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翌日――――。
というのも変だが、感覚的には次の日。あのまま自宅マンションに帰って仮眠を取っていた和葉をものの数時間の浅い眠りから引っ張り上げてしまうのは、ベッドの傍でやかましいぐらいに鳴り響くスマートフォンのアラームだった。
「んー……。あと五時間……」
正直このまま五時間どころか五十時間ぐらい寝ていたい気持ちでいっぱいな和葉だったが、しかし今日は平日、学園に行かなければならない日だ。起きずに全力の二度寝という選択肢は、残念ながら取れそうにない。
「んーっ……」
仕方なしに起き上がり、寝間着姿のままベッドの上にちょこんと座る格好になれば、和葉が小さく伸びをする。眠気に満ちた顔にあどけない仕草、このシーンだけを見てしまえば、彼女が数時間前まであんなクールな雰囲気でバーテンのアルバイトをしていたとは思えないだろう。
だが、ひとたび洗面所で顔を洗い、鏡と向かい合えば。そこに居たのは既に別人と言っても良いぐらいに引き締まったクールな顔立ちの彼女で、すっかり眠る前の雰囲気に戻っていた。
寝汗を流す熱いシャワーを浴びて浴室から出れば、既に和葉の纏う雰囲気は寝起きの時とはまるで別人だ。引き締まり、出る所はキッチリ出たモデル体型の肢体、その白い肌や蒼い髪に滴る水滴が、彼女の美しさを更に際立てる。水も滴る何とやら、というのは正にこのことだろう。
濡れた蒼い髪を乾かし、軽めの朝食を摂って。蒼い髪を頭の後ろで長い尾を引くポニーテールに結い直しつつ、美代学園の制服を着る。ブレザー・スタイルの制服は少しばかり堅苦しいが、流石に三年目にもなれば色々と慣れたものだ。
重いスクール・バッグを肩に掛け、玄関口で靴を履き。そうして部屋の外に出た和葉が、玄関扉に施錠して外廊下を歩き始める。
階段を降り、正面エントランスを通り抜けてマンションの外に出た和葉が見たのは――――意外といえば意外、しかし当然といえば当然のような、そんな光景だった。
「……貴方、昨日の」
絶句した顔でエントランス扉の前に立ち尽くす和葉の視線の先、道の路肩には黒いスポーツ・セダン――スバル・インプレッサWRX-STiが停められていて。そうしてそのボディに寄りかかるようにして、つい数時間前に見た高級スーツの男が、まるで変わらない姿でそこに居たのだ。
「一人では危険だ、俺が学園まで送ろう」
腕を組んだまま、しかし閉じていた瞼の片方を開きつつ、アルマーニの高級イタリアン・スーツに身を包むその男、ハリー・ムラサメが開口一番に和葉へ向かってそう言う。さも当然のように、義務のような口振りで。
(……このヒト、本当に
一方和葉といえば、驚いた顔でエントランス前に立ち尽くしたままで。しかし内心では、昨日彼が言っていたことが真実なのだと、そう確信していた。
彼の言葉を信じていなかったワケじゃない。ただ、信じ切れなかっただけのことだ。
だが――――これで、確信した。
父があんな仕事をしているものだから、昔は和葉もそういう話をよく聞かされたものだ。だから、別にこのハリー・ムラサメが殺し屋だろうが、その類に近い人間だろうが、大して気にはならない。いや気にならないといえば少しだけ嘘になるが、とにかく抵抗はあまりないのだ。
「私が出てくる時間にピッタリ合わせるなんて、流石に調べてるのね」
和葉は漸く硬直を解き、待ち構えていたハリーをよそにマンション一階の駐車場の方へ歩き出しながら、彼に向かって少しの皮肉を織り交ぜたそんな言葉を投げ掛けてやる。
「ルール第一条、時間厳守だ」
そんな和葉を小さな足取りで追いながら、ハリーが言う。すると和葉はクスッと小さく笑い、
「またそれ」
なんて風に呟きながら、駐輪スペースにあったとある単車に被せられていたカヴァーをバサッと外してみせた。
「――――でも、余計なお世話よ。私にはこの子があるから」
とんとん、と紅白のカウルを軽く叩きながら、和葉がカヴァーを外した単車を見せつけるようにハリーに言ってみせる。
和葉の捲ったカヴァーの奥から現れたのは、随分と古びたバイクだった。
1988年式のホンダ・NSR250R。別名MC18型、通称"88NSR"。紅白のレーシーな塗装がカウルに施されたそのじゃじゃ馬めいたレーサー・レプリカこそ、昨日"ライアン"で話している最中にも話題に出てきた、彼女の相棒だった。
「それで学園まで行く気か?」と、ハリーが訊く。
「勿論」和葉はそのNSRに跨がりながら、掛けていたフルフェイスのヘルメットを被った。
「校則違反だろ?」
「知らないわ、そんなこと。だからどうしたって話よ、私には関係ない」
つんけんとした態度でハリーの言葉に受け答えをしながら、和葉はその細い脚でキック・スターターを蹴り飛ばす。腹に抱えた排気量250ccの、しかし'88年当時にはあまりに規格外だったエンジンに火が灯る。二ストローク・エンジンの軽快なサウンドが駐輪場に木霊し、そして二ストローク式の構造が故な不完全燃焼が生む特有の臭いが、ハリーの鼻腔をくすぐった。
「しかし、やはり君一人では危険だ」
尚も食い下がるハリーだったが、しかし和葉は「お構いなく」と素っ気ない態度でそれを一蹴してしまう。
「それじゃあ、お先に」
少しの暖気が終われば、和葉はそれだけを一方的にハリーへ告げてヘルメットのバイザーを下ろし。まるでハリーごと跳ね飛ばすかというぐらいの物凄い勢いでNSRを突っ走らせ、そして公道へと飛び出して行ってしまった。
「……やれやれ」
とんだじゃじゃ馬娘だな、これは――――。
走り去っていった和葉とNSRの背中を見送り、そして仄かに残る二ストローク・エンジンのガス臭さを嗅ぎながら、ハリーは疲れ果てたように、呆れかえったように肩を落とす。
そうして彼もまた自分のインプレッサに乗り込み、和葉とNSRの後を仕方なしに追い掛け始める。護衛開始の一日目は、こんな具合に散々な格好で幕を開けることとなった。
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