076→【母と息子/安心】
幻の病室。
遠い日の夢。
そこにいる彼女、
相楽杜夫の、
人生で最大の後悔が、
微笑んで、語る。
「あなたのお母さんは、家族や自分の周りにいる人が、しあわせになるようにって願ってた。それは、自分がどれだけ苦しい状況になっても、いいえ、この世から去る日が近づいてくるほどに、むしろ、強く祈ってた」
よく笑う人だった。
側にいて、気持ちのいい人だった。
「けれどね。君枝さんはいつだって、生きるのを諦めたことなんてなかったわ。いつもいつでも、芽々子ちゃんと会った、一番弱っていた時だって――絶対に元気になるんだって、回復してやるんだって燃えていた」
前を向く人だった。
何かがどうにかよくなる為に、いくらでも、がんばれる人だった。
「それは、彼女が知ってたからよ。人は、絶対に一人ではないって。自惚れや増長なんかじゃなく、どんな人でも、そこから欠けるということが、どれだけの辛さを周りに与えてしまうのかを――そして何より、生きることの素晴らしさを」
夢を語る人だった。
やりたいことが多すぎて、泣いている暇なんて無いのだと、ベッドの上でノートを広げた。
「ええ、そうよ、結局そう、まずはそれ。相楽君枝はね、ただ単に、生きていることが楽しいから、この世には、一生かかっても味わい尽くせない、面白くて素敵なことが一杯だって、世界を回るカメラマンをしていたころから、身に染みて実感していたから――自分の命が尽きるその日まで、今日が命日のように、全力で生きることを一日一日続けていこうと、そう決めていたんだから」
カレンダーには〇の文字。
×をつけるのは、なんだか寂しいからと――今日もいい日だったと、過ごした日付を、丸く囲んで頷いていた。
「だから、杜夫。人をしあわせにしたいなら、まず、自分がしあわせになりなさい」
あのころ。
辛くないのかと、思わず零した俺に対し、そっくりなことを言われた。
『きみが笑ってくれるから、わたしも笑ってられるんだよ』。
「誰かと関わって、幸福にして。それで、いなくなった時に少しも悲しませないなんて絶対に無理なのよ。どっちかだけなんて無理。共に過ごす時間の喜びと、別離の悲しみは、一緒のものなんだから。どっちかだけは、取れないわ」
葬儀の後。
残された俺たちは、母さんが、密かに残していたノートを見つけた。
そこには――つらくさせちゃってごめんなさい、と、遺言が、書かれていた。
「だったら、簡単よね。悲しい以上の、暖かい気持ちを遺せる人になりなさい。いい人だけど、いつ自分を軽々しく犠牲にするんじゃないかって、見ていて不安にさせるんじゃなく。この人は、側に居てくれるんだって、安心していられるような――大切な誰かと同じぐらい、自分のことも大事に出来る、立派な大人になりなさい」
――ノートに綴られた、たくさんの、抱えきれない、収まりきらない、言葉、言葉、ことば、ことば。
ずっと、思っていたことがある。はっきりと、悔しさがある。
「それが、君枝さんが、あなたを産んだ時に決めたこと。この先に、何があろうと、と誓ったこと。――ねえ、杜夫。他でもない、母さんのことが本当に大切だったあなたが、彼女の、心からの思いを無視するの?」
これを。
この気持ちを、もしも。
ちゃんと、母さんが、いてくれる時に、伝えていてくれたなら――
「――俺もさ、母さん」
「……うん。なに? 聞かせて、杜夫」
「母さんが、くれたものを。大好きだった人を、大好きだったことを、最後が悲しかったくらいで、間違いになんて、したくない。するもんか。だから」
「だから?」
「遅れちまったけど、済ませるよ」
夢のような夏。
ありえない出逢い。
つまり、それぐらいに――一人だけでは来られなかった、奇跡みたいな、この一瞬。
「ありがとう。短い間だったとしても、一緒にいられたこと、そばで教えてくれたこと――あなたとの全部、しあわせだった」
託されたもの。
託してくれたこと。
そのすべてを、
“明日の意味”にする為に。
「さようなら、母さん」
「よくできました」
引き寄せられて、
抱きしめられる。
「こちらこそ。わたしは、やっぱり、君枝さん本人じゃないけれど――彼女が絶対することを、したいと思っていたことを、こうやってやれて、よかった」
「………」
「さようなら。私の子供、私の大事なたからもの。父さんや真尋、いろんなみんなと出逢えたから、相楽君江も最後まで、もう、文句なくしあわせだった」
晴れていく。
自分の中にあった思い込みが、解体され、間違いだったと、納得するしかない、感覚。
「――――さて。そろそろ、落ち着いた」
「…………うん」
顔を上げて、身を離す。
涙の跡を、今度は自分の手で拭う。
安心してよ、と主張するように。
「まったく、こんなの、本当はわたしが言う事でもないのよね。ちょっと考えればわかるんだから。だって、もしも杜夫が大切だって思った人が、自分のことを粗末にしたら、あなた、絶対に怒るでしょう?」
「……う、」
まったくその通りで恥ずかしく、そして、否応も無く思い出す。
ついさっき、そういうことを話したばかりの相手。
「やれやれ。本当、手間のかかるかぁいい子だわ」
「――母さん」
名残惜しくない、なんて、絶対に言えない。
けれど、俺には、俺の、これからがある。
過去に、遠ざかったものの影に、いつまでも、立ち止まってはいられない。
そんなのを、この人はきっと、望まない。
「行きなさい。そして、生きなさい、杜夫。待っているんでしょう、あの子が」
「――――ああ」
「もう、告白は済ませたのよね?」
「ばっ!?」
「ほらほら、わたし、ここで最後なのよー? 今だけなのよー? 聞かせてくれてもいいんじゃないかしら、保護者的に考えてー?」
ああもう!
そうだよ、そうだったよ、こういう人だったよ母さんは!
遊び心があって、好奇心旺盛で、何にでも首を突っ込みたがって、そんで誰より世の中の楽しみ方を知っている――
――俺の、大好きだった人。
「し、し、……したよっ、告白!」
「やるじゃん、杜夫」
わしわしと、頭を撫でられる。
「小学校に入ってから、あの子の話ばっかりだったもんねー。母さん、すーぐわかっちゃったわ。この子、自分があの子に恋してるのにも気付いてないんだって。まったくウブでかわいらしいったら。まるで昔の、幼馴染だった父さんにちょっかいだしてた母さんみたい」
母さんが、懐かしさに笑いながら、手を放す。
その時だった。
「――――あらやだ」
窓に、そいつが張り付いたのは。
「うへえ。いやーな気分になるわ。そっか、これが――私の中にもいた奴か」
俺を内側から蝕み殺す、顔の無い【俺】。
そいつが虫か何かのように、病室の窓にへばりつき、中に入ろうとしてくる。
まったく、目障りなことこの上無く。
「おい」
だから、
「俺の母さんに、」
拳を振り上げ、
「イヤなこと、思い出させるんじゃねえよ」
硝子を突き破り、そいつのことをブン殴った。
それこそ虫の鳴き声めいた音を出しながら、そいつが下に落ちていく。
「――――なぁんだ」
俺は今、そいつをふっ飛ばした、自分の拳をまじまじと見る。
「どうってことねえな」
「そうとも」
母さんが頷く。
「死ぬも生きるも料簡次第。心構えさ、結局のトコ。世の中には、最初からついてる色なんてない。そこにどういう意味を見出すかは、自分自身の好き勝手なの」
要するに、と母さんも拳を握る。
「馬鹿になっちまいなさい、杜夫。そこら中から楽しいこと、一杯いっぱい、見付け出して。他の誰がなんて言っても、つまんない顔してる暇もないって言い張っちまえ」
「さすが俺の母さん」
拳をぶつけて、笑い合う。
「俺の得意がわかってる」
「おうさ。だって、私だぜ?」
その笑い方は、どことなく真尋に似ていて。
俺たちは、多くのものを、この人から受け継いだんだと、それを知る。
「杜夫」
「ん?」
「愛してるよ。私のことが大好きならさ、私の為に死ぬんじゃなくて、」
「勿論。自分の為に、生きてくさ」
そうして、伝えるべきすべてが、今こそ俺に伝わった。
もう後ろは見ない。母さんを、どれだけ名残惜しくとも、振り返りはしない。
窓の桟に足をかける。そこにいる、地面で蠢く目標を睨む。
「じゃあ、最後に一発、冥途の土産に――私の分も一緒にまとめて、にっくきあいつにかましてちょうだい、我が息子よ」
「――――おうよッ!」
叫びながら、飛び降りる。
見据えているのは、ただ一点。
「今日が、俺の、死ぬにはいい日かどうかなんざッッッッ!」
生意気にも自分と同じ姿、今までずっと取り憑いていた、
「テメエが決めることじゃねえええぇええぇえぇッッッッ!」
【死の宿命】に、あらん限りの力と命を叩き付けた。
瞬間。
拳を受けたそいつの身体が弾け飛ぶ。
その勢いは留まらず、俺は地面を突き抜けて、その向こう、限りなく広がる、光の海へ落ちていき――
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