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 陽が西方に没し、夜も更ければ、街はまた別の顔を見せ始める。昼とはまた違う、夜の顔を見せ始める。

 そんな街の中、繁華街の外れにポツンと佇む小さなバーがあった。"ライアン"と看板の掲げられたそのショット・バーは周りの街並みに溶け込んではいるが、しかし一歩その店の前に立てば、何だか独特な雰囲気が、浮世と隔絶されたような感覚を覚えさせられてしまう。

 きっと、その理由わけは彼女がカウンターの向こうに居るからだろう。此処を訪れた客なら、誰もがそう思うに違いない。カウンターの向こう側に立つ燕尾服を着たバーテンダーの彼女は、それ程までに上品な美貌と仕草を振りまいていた。

 園崎和葉そのざき かずは――――。

 それが、ポニーテールに結った海のように蒼い髪の尾を揺らす彼女の名だった。

「…………」

 無言のまま、小さな愛想を振りまきながら、ワインのように紅い切れ長の瞳が店の中をさりげなく見渡す。

 薄暗く照明の落とされた店の中は、客の数も疎らだった。夜になってから雨が降り始めたからか、今日は普段よりも少しだけ客の数が少ないように和葉には思えていた。

 とはいえ、元々そんなに客が入るような店でもない。数人の客が出ては、また別のが入ってくる。そういう入れ替わり立ち替わりばかりで、奥のテーブル席まで使うことは殆どない。和葉はこの店でバーテンのバイトを始めて割と長い方だが、しかし店が混んだ場面に遭遇したことは一度も無かった。それぐらいに暇な店なのだ、このショット・バー"ライアン"という所は。

 かといって、和葉は別にこの店に文句があるワケでも無かった。確かに暇は暇だが、割とラクで楽しい部類に入るし、何より金払いが良い。入ってくる額が大きいってコトは、和葉のような学生バイトにとっては大事なことだ。

(ま、校則違反なんだけれどね)

 それどころか、法的に抵触するかもしれない。だが和葉は今更辞める気なんて無かった。長いことこのバイトを続けてきたし、自由に使える金が欲しいというのもある。だがそれ以上に、校則だとかそういうモノに左右されてどうこうしてしまうというコトが、無性に納得出来ないだけだった。

(私が従うのは私自身のルールだけ。法に校則に道徳、そんなくだらないモノはクソ食らえよ。私は縛られない、やりたいようにやるだけ)

 銀のシェイカーを振ってカクテルを作りながら、和葉が胸の内でひとりごちる。涼しい顔の下で思うのは、クールな風貌からは想像も付かないぐらいに熱い反骨心だった。

「……どうぞ」

 短いショート・グラスに作った真っ赤なカクテルを注ぎ、それを黒いゴムのコースターと共に客の前へと出してやる。ブラッディ・マリーのカクテルが注がれたグラスが、真っ赤に染まっていた。

(大体、あんなモノに従う方がどうかしてるわ。他の子は馬鹿よ、私は私がやりたいようにやる)

 こうも暇だと、薄暗い店の雰囲気も相まって妙なことを考え込んでしまう。店に流れる古びたジャズがそんな気持ちを隆起させるのか、或いはもっと別の原因か……。

 和葉は小さく頭を横に振って、今の思考を頭の外に吹き飛ばした。こんなことを考えていては、ロクに仕事にならない。幾ら暇といえ、仕事は仕事。自分でやると決めた以上はキッチリこなしてみせるのが、園崎和葉という女の流儀なのだ。

「…………」

 そうしていると、カランコロンという来客のベルが鳴る。和葉がチラリと視線を向けると、外から漏れ聞こえてくる小さな雨音と共に入ってきたのは、ピシッとしたスーツに身を包んだ独りの男だった。

(あら、イイ男じゃない)

 その客を一目見た瞬間、和葉は何の気無しにそう思っていた。

 年頃は二十も半ばぐらいだろうか、それを少し過ぎた頃だろうか。身長はおよそ175センチ程度、ルックスも悪くない。前髪を大きく掻き上げたオールバック・ヘアのその男の顔立ちは、どちらかといえば男前の部類に入る。

 着ているスーツは、アルマーニか何処かだろうか。詳しいことまでは和葉の眼からでは分からないが、イタリアン・スタイルの値が張る奴なのは明らかだ。

如何いかがに?」

「此処は初めてだ、君のオススメで構わないよ」

 カウンターの端に座り、和葉を眼だけで見上げながらそう言う男の顔を間近で見て、和葉はやはりイイ男だな、という印象を抱いた。

 今まで多くの客を見て、そして接してきたが、この彼はそんな今まで見てきた男たちとはまるで違う。当然、学園でのクラスメイトの男子たちなんかとは比べものにならない。比べてしまうのが失礼に思えるぐらい、男の漂わせる雰囲気は異質だった。

 孤独にして影多く、冷淡にして何処か優しげな。間近で見る和葉自身にも何と形容したら良いか分からないほどに、男が身に纏う雰囲気は他と違いすぎている。

「……不思議なヒト」

 周りの客に聞こえない程度の小さな声でひとりごちながら、和葉は独り彼の為のカクテルを作り始める。オススメを頼むと言われたので、自分の一番得意なモノをだ。

「どうぞ、ギムレットです」

 と、作ったカクテルを男の前に差し出す。ショート・グラスに注がれた白濁色のカクテルを眺めながら、彼は小さく微笑んだ。

「君のオススメか」

「ええ」と、頷く和葉。「得意なんです、それが一番」

「ギムレットには、君はまだ少し早すぎる……」

「えっ?」

 男の呟いた言葉があまりにも小さく、聞き取れなかった和葉が訊き返すが、しかし男は「いや」とはぐらかし、

「頂こう」

 そう言って、グラスを傾けた。

「……うん、美味いね」

 一口を口に含み、それを味わった男が微笑みと共にそう言うと、和葉も「良かった」と小さな安堵と共に微笑み返す。

「ひとつ、伺っても?」

「ん?」

「貴方の、お名前を」

「……ハリー・ムラサメ」

「あら、それが本名?」

「ご想像にお任せするよ、君のね」

「面白いヒト」

 肩を竦める彼――ハリー・ムラサメの言葉に、和葉が思わずクスッと小さな笑みを零してしまう。そうすれば彼も、それに同調するかのように微笑み返していた。

 それから、彼は長いことこの店に居座っていた。勿論和葉もバイトであるから、他の客の接客はする。だが何故だか彼のことが気になってしまい、暇を見ては彼の方へ行って、色々と話を交わしていた。

「――――へえ、君はバイクに乗るのか」と、感心した様子でハリーが言う。

「ええ。'88年式のNSR、知ってるかしら?」

「知ってるよ、88NSRだろ? あんな暴れ馬、よく乗りこなせるな」

「慣れですよ、慣れ。最初は苦労しましたけれど、慣れちゃえば可愛いものです」

 彼と話しているひとときは、和葉にとっても楽しい時間だった。今まで長いことバーテンのバイトをしていて、こんなに接客が楽しいと思えたのは初めてだった。

 それぐらいに、彼――ハリー・ムラサメは魅力的な男だった。纏う雰囲気は独特で寡黙、しかし話せば割と饒舌で、それに自分と話も合う。何度かバーテンと客という関係であることを忘れてしまいそうになるほどに、彼との会話は和葉にとって楽しいものだった。

 彼もまたそう思ってくれていたのか、それとも違う理由か。どちらにせよ、彼は閉店間際までこのショット・バー"ライアン"に居た。客が入れ替わり立ち替わりしていく中、彼だけは和葉との会話を延々と楽しんでくれていた。いや、どちらかといえば、和葉の話に彼が付き合ってくれていたのかも知れない。

 とにかく、そんな遅い頃合いになってしまえば、流石に店じまいになってしまい。楽しかった時間は終わりを告げてしまうことになる。

「貴方、この後の予定は?」

「特にないが、それがどうかしたか?」

 最後の一杯を飲み干したハリーが不思議そうに首を傾げると、和葉はふふっと艶っぽく微笑む。

「この後、もう少しお茶でもどうかしら?」

 ――――もう暫くだけ、彼と話していたい気分だった。

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