002→【ずぶ濡れ馬鹿と飛び下り少女】
●○◎○●
「――――だれ」
「ご覧の通りに」
清々しい晴天の日、頭から足までずぶ濡れの夏服、おまけに裸足な、
「馬鹿ですが。それと、ここの卒業生。気になるものが見えたんで、一丁寄らせていただきました」
「こないで」
一歩、踏み出しかけた足に、釘を刺された。
「きたら、落ちる」
「穏やかじゃあないねえ。こんなに空も青いのに」
「だからいやなの」
「へえ。なんだ君、変わってるな。お天道様が嫌いなの?」
「ううん。――ぽかぽかしてる日は、すき。眠たくなって、気持ちいいから」
「じゃあ、どうして」
「あいつら、海に、行くって言ってた。みんなで、行くって聞いた。今日、晴れたら――楽しくなるって、笑ってた。だから」
――今日が。
なにもかも全部台無しの、すごい雨ならよかったのに、と、少女は言った。
「……あー、」
成程、そういうことね。
事情は、うん、大体察した――が、まあ、そっちはいいや。
「君、名前は?」
「なんぱ?」
「ほんっと最近の子供ってくだらないことばっか知ってんのな?」
「あなたも、おとなに、見えないけど」
「痛いところまでつけるときた。こりゃあますます感心モンだ。けどもしかして、そういうトコかな。君がそいつらに、そんな気分にさせられてんのも」
ああ、やだやだ。ついつい探りを入れちまった。そんな顔なんてさせたくないのに。事情も大体知ってたくせに。口を結んで黙っても、それ自体が答えになる。
「そっか。察するに君も、頭が回るほうなんだろうな。つまり馬鹿だ」
「――――なにそれ。成績なら、塾でもクラスでも、あいつらにだって負けたりなんて、」
「数字の話はしてねえよ」
参った。どうやらそこから必要らしい。
「かっちりとした答えが出るヤツじゃあなくて、どこまでも曖昧で厄介な、国語の授業だ。生きかたの、うまいヘタの問題だ。そういう勘違いがいの一番に出るってことは、相当自信があったんだろうな、頭の出来……っつーか、出された課題を解く力には」
「――ねえ、おじさん」
「それ、案外効くやつだからやめてくんない?」
「おじさんは、わたしを、どうさせに来たの?」
皮肉の色。諦念の色。相手に対して、一切の期待を捨てた色。
それが見えて、だから俺は、胸中ひそかに口笛を吹く。
今、ようやく――俺の言葉を、捻じ込む隙間が、目に見えた。
「そうだな。あらかじめ断っとくよ。……悪いがおじさんは、君の自殺を止めにきたりしちゃあいないし。君が憎んでいる奴への怒りなんてものも、残念だけど別に無い」
「――なら、黙ってそこで、」
「君にいっこ、尋ねに来たのさ」
ふと見せた困惑。
その色をこそ、待っていた。
「君は、今日が君の死ぬ日でいいのか?」
質問の意図を少女は、まったく理解できないという顔をした。
だから喋る。舌が回る。
いいですとも。
全力で、全開に、教えてやろうじゃあないか。
冥土の土産を、聞きなさい。
「さっき、校庭から見たよ。屋上の縁に立っている君をさ。そんで、ここに来て、確認したよ。その、胸焼けしそうにしみったれたツラをな。だから、申し訳ない。実を言うとさっきから、笑いを堪えるのが難しくてたまらない」
「――――は?」
今度は怒り。明確な不愉快――感情の揺らぎ。小さな火種が、温度を上げる。
「ひどい悪趣味だね、おじさん」
「よく言われる。度を越えた馬鹿ってのも一緒にな。で、何がそんなに失笑モンかっていうと」
それは、とてもあたりまえで。
単純な、疑問点。
「いや。本当にやる気なら、なんで君、とっくに落ちてないのかな?」
「え、」
「だってそうだろう。君が本当に乗り気なら、そこには躊躇も葛藤も選択の余地も何も無い。柵を越えて縁に立ち、これ見よがしにそんな姿を見せつける意味が無い。それこそ、棒高跳びでもかますみたいに――助走をつけて、踏み切って、勢いのまま飛び越えて、だ」
その意思が純粋ならば、そもそも俺が見ていない。この場に居合わせることもない。騒ぎになって人が集まって、それに乗じてとっくのとうにプールからずらかっている。
「君。もう一度聞くぞ」
今日が、君の、死んでいい日か?
「死にたいなら死ぬといい。俺は一切止めないよ。ただ、この質問に頷くのなら、その顔は違う。求めるものが手に入り、やりたいことがやれるなら喜ぶべきだ。笑いながら、楽しみながら、気持ちよくなりながら、ほっとしながら――満足しながら、死ぬべきだ」
一歩。再び、踏み出す。……今度はもう、制止の声も、硬い拒絶も、飛んでこない。
それよりも、今の彼女は、歯の根を鳴らし、隠していた自分の意志と、戦うことで忙しい。
「俺は君を知らない。君の事情も人生も、君の
『最低の気分で死ぬな』。
『最高の笑顔で死のう』
『たとえば今日が、憂鬱な晴でも、爽快な雨でも』。
『もう何をしても無意味だと思えるようなどん詰まりでも、もう何もしたくないと諦め果てた末路でも』。
「“死”と“死に方”の選択は、誰の手も、神様の思惑だって届かない、君だけのものだ。人生でたった一回しか使えない、誰にも奪われない、本人にのみ許される特権だ。だから、それを、一番納得のいく、『もってこい』の形で迎えられるかどうかもまた――君にしか、決められない」
「わたし」
俯いていた顔が上がれば――そこには、雨が降っている。
「うれしくない。つらくて、あきらめて、逃げ出すだけの死にかたなんて、満足なんか、できっこない」
ぽたぽた、ぽたぽた、ぽたぽたと。
「わたしが死んでも、あいつらは何も変わらない。どうせまたすぐ、“次”を見つける」
涙の滴が、顎から零れて、落ちている。
「そんなの、だめだ」
その滴が、蒸発しそうなほどの、熱。
「ぜったい、いやだ」
息を吹き返した、感情の噴出。
「――――どうせ、死ぬならッ! わたしのいのちを使うならッ! もっとわたしがどうなったって、あいつらを、ぼっこぼこにして、泣かせて、泣かせて、謝らせるまで、もう二度と誰もいじめたりなんてしませんって、誓わせるまでたたかってやるッ!」
「もう一声ッ!」
「むかつくやつにやり返すまでっ! わたしがどれだけつらかったのか、全員、全部、思い知らせてやれるまでっ! 死んでなんか、やるもんかぁぁぁぁぁああああぁッッッッ!」
名前も知らない少女が、惚れこみそうなほど高らかと、宣言したのと。
屋上での騒ぎを聞きつけ、今更ながらに教師陣が、泡を食ってやってきたのと。
山の上の小学校の、その屋上に、強い風が吹いたのは、全てがほとんど、同時だった。
「――――――――ぁ、」
呆然とした顔、元より軽い少女が押される、揺らぎ、崩れ、焦りに縺れ、後ろへ、虚空へ、
「よく言った」
意識出来ていなかったろう。
話をしながら、少しずつ。じりじりと、目の前のおじさんが動いていたのを。
話をしながら。注意を逸らして。
あと数歩、踏み込めば届く距離にまで、俺は既に近寄っていた。
そのおかげで、すんでのところで、間に合った。
「今日はまだ、おまえにとって――全然、『もってこいの日』なんかじゃあねえよな」
決断と、初動は、心構えにより早く。
普通なら、まあ間違いなく確実に、尻込みしてしまうことを、どうにかこうにか実行できた。
簡単に言うならば、有言実行というやつだ。
助走をつけて――棒高跳びよろしく、背面跳びで乗り越えて。
そのまま、もう、柵の向こう側から手を伸ばすだけでは絶対に届かない、少女を、
その身体、その背中を、一瞬早く。
屋上から飛び降りて追い越しながら、オーバーヘッドに蹴り上げた。
「俺のほうとは違ってさ」
少女が、衝撃で屋上で戻されるのを、俺は確かに、目撃する。
けれど、そこから先は、途中までだ。
自分に何が起こったのか理解した少女が、こちらを向いて、身を屈め、そして、その表情と、叫んだ言葉を、相楽杜夫が知る前に、俺は到底助かりようも無く、頭から、夏の陽に焼けたアスファルトへと――
――夏休みが、終わる。人生が終わる。
最期に見たのは、青い、青い、空の色。
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