第1章

再会は望まないで 1

 白い帽子が引っかかった枝の先で不安そうに揺れていた。今にも降り出しそうな曇り空の下、同じように瞳を潤ませている帽子の持ち主は、木に登ったエルセリスの指先が白いつばにかかるとほっとした表情を浮かべた。

 エルセリスは帽子を手繰り寄せて胸に抱えると、下にいる彼女に声をかける。

「降りるから少し離れて!」

 彼女が下がったのを確認して地上へと飛び降りた。

「きゃっ!」

「あっ、と。ごめん。驚かせたね」

 エルセリスにとってはなんてことのない高さなのだが、木登りなどしたことのない令嬢ならそこから飛び降りるなんて危険きわまりないことなのだろう。安心させるように微笑んだエルセリスは彼女の乱れた髪を直し、埃を払った帽子をその頭に乗せてやった。

 白い頬がぱーっと赤くなり、瞳にぽうっと熱が灯ったようになる。それを見たエルセリスは頬が緩むのを感じた。

(やっぱり喜ばれるっていいなあ)

「あの、あの……」

「今日はもう帰った方がいい。風が強いからね。冒険心が強いのは素敵だけれど、散歩には向かない日だよ」

 それじゃあと立ち去ろうとすると声がかかった。

「エルセリス様! ありがとうございました!」

「さようなら、おてんばさん。天気がいいときにまた会えたらいいね」

 振り返って手を挙げたエルセリスは束の間目を瞬かせた。

(帽子……そんなにぶんぶん力強く振ると形が崩れちゃうと思うんだけどな?)

 まあいいか、と助けを求める人のように帽子を振り回して見送ってくれる彼女に最後に手を振ったところで、廊下の柱の陰に立っている友人を見つけた。

「あれ、アトリーナ。どうしたの?」

 アトリーナは新緑の宝石と呼ばれている瞳でちらりとエルセリスを睨んだ。

「出勤するところにあなたの姿が見えたから。相変わらずお優しいこと。木に引っかかった帽子を取るなら、その辺りにいる兵士や侍従に言えばいいことなのに」

「人を呼ぶより自分で取った方が早いと思ったから。それに彼女の喜ぶ顔が見たかったし」

 歩き始めながらエルセリスが言うと、アトリーナは首を振った。肩に流れる金の髪がきらきらと光を弾き、この天候では太陽の代わりのようだ。

「あなたの博愛主義って罪が深いわよ。さっきの子、絶対晴れた日に公署の前をうろうろするわ。『お弁当を作ってきたんですけれど……』ってね!」

「あ、それは困る。一応これでも聖務官だし、伯爵令嬢だから、よく知らない人からの食べ物の差し入れは断ってるんだよね。花とか刺繍したハンカチとかだったらいいんだけど」

「……本当に罪深いわ。これで顔がいまいちだったらこき下ろせるのに」

 忌々しそうに言うアトリーナはフェルトリンゲン伯爵令嬢、社交界の花の一輪だ。独身既婚関わらず貴族たちはみんな彼女に愛を告げるというだけあって、くっきりした目鼻立ちの、人形のように美しい顔立ちをしているが、表情と言葉に含まれる棘が痛いとも評判だった。けれどそれもまた彼女の魅力のひとつだとエルセリスは思っている。

 そんなエルセリスは薄く梳いた白に近い金髪に、絵の具を溶いたような水色の目をしている。アトリーナが言うのだから容姿は整っている方なのだろう。女性として甘くなく男性的に厳つくもない、嫌みのない顔という感じだろうか。

「でも一番罪深いのは、あなたをそんな風にした『彼』かしらね」

 意地悪な笑みを浮かべたアトリーナにむっとした。

「『彼』のことは言わないでくれる? いま思い出してもむかむかするんだから」

『お前を好きになるやつなんていない』

 かつて自分を引き裂いたその言葉を払拭するためにエルセリスは決意した。

『強くて優しくて美しい私になってやる!』

 誰からも認められるほど強くなって人を守れるものになり、困っている人を助けられる能力を身につけ、好感を持たれるように身綺麗にして所作を磨く。そうすれば自分を好きになってくれる人は必ずいるはずだ。

 その思いでさぼりがちだった礼儀作法や教養の習得に励んだ。その没入ぶりは乳母が涙を流して神に感謝するほどだった。

 そうしてエルセリスは思った。

 ――高みに行こう。誰も反論できないような立派な人間になってやろう。

 打ち込んだのは剣舞だった。

 当時から学んでいた剣をいちばんのものにするために費やした時間は数え切れない。師匠は厳しく、身体がぼろぼろになるまで鍛錬に励み、何度も吐いて土を味わった。だがその甲斐あって舞手として十分な技量が備わったと自負している。

 そんな様々な修行のおかげで、かつての悪童ぶりとはまるで異なる貴公子然とした女性になったエルセリスは今年で十八歳だ。昔の仲間とはいまでも交流があるけれど「すっかり変わっちまったなあ」とみんな口を揃える。エルセリスが聖務官になったことも理由だろう。

「まあ当時の『彼』の荒れっぷりは語り草になっているしねえ」

 直接関わりがなかったアトリーナでさえ『彼』の悪事は知っているという。

 某日。王太后陛下のベッドに冬眠中の蛙を放り込んだ。陛下が寝室に入られた頃、ちょうどよく温もって目を覚ました蛙が、覆いをめくった瞬間の陛下のお顔に張り付いた。その悲鳴は市街までよく聞こえたらしい。

 某日。某公爵夫人の日傘に何十匹もの毛虫を仕込んだ。傘を開いた途端に落ちた毛虫は証言によれば「モビールのようだった」そうだ。

 他にもお茶に苦い汁を入れて吹き出させたとか、足を引っ掛けて転ばせたとか、どこかの貴族の子弟と喧嘩をしたなど、枚挙にいとまがない悪事のせいでついに『彼』は追放されるような形で東にある学術都市に留学させられることになった。エルセリスが王妃陛下のお茶会に紹介されたすぐ後のことで、それきり彼とは会っていないし手紙も交わしていない。噂ではやっぱり悪いことをして周囲を悩ませているそうだ。

(『彼』がいまの私を見たらなんて言うだろう)

 額を出してまとめた髪を耳辺りから一部引き出してくるりと巻き、聖務官という公職についているため軍服を模した制服を身につけ長靴を鳴らして歩くエルセリスは、「以前の私とは違う」と胸を張ることができる。

 けれど、また『そんな格好をして好かれようとしても無駄』なんて言うのだろうか。ありありと想像できてうんざりした。

「いま『彼』に会ったらどうしようか考えたでしょう?」

「思ったけどもう考えない。私の人生にはもう関わりのない人だし。というか関わりたくないし!」

「博愛的で信じることが信条のあなたにはめずらしいわね、エルセリス。そんなに『彼』が嫌い?」

 エルセリスはきっぱりと言った。

「嫌いだよ。大嫌いだ」

 そうしているうちに公署に着いた。入り口を守る騎士たちに敬礼して名を告げる。

「《剣》の聖務官、エルセリス・ガーディランです」

「ごきげんよう、《声》の聖務官、アトリーナ・フェルトリンゲンですわ」

「おはようございます、ガーディラン聖務官、フェルトリンゲン聖務官」

 見知った顔なので笑顔で通してくれる。すれ違いざまアトリーナがそのふたりににこっと笑顔を振りまくのを見たエルセリスは(どっちが罪深いんだか)と斜め上に視線を逃して呆れの息を吐いた。

 その先の空には、首都に立つ封印塔が見えていた。


 神々の痕跡である《塔》と呼ばれる場所を数多く抱いた封印塔国のひとつ、マリスティリア王国には《聖務官》と呼ばれる特殊な役職が存在する。

 古い時代、この世界での神々の住まいは塔だった。

 やがてその神々が光の果てと呼ばれる地へと去っていくと、残された世界を巡って神の血を引く半神と人間との間で争いが起こった。無力な人間は半神たちの力の源でもあった塔を破壊することで戦いの終結を図った。結果、半神たちは力を失って消え去り、この世は人間の時代となったという。

 しかし塔を破壊することは人間にとって苦肉の策でもあった。塔の破壊は、そこに残っていた神の守護の力を消し去るということだったからだ。人々は魔物の脅威にさらされることになったが、《祈人》と呼ばれる右手に痣を持ったかんなぎが壊された塔の跡地に守護の力を宿したことで魔物を退けることに成功し、国々はひとときの平和を取り戻した。

 この守護の力を宿した塔は《封印塔》と呼ばれ、都市部には実際に建築物として存在する。

 ここに舞や歌を捧げることで守護の力を維持するのが、祈人――聖務官だ。

 右手のひらに花形の痣を持ち、それぞれの聖具を用いて浄化を行い、魔物や病、呪いを祓う祈人は、現代では国が抱える公人として保護されている。魔物や人に仇なすものたちから人々を守るためには、封印塔に宿る力を維持し続けなければならず、そのためには祈人たちやそれに準じる者たちの祈祷が必要だった。しかし地方では守護の力を宿らせることができないまま遺棄された塔は多数残っており、塔の影響下にない都市部以外では危険で暮らしていけないというのが現状だ。いまや聖務官は国に欠かせない存在なのだった。

 エルセリスの聖具は剣。アトリーナは声。エルセリスは剣舞を舞うことで、アトリーナは歌で儀式を成す。

 封印塔にはもう人の目に映らなくなった数多の神が時折やってくることもあり、祈人に応えて様々な奇跡を起こすとも言われているが、神を呼び寄せるほどの祈り手になるにはどれほどの時間がかかるのだろうとエルセリスは時々考える。

(どうすればそこに手が届く?)

 それはどんな祈りなのだろう。自分が舞うのだとすれば、どのように力強くて美しく鋭いものなのか。考えれば考えるほど形にならなくてもどかしい思いをする。つまりまだまだということなのだ。

 聖務官が勤めているのは典礼官公署だ。封印塔に関わる業務を行う者を典礼官と呼び、聖務官のほか、演奏や祈祷を行う奏官、武装を許された典礼騎士という役職がある。

 執務室へ向かっていると奏官の女性とすれ違った。

「おはようございます」

「おはようございます、聖務官。先ほど来月の勤務表をお持ちしましたのでご確認ください」

 ちなみに奏官は事務も負担してくれている。聖務官は身体を作ったり新しい舞や歌を覚えることを優先してくれと言われているが、首都勤務であるエルセリスは毎週日曜日に行われる礼拝を三人ないしふたりで交代に回しているだけになっていることがほとんどなので、なんだか悪いなあという気がしている。

(昔から身体を動かすのは好きだったし、結局好きなことが仕事になっちゃったからなあ。稽古の時間が十分に取れるのは嬉しいけど)

 練習時間が欲しいのは楽器演奏をする奏官たちも一緒だろうにと思うと感謝の思いが湧いた。

「いつもありがとうございます、助かります。いただいた時間を十分に使って、もっと剣舞の腕を磨きます」

「これが私の仕事ですから。聖務官のお手伝いができれば幸いです」

(わあ、いい人だあ)

 なんてことないときりりと言われ、嬉しくなる。

「では今度の剣舞はあなたのために舞います。日頃のお礼として」

 途端に彼女の顔は真っ赤になった。ローブ型の制服の広くなっている袖口で口元を隠してしまう。

「も、もったいないことです、聖務官……」

「そんなことはないですよ。人々の安寧の祈るための儀式なんですから、日頃の感謝を込めるだけです。たとえ神々がご覧になったとしてもお怒りになるときは、私の祈りが失敗したときでしょうしね」

「エルセリス様がお怒りを受けるはずがありませんわ! だってあんなに美しい祈りを奉じているのですから!」

 赤い顔をさらに上気させて熱心に言ってくれる彼女に、エルセリスは笑顔を返した。

「本当に? 嬉しいです。いつも見てくださってありがとうございます。だからあなたのために舞います。約束します」

 覗き込むようにしながら胸に手を当てると、奏官はこくこくこくと何度も頷いた。

「……エルセリス!」

「っと、アトリーナが呼んでいるのでもう行きます。それじゃあまた」

 先を行くアトリーナに追いつくと、今度の彼女はいまにも噛みつきそうな顔をしていたが、エルセリスがにこりと笑うとぷいと顔を背けてしまった。何を言っても無駄だと思われたのだろうけれど、このやりとりも毎回のことなのでアトリーナもよく諦めないなと感心する。

(だって私のすることで喜んでもらえたら嬉しいんだもの。昔みたいに心配をかけて乳母や母上に泣かれることもないし)

 別の意味で『どうしてわたしだけを見てくださらないの!?』と泣かれることはあるけれど、「ありがとう」と感謝を伝えたり、手が届かない荷物を下ろしたり雑務を手伝ったりとちょっとした親切が喜ばれるのは素直に嬉しい。そのおかげか、子どもの頃よりもずっと居心地がよくなった。

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