第57話II部 11


蓮のわたしを呼ぶ声がする。悲痛な声だ。

蓮のは北海道に出張で行っている。明日の朝の飛行機で帰ると言ってたから、ここにいるはずないのに。

わたしは足の痛みで目を開けたくなかった。それでも目を開けたのは蓮の声が悲しげで、安心させたかったからだ。重たい瞼を持ち上げて、目を開けたけどピントがぼやけている。涙のせいだ。痛みで涙が溢れていた。涙が流れるとピントがあって蓮の顔がはっきり見えた。確かに蓮だ。でもこれは現在のわたしの蓮ではない。高校生の時の蓮だ。蓮はわたしと目が合うとホッとしたように笑って抱きしめてくれた。痛いからやめて欲しかったけど、声は出ない。蓮の心臓の音が聞こえる。すごく早い気がする。


「菜摘が無事で良かった。ひとりで大丈夫か? ユカが車から出られなくなってるから、助けに行かないといけない。俺がいなくなっても平気か?」


わたしは「行かないで」と言いたかった。でも言えるはずがない。ユカは今も車に閉じ込められているのだ。わたしは声が出ないので頷いた。


「危ないから立ち上がったら歩道の方に行った方が良い。後でメールするから」


蓮はもう一度わたしを抱きしめるとユカを助けに行った。

わたしにはこの時の記憶がなかった。何度か蓮やユカが先にわたしの方を助けに来たと聞かされたけど、記憶がなかったので心の底では信じていなかったようだ。再現フィルムのように思い出して、初めて蓮を信じることができた。蓮は確かにわたしを忘れていなかった。

わたしは最初に助けに来て欲しかったわけではない。いつも初めはユカだったから、それについては諦めていた。でもあの事故の時はわたしの存在を忘れて救急車に乗って行く二人の事しか思い出せなかったから、悲しかった。ユカの後でいいから助けに来て欲しかったと悲しんだのだ。でもそれは大きな間違いだった。蓮は確かにわたしのことも助けに来てくれていた。

遠くで救急車の音が鳴っている。もう怖くはない。蓮が助けに来てくれたから…。



目が覚めた時わたしはひとりだった。今までのことは全部夢で、高校生の自分に戻ったのかと思ったけど違った。足も手も動く。頭が痛いだけ。


「目が覚めたのね。良かったわ」


ユカは同じ部屋にいたようだ。わたしのそばに来ると笑った。ユカの隣には高木さんもいる。


「ユカは大丈夫?」


「ええ、タクシーの運転手のおかげよ。上手に避けてくれたみたい。本人は骨折したそうだけど命に別状はないそうよ。なっちゃんが目を覚まさないからどうしようかと思ったわ。CTでは異常がないって聞いたけど心配で…」


ユカは息が詰まったのか泣き出してしまった。高木さんが優しく肩を撫でている。どうやら仲直りできたようだ。この事故のおかげでわたしは昔の記憶を取り戻し、ユカは高木さんと仲直りできた。怪我をした運転手の人は気の毒だけど、良かったのかもしれない。


「蓮は知ってるの?」


「ええ、連絡したわ。肝心な時にそばにいれないこと謝ってたわ」


「仕方ないわよ。北海道なんだもの」


わたしは家に帰りたかったけど、1日は様子を見た方が良いと言われて入院することになった。ユカは付き添うと言ってくれたけど、仲直りしたばかりの二人の邪魔をする気はない。ユカが残れば高木さんも一緒に残りそうだし、目の前でいちゃいちゃされてもねぇ。

何度か蓮に電話したけど繋がらない。接待で忙しいのだろう。明後日の結婚式の後は新婚旅行が待っている。明日には会えるのだから我慢しないと。

事故の後ということもあって精神安定剤を飲んで眠っていたけど、廊下の騒がしさで目が覚めた。時計を見ると夜中の1時だ。何かあったのだろうか。

しばらくして扉が開いて蓮が入って来た。


「蓮? どうしたの? 帰って来るのは昼でしょ?」


「最終の飛行機で帰って来た。仕事も終わらせてるから大丈夫だ。本当は仕事なんか放って帰って来たかってんだけど、どこもなんともないからって父さんが言うから片付けてから飛行機に乗ったんだ。でもやっぱり放ってくれば良かった。入院してるなんて聞いてないよ」


この病院は朝比奈系列の病院だから蓮の父親にも連絡があったようだ。蓮は包帯が巻かれている頭が気になるようで見つめている。


「入院って言っても何かあった時のためにって話だから大丈夫よ。この包帯も大げさなのよ。明日には外してくれるわ。それにしてもこんな夜中によく入れてくれたわね」


「婚約者が入院してるって言うのに中々入れてくれないんだから嫌になるよ」


廊下が騒がしかったのは蓮のせいだった。看護師さん、警備員さん、患者の皆さんごめんなさい。蓮を叱りたいけど、自分を心配してたからだってわかるから強くは言えない。それに今はもっと言わなければならないことがある。


「高校生の時の交通事故のことなんだけど…」


「え? 」


「今日の事故のおかげで記憶が蘇ったの」

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