ここにいて 3
アトリーナは最初の出番を控えながら、誇らしげに舞台を降りるエルセリスと微笑みを交わした。
(もう大丈夫みたいね)
しっかりしているように見えて案外脆い、柔らかな部分を残したままの親友は、またひとつ小さな羽を大きくしたようだった。
彼女と初めて会ったときのことは、いまでも記憶に新しい。
けれど聖務官候補として顔を合わせる以前から、アトリーナはエルセリスのことを知っていた。
ガーディラン伯爵家の小鬼令嬢――それが彼女のあだ名だった。
鬼子と言われたオルヴェイン王子の取り巻きのひとり、女子のくせに手のつけられない暴れ者として有名で、大人たちに聖務官となる将来を案じられていた。
同じように痣を持ったアトリーナは両親に激しく心配された。年齢の近いふたりが同期になるのは明白で、娘が傷付けられはしないかと心底恐れていた。
アトリーナは伯爵家の威光の象徴だった。最高の乳母。最高の教師。最高の食事と衣服。いずれ美しい娘になると確信した両親は、アトリーナを国いちばんの美女にすべく心を砕いた。人々にその愛らしさを話して聞かせ、ときには連れまわして顔を売らせて、『アトリーナは美しい』という評判を撒き散らした。
けれどアトリーナは我に返った。両親に加担して演技している自分が滑稽に感じられて。
――ああ、私はなんてつまらない人間なのだろう。
俗世の見栄や体裁や権力争いの只中で、漫然と父母の言いなりになっている。これから聖務官になることが決まっているけれど、適当に数年勤めた後は身分の高い貴族と結婚する、未来までの道が決まってしまっている。
新鮮味も驚きもないつまらない人生を生きる私はいちばんつまらない。
歌にのめり込んだのは、その美しさが定まった型に収まらないものだったからかもしれない。
人の数だけ歌がある。音楽は星の数ほど。それを美しいとされるものに仕上げるのが歌うという仕事だ。美しさの評価が人によってばらばらなのも、アトリーナに歌うことの生きがいを感じさせた。
だから喉にしるしが浮かんだことで祈りを紡ぐ聖なる具物が自身の声だと知ったとき、運命の神とやらは本当にいるのかもしれない、と少しだけ思った。
聖務官候補として高名な歌手を師にして学び、やがてアトリーナが十三歳、エルセリスが十二歳のときに初めて顔を合わせた。
綺麗な子だ、というのが第一印象だった。
透き通った金の髪に水色の瞳。冬の氷のような色彩なのにまとう雰囲気が春陽のように感じられるのは、きらきらと輝く瞳と豊かな表情のせいだった。
ときに人は、一目でその相手が自分と異なる性質の人間だと見抜くことができる。表情や雰囲気、言葉の調子、一緒にいるときの自分の感覚。そうしたものからアトリーナは、彼女の屈託のなさや純粋さを愛する人たちが大勢いることを知った。
『会えて嬉しい。友達になってください、アトリーナ』
彼女は策を弄さずとも慕われる人。
私とは違う。
『ええ、よくってよ。エルセリス』
暗く澱む思いを抱えながらそう答えたアトリーナもまた、彼女を好きにならずにはいられなかった。
真面目なところ。誰にでもいい顔をしたがるところ。調子がいいくせに不器用なところ。考えすぎて自分よりも他人を大事にしてしまうところ。実は口が悪いところ。
傷付いたという過去を告白してくれたときは、自分が特別になれたようで嬉しかった。
でも、友人とはなんだろう、とアトリーナは思った。
エルセリスにとって私は周りより近しいというだけの存在だろう。その気になればあなたは私よりももっとずっと親しくなれる友人を作ることができる。
私でなくてもいい。
なのにどうしてあなたはそばにいてくれるのだろう。
(けれど大事なことは教えてくれない。あなたは私に黙って耐える。私のいないところで苦しんで泣く。あなたにとって私は本当に友人なの?)
聖言は六章に入る。他の章よりも短い部分なので集中していなければ出番を逃してしまうかもしれないというのに、アトリーナは踵を返して休息するために天幕に向かう彼女を追っていた。
「エルセリス!」
驚いた様子で振り返った彼女は、しかし表情を引き締めると笑顔で答えた。
「なに、アトリーナ?」
「どうして……」
何故いまこんなことを言おうとしているのだろう。
かつてエルセリスに言ったように、アトリーナは自問自答を繰り返して自分の心の在り処を確かめた。そうしてわかった。
(不安になっているんだわ。エルセリスが遠くに行ってしまう気がして)
みんなに平等に親愛を注いで特別な相手を作らなかったエルセリスは、ついにたったひとりを選ぼうとしている。
わかっていないのは本人たちだけだろう。誰が見てもオルヴェインは彼女を大事にしたがっているし、エルセリスは彼を気にして冷静さを欠いている。お互いに自覚しているはずなのにもう一歩を踏み切れないまま中途半端な状態をさらしているものだから、みんなやきもきしていた。アトリーナもいちゃつくなら堂々といちゃつけとはっきり言ってやりたい。
でもそのときは、エルセリスにとっていちばん近しいのが自分でなくなるときだった。
「どうして、私に友達になろうと言ったの?」
エルセリスは目を瞬かせ、すぐに思い出したのか照れくさそうに苦笑した。
「だって、一目見て好きだなって思っちゃったから」
感情も理屈も飛び越えて。
会った瞬間に友人なりたいと思ってくれたそれを、祝福と呼ぶ。
「……私でよかったの?」
「アトリーナがよかったんだ。私にないものを持ってるアトリーナが。どうしてそんなことを聞くの?」
アトリーナは束の間唇を噛み締めた。
「……慰めるどころかきついことばかり言って、相談しがいがない私でも?」
「ちょっと何言ってるかわからないけど……相談しがいがないなんて思ったことないよ。でももし話してくれないと感じていたなら、ごめん」
少し考えるようにしてから、エルセリスは言った。
「私はアトリーナに釣り合うようになりたいんだ。アトリーナはいつもさばさばしていて、決断が早いし、これと決めたらやり通せる。私は違う。迷ってばかりで……だから相談を持ちかけるのが申し訳なくて。自分で解決して、アトリーナにいいところを見せたいと思っていたんだと思う」
だから、とエルセリスは手を差し出した。
「そばにいてくれてありがとう。この場に一緒にいられて、すごく嬉しい」
その真っ直ぐさが眩しくて。でも辛くて。いびつな自分を思い知らされるようで。
けれど嬉しくて幸せだ。自分の存在を喜んでくれる人がここにいるのだと、心が感じている。
(私はつまらない人間だけれど、エルセリスに私を選んだことを後悔させたくない)
その手を握った。と思ったら引き寄せられて抱きしめられた。
「エルセリスっ」
「アトリーナの勇気をちょうだい。あなたはできるって、言って」
エルセリスはこの儀式の最後を飾る大役を帯びている。だがそれだけでないらしいことがかすかに震える声から感じられた。
「――あなたにはできるわ。エルセリス。だってひとりではないもの」
アトリーナは傲然と顔を上げ、胸を張って晴れ晴れと笑った。
「あなたの祈りのための舞台を、私の歌で作ってあげる」
そして歌うべきときがきた。
アトリーナは衣装の長い裾をさばいて舞台の中央に立つ。このときのために誂えた衣装は白に灰色の布を重ねて、花嫁というよりは高位の修道女といった印象のドレスにしてあった。
見えない神に一礼する。
そうして音を紡いだ。高い場所に漂っている光を呼び寄せる歌だ。この世界を照らしてあたためるそれは、人の心に灯す炎に変わる。
(あなたに誇れるものでありたい。あなたに胸を張れる私でいたい)
その思いを歌に込める――。
放たれる声は、最初、星屑よりも小さな光だった。しかしあるときそれは一本の細い糸を紡ぐように連なり、確かな光に変わった。輝く道筋が生まれ、天と地を結ぶ。そうして空気を構成する見えない力が波となって広がっていく。
(届く――)
遠くに行こうとしていた
私はひとりではない。
それを感じたとき、アトリーナは初めて幸せだと思った。
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