ここにいて 4

 魔気が浄化されていく。

 うごめいていた闇は祓い清められてあるべきところへ還り、地を這っていたよどみは風によって塵と消える。アトリーナの祈りによるものだ。

 ネビンは心から感嘆する。

 アトリーナは聖務官としても歌い手としても稀有な才能の持ち主だ。彼女が歌えばどんな場所も国立劇場に変わる。遺棄されて呪われてすら感じられる塔は、いまや彼女だけの大劇場だ。

 それに比べて自分は、と杖を握り締める。儀式の始まりにエルセリスは雄大な剣舞を舞った。アトリーナは神をも呼び寄せそうな絢爛な歌を響かせている。自分もそれに続かなければならないというのに、全身を走るざわざわとした焦りのせいで叫んで逃げ出したくなっていた。

 僕にはできない。僕には才能がない。その高みには行けない。

「ネビンは」

 天幕で休むはずが外に出たまま、アトリーナを見守っていたエルセリスが正面を向いたまま尋ねた。

「ネビンは舞っているとき、楽しい?」

「た――楽しいわけ、ないじゃないですか」

 声は震えた。いまにも緊張で吐きそうになっているというのに何を言うのだろう。けれどエルセリスのことだから自分は楽しいんだと言って笑うつもりだろう、ますます惨めな気持ちにさせられる。そう思ったのに。

「そうだよね。苦しいよね」

 そう言って泣きそうに目を細めたのだ。

「……え?」

 ぽかんとした声がやけに響いたせいか、彼女は向き直った。

「上手く舞いたい。誰よりも上手く。そう思うから苦しいんだよね。私たちは聖務官の仲間だけれど、それぞれいちばんになることを望んでいる好敵手でもあるんだから。少なくとも私はずっと思ってるんだ。――ネビンに勝ちたい。アトリーナに勝ちたい。聖務官のいちばんになって祈りたいって」

 麗しいと讃えられる水色の瞳が輝いている。

 聖務官の仕事として回ってくる首都封印塔での儀式の担当になる度に、ネビンは緊張やそれに伴う身体の痛みでいつも逃げ出したいと考えてしまう。いざ儀式が始まると集中するおかげでなんとか無事に終わらせることができるけれど、エルセリスやアトリーナはしょっちゅう見学に来ていて、粗を見つけられたらかなわないからやめてほしいと思ったことも一度や二度ではない。

 けれどネビンはふたりの、特にエルセリスの剣舞は時間があれば必ず見るようにしていた。彼女の舞には自分にないものがたくさんあった。華やかさや美しさ、目にした者に神聖さを感じさせる透明さと輝き。身軽さや鋭さ。

 それを自分のものにできないかと考えて彼女の剣舞を見るけれど、実力の差を感じて悔しさを味わうばかりだった。僕は彼女にはなれないと、悲しくて自分に腹が立った。

 だって僕はいちばんになりたい。

 商人である両親の後継として生まれながらも、ネビンは目立った能力を発揮できなかった子どもだった。気弱な性格を心配した周りが身体を鍛えることを勧めたので、護身術やいろいろな身を守る術を身につけたけれど、生来の心の弱さは変わらなかった。

 そんなときに右手に痣が現れた。聖務官になる者としての証だった。

 候補生時代を経て無事に聖務官に就任できたときは嬉しかった。その頃の同僚はいまは退任した前任者一名だけだったから、即戦力になると喜ばれて、身体を鍛えてきてよかったと初めて思った。

 しかし数年も経たないうちにエルセリスとアトリーナがやってきた。

 彼女たちの儀式を見て、ネビンは自分がいちばんになれないことを悟ってしまった。

 才能がないという絶望を隠すためには淡々と日々のことをこなすしかなかった。子どもの頃から父が毎日すべきことをしていれば見てくれる人はいると言い聞かせていたから、何も感じないふりをしながらかすかに漂ってくる陰口に耳を塞いで、自分を保つように黙々と鍛錬を続けていた。

 でも先日そんなみじめな姿をエルセリスとオルヴェインが「かっこいい」と評した。長官であるオルヴェインは『そのまま自分らしく積み重ねていくといい』とも。あんなに何もかもに恵まれた人にそう言われて嬉しかったけれど、現実は変わらない。

「……エルセリスさんは、もういちばんじゃないですか」

「そうかもしれないけれど、ずっといちばんでいられるわけじゃない」

 ネビンの小さな声にきっぱりとエルセリスは答えた。

「少なくとも私は一度失敗した。だからネビンとアトリーナに抜かれるんじゃないかと思うと、すごく怖い」

 優美と言われてきたはずのエルセリスの笑みは歪んで、獰猛と表現するべきものに変わっていた。いまにも噛みついてきそうなほどぎらぎらした顔に、彼女はこんな顔もできたのかとネビンはたじろいだ。

「好敵手なんだよ、ふたりは」

 好敵手。

 その言葉が内側で大きく反響し始める。

「僕なんかで、いいんですか」

 ぽろりと零れたそれは熱くて震えていた。

「エルセリスさんの好敵手で、いいんですか?」

「ネビンは迷惑かもしれないけど、好敵手を選ぶのは私の自由だからね」

 冷たい言い方に聞こえるけれど、エルセリスの言葉はネビンの胸を激しく叩く。

「負けないよ、絶対に。私はこの儀式に賭けているものがある。ふたりに追い抜かれるわけにはいかないんだ」

 歌が終わり、聖堂の入り口を通ってアトリーナが戻ってきた。疲労しているが全身を弾ませるように目や頬がつやつやと輝き、まだ興奮しているようだ。

「聴いた?」

「聴いたよ。やっぱりアトリーナはすごい」

 軽々しいほど明るい返答に、さきほど言ったいちばんになりたいという貪欲な響きはまったくない。自分を励ます嘘だったのかとネビンが疑ったとき、アトリーナがふんと鼻を鳴らした。

「余裕ぶらないで。今日は譲ってもらえるからといって下手な舞をするなら、私がとりを飾らせてもらいますからね」

 誇り高く歌うように、本当はわたしがいちばんだと宣言するようなアトリーナ。

「僕たちって……好敵手、なんですね」

 呆然と言うと、ふたりから苦笑と呆れが返ってきた。

「私たち、分野は違うけれど祈りを奉じる者として神の寵愛を競っているようなものでしょう。好敵手でなくてなんだというの?」

「仲間ではあるけど、同じものを目指すならやっぱり好敵手だよ」

 ネビンは地味な存在だ。表立って褒められることも、光が当てられて主役になることもほとんどないだろう。

 でも、いちばんになりたい。

 できなくとも才能がなくても、苦しくても逃げ出したくても。『悔しい』と感じるかぎり本当に諦めてはいないということだから。

 泣きそうになりがならネビンは言った。

「僕の杖舞、見ていてくれますか?」

 ふたりの答えは「もちろん」だった。

 彼女たちを追い抜く夢を見て、ネビンは舞台に向かう。

 生きとし生けるものが夢を見て、挫折し、それでも願いを叶えようとする舞を舞う、ひたむきに目指すこの思いだけは誰よりもいちばんに近いはずだと信じて。



 儀式の中盤にして最も大きな山場は、聖務官三名による祈祷だ。

 アトリーナが歌い、ネビンが舞い、エルセリスが踊る。聖具の異なる三人の祈りは、複雑でありながら見る者に息を吐かせることのない、ひとつの芝居のようだった。

 典礼官たちはそれを稀代の儀式だったと後に語るけれど、他に見る者のいないそれはまさしく守護のための、神に捧げられるものにふさわしいものだったとも言われた。

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