再会は望まないで 2

 執務室の扉を開く。

 室内には向かい合わせに置かれた四つの机がある。聖務官にひとつずつ割り当てられたそれは現在三つ使用され、ひとつは物置になっている。机の奥にある部屋の扉は開いていないから、聖務官長官のエドリックはまだ来ていないようだった。

「……あ、おはようございます……」

 右側手前の自分の机に行くと、向かいからむくりと頭を起こしたネビンが寝起きの声で言った。眼鏡を探してさまよった手が書籍の山を崩し、それが立てかけてあった杖まで倒して、どたどたがたーんとすごい音が響き渡る。

「だ、大丈夫、ネビン?」

 慌てて駆け寄ると彼は肘をぶつけたようで痛みに震えていた。

 ネビンは年上の二十二歳。エルセリスとアトリーナの先輩に当たる《杖》の聖務官で、儀式では杖舞じょうまいを奉じる。茶色の癖毛と青い瞳、眼鏡をかけた姿で同年代に見えてしまう童顔だ。高い身長も舞をするために鍛えた身体も、気弱な言動のせいで霞んでしまう。

「だ、大丈夫です……そ、それよりも杖は」

 それをさっと拾い上げたのはアトリーナだ。

「あら、こんなところに傷が」

「えええええっ!? どこにっ!!?」

「……と思ったけど見間違いだったみたい」

 がくーっとネビンは肩を落とした。エルセリスは散らばったものを机に戻し、眼鏡を渡すと、彼はようやく周囲の状況が見えたらしく青い目をぱちぱちとさせながらアトリーナから杖を受け取った。

「アトリーナさん、驚かせないでくださいよ……聖具の杖に傷をつけたなんて知られたら長官になんて言われるか。ただでさえ予算が降りないのに」

 聖具と呼ばれる祈りを行使するための道具は、聖務官が使用し続けることで力を宿した特別な道具に変わる。しかし強度は普通のものと変わらず、壊れれば新調する必要があるので予備は必須だが、まずは傷付けない、壊さないことが前提だった。

「聖具を片付けないまま机で居眠りしているのが悪いのよ」

「まあまあアトリーナ。ネビンは出張から帰ってきたところなんだから。でも帰ってくるなり執務室で仮眠するくらい大変だったの、その出張?」

 大都市に籍を置いている聖務官には、まだ安定しきっていない地方都市の封印塔で儀式を行う地方巡回と呼ばれる業務が存在する。これを俗に出張と呼んでいる。

 だがエルセリスの記憶では、今回ネビンに課せられたのは首都からほど近い都市での儀式で、三日間の出張だったはずだ。それがどうしてこんなに疲労困憊しているのか。

「それが……普通に行って帰ってくるはずが、ローダー長官から指令を受けて、遺棄された塔の調査を行うことが最終日の朝方に急に決まったんです。それで帰宅が今朝になりまして……」

 あくびをかみ殺しながらの返答にエルセリスとアトリーナは顔を見合わせた。

 封印塔国で街を作るためには塔を活性化し、封印塔を作ってその地域をその力の影響下に置かなければならない。でなければ魔物に襲われるからだ。しかしその儀式には聖務官による儀式が必要なのだが、聖務官そのものの数は多くなく、首都などの大都市に配置するのが限界だった。そのため新しい街を作って国内を発展させようにも、まず遺棄された塔の再活性化を行って周辺から魔物の脅威を取り除くことから始めなければならないという厳しい状況だ。

 その遺棄された塔の調査が始まったということは、再活性化を行う予定があるのか。

 エルセリスの背中をぞくぞくと興奮が駆け抜ける。

 国内の遺棄された塔を活性化させることはこの大陸の為政者たちの命題でもある。魔物だけでなく妖しの術を使う者たちから国民を守るためにも、封印塔は不可欠だった。

 だからもし再活性化が行われるとすれば典礼官にとって一大事業となる。封印塔設置に携わった聖務官は、国の守護者のひとりとしていつまでも人々の間で語られ続けるだろう。

(聖務官として名を残せるかもしれない!)

「ネビン、あなた詳しいことは聞いていないの?」

 アトリーナも興味津々といった様子で尋ねるが、ネビンはふうっと大きなため息をついた。

「人を驚かせて振り回すのが大好きなあのローダー長官が教えてくれるわけないじゃないですか……」

「ああ……」

 思わず納得の声を上げてしまったが、でも、とネビンは付け足した。

「ちょっと変だなと思ったことがあって。その遺棄された塔に祀られていた神がなんなのか調べろと言われたんです」

 この世に存在するあらゆるものに宿るという神々だけあってその数は膨大だ。エルセリスたちにとって最も身近な首都の封印塔に祀られているのは光と炎の神アルヴァルだ。首都だけあってその存在を伝えるものは数多く残っているからその名がわかっているのだが、遺棄された塔の周辺では口伝えする人々が暮らしていないため、情報を集めるにはかなり苦労するはずだ。

「何を探しているのかしら?」

「遺棄された塔には神の力が残っていて強い祈りに応えるっていうけれど……その力を使って何か願うことでもあるのかな」

「そうだとしても存在するかどうかもわからない神の力ですからねえ……」

 エルセリスたちはまだ任期が短く経験が浅い若い聖務官だ。そんな自分たちが神の力を扱うことができるかと問われれば、未知数だとしか答えられない。

「なってみたいよね。神の力を目覚めさせられる聖務官に」

 獰猛なくらい野心に満ちたエルセリスの呟きを聞いたふたりは呆れを浮かべた。

「あなたが言うと絶対そうなると宣言しているように聞こえて、不遜だわ」

「さすがエルセリスさんです……」

「だって聖務官になったからにはいちばん上に行きたいじゃないか。自分の祈りがどこまで高いところに届くのか知りたいよ、私は」

 祈りを奉じる者には区別がない。音楽や舞踊などの芸術、時には戦いですら祈りになり、あらゆる人々がそれを行う者と言えた。

 聖務官としてエルセリスはその上を行きたい。幼い頃から右手に痣を持って剣舞を舞ってきた者として、誰よりも美しい舞を踊りたいのだ。

「私にはこれしかないんだ。アトリーナみたいにうまく人付き合いできていろんなものを見聞きできるわけでも、ネビンみたいに商人になれるような将来別の仕事に就ける才能もない。だったら行けるところまで行きたい、それだけだ」

 その思いをどれだけ重く感じているかは、エルセリスしか知らない。

 もしかしたら察しているかもしれないアトリーナは強引に話題を戻した。

「エルセリスの傲慢な願いは置いておいて、塔のことだけれど。現実では対応しきれないことを非現実で解決するのは、間違っていないように思えるわ」

 エルセリスは首を傾げた。

「現実で対応しきれないって、たとえば?」

「そうねえ。不治の病とかかしらね」

 なるほどそれは神の力に頼るしかないのかもしれない

 そう思ったところでばたーんと激しい音を立てて扉が開いた。

「おはようさん! なんだお前ら。どうしてそんなところに座り込んでるんだ?」

 エルセリスとネビンは慌てて立ち上がり、アトリーナに習って額の当てた右手のひらを見せる敬礼の姿勢をとった。

「おはようございます、ローダー長官」

 典礼官でいちばん大声を出す金髪碧眼の屈強な大男、それが聖務官長官エドリックだった。彼自身は聖務官ではなくそれを守る典礼騎士で、前任者が退職したために空席になった典礼官長官代理も兼任している。若輩者のエルセリスたちに代わって王国首脳陣と渡り合うのがエドリックの仕事だった。

「よしよし、お前らはかわいいなあ。楽にしていいぞー」

 なんてまるで好々爺みたいなことを言うじじむさいところや、よく人を煽るところを除けば、おおむねいい人だ。

「ちょうど全員揃ってるな。というかネビン、お前出勤してたのか? 今朝俺のところに報告に来てそのままだろう? ご苦労さんだなあ。調子悪いとか理由をつけて半休くらい取ればいいものを」

「……今日は大事な用があるから顔出せって言ったの、長官じゃないですか……」

「そうだったか? まあ若いから一日くらい大丈夫か!」

 あなたの体力と一緒にしないでください、というネビンの静かな突っ込みが聞こえた気がしたが、エドリックに口で勝てるとは思わない方がいいと三人とも身に沁みていた。

「恐れながら長官。大事な用件とは何でしょうか?」

 エリセリスが尋ねると、エドリックは笑った。それは「にやぁり」という形容しがたい奇妙な笑みだった。

(何……?)

「もうすぐ来るから、ちょっと待ってろ」

「――失礼。ここが聖務官執務室で間違いないだろうか」

 そうして開いた扉から聞こえる、低くかすれる男の声。

「おお、いらっしゃいましたか。ここまで迷いませんでしたか?」

 弾んだエドリックの声が迎えたのは、背の高い黒髪の男だった。

 切れ長の瞳と通った鼻筋、薄い唇は品良く配置され、かなりの美男子だと十人が十人とも言うだろう。高身長に恵まれてぴんと張った背筋、たくましさにはエドリックにやや劣るものの、その十人が群がるに違いない高官の制服を着ていた。指揮官位にあることを示す黒と銀の装飾が施されているそれは、二十代半ばという年齢にはそぐわない立派なものだ。

 彼は目を細めて答える。

「ああ、おかげさまで。さきほど典礼騎士や奏官にしてきたところだ」

「それはよろしゅうございました」

 するとアトリーナがエルセリスの袖を引いた。

「なかなかの美丈夫ね。見覚えがない顔だけれど……、エルセリス?」

 男の藍色の瞳がエルセリスに向けられた。

 彼は大きく目を見張っていくと同時に、エルセリスは絶望でこわばった顔が青ざめていくのを感じていた。

 なんで――どうして――。

「エルセリス。エルセリス・ガーディラン?」

 最後のその声を聞いたとき、彼は声変わりの途中だった。それがこんなにも豊かな響きを持つ低い声に変わるのか。

『お前を好きになるやつなんていない』

 過去の声が呼ぶめまいに襲われながら、エルセリスは自らを律して礼儀正しく頭を下げた。

「ご無沙汰しております――オルヴェイン殿下」

 オルヴェイン。あの頃はただ呼び捨てにしていたけれど、彼の正式な名前はオルヴェイン・アルヴ・マリスティリア。この国の第二王子だった。

 青ざめた顔を隠すエルセリスに降ってきたのは、少し苦くて小さなため息だった。

「殿下なんて堅苦しい……と言いたいところだが、それだけ時間が経ったということだな。久しぶりだな、エルセリス。最初誰かわからなかった」

 山猿のくせに? 不相応に着飾りやがって? 続く言葉を想像して身を硬くするエルセリスに、彼は。

「驚いた。……綺麗になったな」

 笑うように目を細めて、優しく。撫でるような口調で。

 そう言った。

(は――――?)

「元気にしていたか? 昔はあんなに親しくしていたのに、留学先から手紙も書かずに悪かった。近況報告くらいすべきだったな」

 元気にしていたか、だって?

 彼の口から出たとは思えず、ぽかんと口を開ける。

 思わず顔を上げてしまったエルセリスの反応に気付いていないのか、照れ臭そうに笑いながらオルヴェインは話を続けている。

「学術都市は面白いところだったぞ。お前が好きそうなものがたくさんあった。妙な仕掛けの本や、からくり時計、秘密の通路、地下水路……昔に戻れるなら一緒に探検したいくらいだ」

(い、一緒に?)

 そういう殊勝なことを言う男じゃなかった。『黙ってついてこい、そうでなければここで死ね』くらい言って当たり前だった。

「お前はちゃんと聖務官になったんだな。一緒に遊んでいた頃はすでにしるしがあったから、どうなったか気になってたんだ。頑張ったな」

 ぞぞぞぞぞぞ、と悪寒が走った。

(ど、ど……!)

 どちらさまですかー!? この人、いったい誰ですかー!!?

 奇跡的にその叫びを飲み込んだエルセリスを押しのけるようにして、アトリーナが礼儀正しく膝をかがめた。

「ごきげんよう、アトリーナ・フェルトリンゲンでございます。失礼ながらオルヴェイン殿下は何故首都に? 学術都市に留学されていると聞いていたのですが……」

 庇われたエルセリスははっとした。そうだ、オルヴェインがここにいるのはおかしい。

 彼は礼儀を失さず胸に手を当てて軽く会釈し、問いに答えた。

「先日留学先から戻ってきた。これからは第二王子としての責務を果たすつもりだ」

 続いてエドリックが言った。

「国王陛下からのご命令で、長く空席だった典礼官長官にオルヴェイン殿下が就任されることが決定された。これで俺の代理業務も終了だ」

 典礼官長官――聖務官、奏官、典礼騎士を束ねる最高司令官のことだ。

(つまり私の上司ってこと!?)

「まあ……」

 アトリーナの相槌は不審に満ちている。聞かされていたオルヴェイン像に当てはまらないからだろう。エルセリスだって信じられない。何かおかしな夢でも見ている気がする。

 そんなときに顔を覗き込まれて息が止まった。

(ひっ)

「エルセリス、大丈夫か? 具合が悪いのなら医務室に行くか、もう帰宅したほうがいい。帰るのなら送ろう」

「おっ殿下、早速上司らしい台詞ですな! ガーディラン聖務官、ここはお言葉に甘えて帰宅したらどうだ?」

「わ、私は……」

 帰りたい。いますぐこの夢から目覚めたい。でも送るってどういう意味だ?

 思考がどんどん壊れていくのを自覚できずにいたエルセリスが不用意に答えようとしたところで、アトリーナが腕を取った。

「そうさせていただきなさいな、エルセリス。閣下、わたくしが彼女を送っていきますからどうぞご心配なさらないでください。これから業務の引き継ぎや挨拶が続くのでしょう? お忙しいところに時間を割いていただくと、気にしたエルセリスはますます具合を悪くしてしまいますわ」

 オルヴェインは少しばつが悪そうな顔をした。

「そうか……わかった。フェルトリンゲン聖務官、頼めるか?」

「謹んで拝命いたします、閣下」

 にっこりと笑顔で応じたアトリーナに救われたエルセリスは引きずられるようにして職場を後にした。そうして「頭がはっきりするまで出勤しなくてよろしい」と彼女に言い渡されたこともあってから、帰宅直後から丸一日寝込むはめになってしまったのだった。

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