作業の方が骨が折れた。
ガラスケースだってすぐに水垢がついて汚れてしまうので、掃除は欠かせない。
それらを終えて黒ずんだ手でキーボードを叩いていると、瞬く間に陽が傾いていった。
植物屋の仕事って、想像よりずっとハードだ。
お客さんは相変わらず少ないが、人間相手じゃない仕事はわんさかある。
現在進行形でアップしている植物の写真も、添える文章が呪文すぎて戸惑っていた。
店の植物の名前は、英語表記とカタカナ、漢字が混在している。
完全に英語表記の物もあれば、ごちゃまぜの物もある。
素人には難解極まりない未知の単語の羅列に、頭のなかがこんがらがっていた。
よく出てくる名前は一応メモしたが、これらを正確に入力し、そのあとに種小名や和名まで詳細に記さなければならない。
なんでもマニアにとってはここが重要であるらしく、間違えると大顰蹙を買うそうだ。
ちなみに同じ名前の物でも、最後に“sp.”とかついていたりするので気が抜けない。
これはspecies 、
有難いことに写真をアップし続けていると、それぞれの特徴が何となく掴めてくる。
育て方に関しては相変わらずさっぱりだが、漠然となら見分けられそうだ。
sp.その他諸々の種小名以下は勘弁してほしいけれど。
「わふん」
「待ってよー。あとちょっとだから」
レジカウンター内で作業する私には、毛むくじゃらの湯たんぽが寄り添っていた。
千秋さんはジャングルで植物のレイアウトにお悩み中だ。
「明日までに反応あるかなぁ、虎鉄」
頭を撫でると、虎鉄はふんっと鼻を鳴らす。
「もし買い手が見つかったら、先払いしてもらって梱包して発送だって。虎鉄は知ってるよねー」
「わふ」
虎鉄の返事と同時に、最後の一件をアップし終わった。
「終わりっ! あとは待つのみだ」
ホームページに画像を追加した旨をSNSで呟いておしまい。
ひと月の間更新されていなかった呟きには、私の挨拶も一緒に投稿しておいた。
これからよろしくお願いします、くらいの短いものを。
「千秋さんまだ悩んでるのかな」
もう三十分は籠っているのではなかろうか。
心配になった私は、様子を見に行くため、レジカウンターを出た。
「千秋さ――うお」
すると、引き留めるかのように電話が鳴る。
業者さんからかな、と私は受話器を取った。
「お世話になっております。こちらボタニカルショップ、ウィルオウィスプです」
「こんばんはー、ってあれ? もしかして新人さん?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、快活な若い女性の声。
「はい。笹森と申します」
「へー、千秋君から聞いてたけど、若い女の子ってのは嘘じゃなかったんだ。ホームページと呟き、見たよ。私が残したマニュアルは役に立ったみたいだね」
お客さんかと思ったが、マニュアルをご存知となると、この人は……。
「ひょっとして以前勤めていらっしゃった方ですか?」
「うん。せーかい。
「わぁ! こちらこそよろしくお願いします! マニュアルとってもわかりやすくて助かりました」
親しみやすいフランクな口調から、頼もしいお姉さん像が私の中に形作られる。
「でしょ? 滅茶苦茶わかりやすかったでしょ? 小学生でもわかる内容だったでしょ? でも千秋君には伝わらないんだよなぁ。パソコン音痴恐るべしだよねぇ」
「ずっと起動してなかったみたいで、一か月分の更新プログラムのインストールから始めましたよ」
榧野さんは間髪置かずに大笑いした。
「もー、ごめんねぇ、ほんっとごめん。もう少し働くつもりだったんだけど、急に夫君の転勤が決まっちゃってさぁ。でも、しっかりした子に決まっておばちゃんも一安心だ」
「そんな。私、ただパソコンが操作できるからってだけで採用が決まったんです。植物の知識はほぼゼロで、一から教えていただいている最中で。榧野さんはお詳しいんですよね?」
「気にしない気にしない。最初はみーんな素人だし、千秋君や私はただの変態だもん」
「すみれちゃん、もしかして純さんから?」
談笑していると、ジャングルからひょっこり千秋さんが顔を出す。
「はい。榧野さんすみません、千秋さんが戻られたので変わりますね」
「お、ならスピーカーフォンにしてもらえる? みんなに聞こえるやつ」
「わかりました」
私は電話機を操作して、設定を切り替えた。
「あーあー、千秋君聞こえてる?」
「聞こえてるよ。僕にもすみれちゃんにも、虎鉄にも」
「虎鉄元気かぁ―? 今度また匂い嗅がせろよー」
声に反応して「うわん」と虎鉄が鳴く。
どうやら榧野さんを覚えているらしい。
「純さん、そっちはどう? もう慣れた?」
「ぼちぼちね。まだ道に迷いまくりだし、未開拓のお店もたくさんあるし。だけどまぁ、程よく都会で快適だよ」
「新幹線も通ってるしね」
「うんうん。超便利だよ新幹線。東京まですぐだもん。ビューン! って着くもん」
鬼住村の属する県には新幹線の線路がない。
新幹線に乗るためには特急列車で二時間かけて山越えしなければならないのだ。
私もここへ来るときに経験したが、あまりに揺れるので酔って死ぬかと思った。
「千秋君こそ、ちゃんと食べてる? 食の乱れは心の乱れだよ」
「野菜も卵もお肉もほぼいただきもので済んでます。この前なんかシカ肉もらったよ」
この辺りではシカやイノシシは害獣として駆除され、食肉に加工されている。
いわゆるジビエと呼ばれるものだ。
「いーなー。私も食べたいなぁ。宅配便で送ってよー、店長ぉー」
「今度貰ったらね」
「やった。もちろん私も特産品送り返すんで!」
「美味しい物なら大歓迎だよ。じゃんじゃん送って」
「ふふふ、期待しときなぁー」
弾んだ声に虎徹がわふわふと返事をする。
虎徹も特産品、欲しいのかな。
「笹森ちゃーん。千秋君の手綱をがっちり握っといてよー? この人意外と世間知らずだし、大事なところが抜けてるから。壊れたテレビをぶっ叩いて再起不能にする系男子だから。猫に酒飲まそうとする非常識な酒豪だから」
「ちょっと純さん?」
「後輩としてしっかりやらせていただきます」
多分その猫、うちのあけび様です榧野さん。
「あーもー、すみれちゃんものらないでって」
榧野さんはまた大笑いする。
「いいねー、笹森ちゃん最高! じゃ、バイバーイ」
ここで電話は切れた。
「……明るい方でしたね。頼れる姐御って感じの」
「まさにそんな人だよ。底抜けに明るい人。僕も元気そうで安心した」
「元はこの辺りに住んでらっしゃったんですよね、榧野さんって」
「隣の市から車で通ってくれてたんだ。植物全般に詳しくて、お客さんからも好かれててさ。フラワーアレンジメントも彼女から習ったんだ」
後任の私に同じ役目が務まるだろうか。
「でも、体調を崩しやすい人で心配してたんだよ。ほら、見知らぬ土地で旦那さんと二人きりだから」
「あんなにお元気なのに、意外です……」
「明るさの反動が体と心に、ね」
千秋さんの表情に一瞬翳る。
しかしすぐに晴れ、またニコッと口角を上げた。
「さ、仕事に戻ろうか。明日は拓斗の花束用にお花が届くから手伝ってもらうよ」
「お姉ちゃん、きっと喜びますね」
「うん。目一杯お誕生日らしい華やかなものを作らなきゃ」
そう言って、千秋さんはロホホラに温かな眼差しを向けた。
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