黄金色の欠片

吾妻栄子

黄金色の欠片

曽我そが君?」

 日差しはきららかだが、冷えて乾いた風に黄色やオレンジの落ち葉が舞う駅前の広場。

 横から呼び掛ける女の声がした。

 君付けで呼ばれるのは何年ぶりかと思いつつ声のした方角を振り向く。

「あ……」

 肩まであるオレンジ色の髪を緩やかに波立たせた、ピンクが勝った白い肌にそばかすの散った、人懐こい笑顔。

 確かに見覚えのある顔だが、名前が出てこない。

掛川かけがわ、さんだね」

 思い出した名を呼び捨てにするにはもう大人として距離が出来すぎている。

 一緒だった中学を卒業してからもう二十年目だ。

「久し振り」

 彼女がそう告げると、その隣に立っていた長身の男もにっこりと親しげに微笑む。

 黒髪だが、薄茶の瞳と彫り深い顔立ちで白人と知れた。

 この香水じみた甘ったるい匂いは彼女ではなく男から来ているのだろうか。

「婚約者なの」

 あれ、この人は四、五年前にカナダ人と結婚したと噂で聞いたけど、その相手とは離婚して別な相手と婚約したのか?

 ためらう内にも赤毛の彼女は笑って言葉を継ぐ。

「この前、ナディアにも逢ったよ」

 数年振りに耳にした名なのに、胸の奥がざわめくのを感じた。

「二人目の子が生まれたばかりだって」

「そうなんだ」

 あの子も結婚したとは人づてに聞いていた。

「じゃ、また」

 飽くまで笑顔だけを残して、甘やかな香りに包まれた二人が駅の構内に去っていく。

「またね」

 もう逢うことはないだろう。

 そう思いつつ、こちらも笑顔を作って手を振る。

 ふわりと風が吹き付けて、緋色の葉が一枚、コートの肩に纏いついた。


*****

 住谷すみたにナディアは中学校の三年間、同じクラスだった女生徒だ。

 お父さんは大学でロシア語を教えている学者で、ルーマニア人のお母さんは中学に入った時点で既に亡くなっているという話だった。

 お母さんが早くに亡くなってルーマニア語は出来ないとのことだが、お父さんが学者のせいもあってか成績は良く、特に英語や歴史はよく出来た。

 運動系の部活ではなく美術部に入っており、美術室の前の廊下には定期的に彼女の絵や版画が掲示された。

 どの作品にも「住谷ナディア」という下の名札を確認する前から、「多分、あれがあの子のだな」と一見して察せられる緻密さがあった。

 しかし、何より、彼女本人の赤味のない白い肌に、古風なフランス人形じみた端正な面差しはそれだけで人目を引いた。

 一方、焦げ茶色の髪をきっちり編み込んだお下げのヘアスタイルといい、装飾のない白のソックスといい、二十年前の地方の中学ですら既に古めかしい印象を与えた。

 他の女生徒たちに混じっても、住谷には等身大の西洋人形が戦前の女学生のコスプレをしているような違和感が漂った。

 笑顔や表情に乏しく、しかも女の子にしてはかなり低い声で話すので、単純にブスな子より却って不気味な感じもした。

 実際、あの子は暗い、苦手だ、と煙たがる同級生も決して少なくなかったのだ。

 うちの母親も授業参観で見かけた住谷を明らかにお気に召さない風だった。

「何だかハーフにしては、あの子、明るくハキハキした感じじゃないのね。やっぱり、お母さんが東側の人だからかな。昔からテレビで見てもアメリカの俳優やスポーツ選手はニコニコ笑ってるのに、ソ連だの東ヨーロッパの人はムスッとしておっかない感じだったし」

 それから家の中なのに声を潜める調子にして付け加えた。

「お父さんは学者だなんて言うけど、昔のソ連だのルーマニアだのに行って文学研究なんてやってた人は、大体、共産党のシンパだからね。赤旗なんて取ってるお宅の子じゃないの?」

 当時の自分には良く分からない話だったが、母親の口調と表情から、住谷とその家族が何らか避けるべき異分子として捉えられていることだけは良く分かった。

 それはそれとして、住谷は入学初日、さっき逢った掛川杏奴かけがわあんぬと廊下に並んで立たされた。

 アメリカクウォーターの掛川の方がルーマニアハーフの彼女より髪が赤いことで教師から責められた時、彼女は激昂した。

「ハーフやクウォーターでも色んな人がいるって忘れないで下さい!」

 正直、それが、住谷が人前でというか、自分の見ている前で感情を爆発させた最初で最後の場面だったように思う。

 普段の彼女は自分の斜め前(基本的に席は五十音順だったので彼女はいつも自分の斜め前だった)の席に座って、プリントを配る時でもなければいつも背を向けている。

 セーラー服の後ろ襟にはかっつり編み込まれた三つ編みのお下げが垂れていて、毛先だけがくるんと蝶の触覚のようにカールしている。

 この子、本来は天然パーマで解くとクルクルカールした髪型になるのかな?

 三年間、後ろの席に座って焦げ茶色のお下げ頭を眺めながら、よくそんな想像をしたものだ。


*****

「もしもし、え? 予約したのにまだ診察の順番も来てない? 分かったよ」

 スマートフォンをポケットに仕舞い、駅の構内に向かって何となく歩き始める。

 とにかくどこかで時間を潰そう。

 駅舎内のテナントの立ち並ぶ廊下を歩くとオレンジの照明や洋菓子のふくよかに甘い匂い、そしてふわりと暖かい空気に包まれる。

 思った以上に冷えた場所に長らく立っていたようだ。


*****

「ホットコーヒー、お持ちしました」

「ありがとう」

 窓辺の席なのでオレンジ色に暮れなずんでいく空が認められる。

 さっき立っていた広場には白々と街灯が点り始めていた。

 これから日が沈んでもっと冷え込むだろうからちょうど良いタイミングで移動したようだ。

 街路樹の山吹色の葉が鮮やかに街灯に照らし出されて揺れている。


*****

 あれは、ちょうど今のような黄葉の季節だった。

 この都会の今頃のような妙な生ぬるさのない、田舎特有の秋というより冬に片足を突っ込んだ気候だ。

 休みの日に何とはなしにテレビを点けると、外国の映画が流れてきた。カラーだが全般に黄ばんだ風な画面で古い映画だと分かった。舞台設定も古い。ドレスや軍服を着た男女が宮殿の舞踏会で踊るような時代だ。人々が口にする歌うような言葉はとりあえず英語ではないということしか分からない。

 と、怖いくらい澄んだ水色の目をした、艶のある髪を結い上げてすっくり細く長い首をドレスの襟から伸ばした女性が画面に現れた。

 これがヒロインだ。

 説明なしで見ても一目で察せられた。

「あら、リュドミラ・サベリエワ」

 台所からやって来た母親が驚いた声を上げる。

「これ、ヘップバーンじゃなくてソ連の方の『戦争と平和』ね」

 画面の中の女優は確かにハリウッド女優のような華やかな明朗さには乏しいが、もっと清純で繊細な空気に包まれている気がした。

 住谷に似ている。

 見続ける内に最初に感じた印象が否定しようとしても自分の中で固まっていくのを感じた。

 もちろん、この女優さんの方が美人だし、洗練もされている。

 住谷の目は日本人にもよくいる焦げ茶色で、この人のようなどこか人間離れした空色ではない。

 だが、画面の女優の姿には、住谷と本質的に似通った何かというか、住谷から雑多な要素を取り払って完成させた風な印象を受けるのだった。

“許して”

 字幕と共に画面で大写しになった彼女が語る。

 ロシア語のせいか、女性にしては低い声だ。

“私、嘘を”

 滑らかに白い顔の、混じり気の無い水色の瞳から透き通った粒が零れ落ちる。

 その様を目にすると、胸が熱く締め付けられた。

 恋人に語りかける場面のはずなのに、画面越しのこちらに呼びかけている錯覚に囚われる。

「もうご飯だからそのくらいにしなさい」

 母親の声で一気に現実に引き戻された。

「ソ連の映画なんて、今は滅多にやらないわね」

 何気なく付け加えた母親の言葉に胸が沈む。

 あの続きをまた見る機会はあるだろうか。

「リュドミラ・サベリエワも昔は綺麗だったけど、私らより上だから、もう随分な年でしょうね。ヘップバーンも死ぬ頃は鶏がらみたいだったし」

 あの女優さんも今はおばさんなんだろうな。というより、古い映画だからおばあさんの可能性すらある。

 今の姿を目にして幻滅したいとは思わないが、あの映画の、あの物語の続きなら見たい。

 自分の中ではまだ、あの水色の目のヒロインは涙を流してこちらを見詰めている。

 次の日は妙に寒かった。顧問の先生の都合でいつもより少し早めに部活が終わって下駄箱の近くで同じ部の仲間と何となく立ち話していた。

 テニス部はまだ近くのコートで練習中で、掛川がおかっぱの赤い髪を跳ねさせながら打ち合いをしている姿がはっきり認められた。

「あれ、クウォーターじゃなくて本物の外人に見えるよな」

 友達が笑って耳打ちする。

「そうだね」

 あの子だって可愛いし、人好きのする明るい子だ。

 むしろこちらを好きになる方が自然かつ妥当に思える。

 ふと目が合うと、掛川は人懐こい風に笑って返した。

 あの子は誰にでもああなのだ、別に自分に特別な感情はないと冷静な頭では知りつつそう悪い気はしない。

 自分も苦笑して頷いて付け加えた。

「あの子はアメリカンって感じだ」

 日本人のようなこせこせした陰湿さや偏狭さがない。

「住谷がロシアとのハーフだっけ?」

 振り向くと、友達は曖昧な記憶を探る顔つきをしていた。

「ルーマニアだよ」

 即答してから、そういう自分に戸惑った。

「俺はあいつ、苦手だな」

 自分でも声が上ずるのを感じる。

「普通、ハーフの子ってもっと明るくておしゃれだろ。あれ、普通の日本人よりだせえし暗いじゃん。お母さんいないらしいけど、何かヤバイことやってる家じゃないか?」

 想像の中であの固く編みこまれた焦げ茶の三つ編みをまた解く。

 振り向いた彼女はあの外国の女優のように潤んだ瞳をしているのだった。

 実際には自分にそんな表情を見せたことはないのに。

「だから嫌いだ」

 あはは、となぜか笑えた。

「あ……」

 目を見開いて固まった友達の声に振り向くと、お下げ髪のフランス人形じみた彼女の眼差しにぶつかった。 手には水彩を溶いたパレットとバケツを持っている。美術部ももう片付けの時間帯だと今更ながら思い当たった。

 先に視線を逸らしたのは彼女だった。

 無言のまま体操着の背が遠ざかる。

 後姿になると、腰の高い、脚の長い、東欧の体操選手じみた体型がいっそう目立った。

 白い手に提げたバケツの中で揺れる黒い水がまるで底なし沼のように見える。

 黄金色の葉が音もなく目の前を舞い落ちた。

 それから日暮れの迫る帰り道を自転車で走らせながら、ずっと反芻し続けた。

 あの子、驚いた風でも傷ついた様子でもなかったな。

――どうせ、そんな陰口を叩く浅はかな人間だと思ってた。

 振り向かない体操着の背中はそう告げていたように思えた。

 多分、あの子はこれまでも自分の生まれについて無神経な言葉を投げつけられたことが何度もあったのだ。

 俺もそんなつまらない、心ない人間の一人でしかない。

――あんたに嫌われてたってどうでもいいよ。

――私にとって端からその程度の存在。

 胸の中に黒い底なし沼がサーッと広がっていく。

 鈍く重い痛みを伴いながら。

 相手を侮辱して傷付けたのは自分なのに、相手から罵倒されたより胸が苦しい。

 恐らく、あの話を聞かれなくたって、彼女の視野に自分はいなかった。

 だから、俺ももう気に懸けるのは止めよう。そう自分に言い聞かせた。

 だが、ふとした拍子にかっつり編み込まれた三つ編みの、くるんとカールした毛先が脳裏に蘇っては胸の奥を突き刺すのだった。

 その後も彼女の態度は変わらなかった。顔を合わせれば他の相手にもする風に挨拶する、用向きがあれば淡々と告げる。そこには恨みや傷心も滲まない代わりに、好意や興味も匂わせない。

 卒業後は顔を合わせる機会もなく、自分も彼女も地元を離れて別々の土地に進学・就職した。


*****

 窓ガラスの向こうはすっかり夜に切り替わっている。昼間はまだ紅葉の眺めなのに、夜になるとクリスマス仕様のライトアップが目に付く。

 都会では気候は生ぬるくても、街の装飾はさっさと季節を先取りしてしまう。

――この前、ナディアにも逢ったよ。

 ふと、掛川の言葉が蘇った。

 それはこの付近での話なのだろうか。

 住谷は案外、自分と近いところで暮らしていて出くわさずにいるだけなのだろうか。

 多分、あの事件がなくても、自分と彼女が付き合ったりすることは有り得なかった。あちらは自分に好意も関心も無かったのだから。

 もしかすると、彼女にとっては「事件」というほどのインパクトもなく忘れ去っているかもしれない。自分という同級生の男子生徒の存在ごと。

 中途半端に残っていたカップのコーヒーを飲み干す。

 飲み下したコーヒーの残りはすっかり冷めて苦味だけが強く残った。

「お待たせ」

 声と共に肩を叩かれて初めて相手が来ていたことに気付く。

「ああ」

 今日から着始めた冬用の白い厚地のコートを着た妻の真央が何となく他人に見えた。

「どうだった?」

 半ば答えを知りつつ尋ねる。

「やっぱり妊娠してた」

 自分にとっても喜ぶべきはずなのに、さっきまでは心待ちにしていた報せのはずなのに、何故か相手の笑顔が遠く思える。

「今日で分娩予約までしてきたから遅くなったの」


*****

「予定日は七月十七日だから、その通りに行けば家族全員夏生まれだね」

 夜を迎えてますます込み合う駅の中を歩きながら、自分の腕を取る真央は楽しげに笑う。

 十歳下の彼女は、元は職場の部下だった。

 自分が中学生だったあの頃は、真央はまだ四、五歳だった。そう思って眺めると、二十五歳にしても幼い顔がいっそう無邪気に見える。

 こいつは強いて人形に例えるなら、笑顔のこけしだ。彫りは浅いが険が無く、いつも柔らかに笑っている風な表情だ。

 自分が今、胸の奥に抱えている痛みとは切り離された場所に相手がいるのだと思うと、少し物足らない一方で、どこか安堵も覚える。

 何だかんだ言って真央の方が住谷より十歳も若いし、気立てだって明るい。

 客観的に見て、少女時代の延長の住谷より今の真央の方が妻としてはずっと良い相手に思えた。

 大体、自分と同い年だから住谷ももう三十五歳。はっきり言えば、おばさんだ。今は二人も子供がいるらしいから、あるいは今日逢った掛川より老け込んでいるかもしれない。白人の血が入っているなら尚更だ。

 ああいう気難しい、陰鬱な面の強い女性と一緒になったところで、長い目で見ればこちらにとって苦痛の方が多かったに違いない。美人だとか何とか言ったところで、そんなものはパートナーとして長く一緒に暮らす上での魅力にはなり得ない。

 三十五歳にもなれば、そうした現実も透けて見えるようになるのだ。

「子供の名前、考えないとね」

 隣からまだほんの少女めいた声がする。

 真央はいわゆる「玉を転がす」ようなソプラノだ。

「そうだなあ、女の子なら」

「ナディア」では露骨過ぎるし、何より純日本人の名としておかしい。

「アンナ、とかどうかな?」

 掛川は「アンヌ」だから、そちらとも被らない。

「アンナ、ねえ」

 真央もピンと来ないようだ。

「後はマリアとか」

 これもクリスチャンでもない俺らの子には相応しくない気がする。

「ユリとかどうかな?」

 真央が思い切った風に切り出す。百合の花が好きだから、もしかすると、前々からこの名にしたかったのかもしれない。

「ユリも良さそうだね」

 頷きつつ、自分としては何かが食い足りない。

「でも、ユリだとそのまま過ぎるから、ユリカとか下に付けた方がいいかな」

 真央が下腹を撫でながら問い掛ける風に語る。その様子を見ると、まだ性別も分からないのに、何故か女の子が生まれてくる気がした。

「ユリカちゃん、か」

 悪くないけど、自分の中ではやはり何かがしっくり来ない。

 視野の中で改札が近づいてくる。

「ママ、こっち!」

 不意に甲高い声が耳に飛び込んできた。

 行く手に真っ直ぐな黒髪の前髪を垂らし、後ろは三つ編みのお下げに結った、四歳くらいの女の子が手に持ったテディベアを振っている。

 黒髪黒目だが、目の大きな、彫り深い顔立ちだ。

 ハーフかクウォーターかな?

 手にしたテディベアもハーメルンの笛吹きみたいな衣装を着せられて舶来品じみている。

「ユリアはどうかな?」

 生まれてくる子はさておき、あの女の子には相応しい。

「ユリア?」

真央が苦笑いして聞き返す。

「何だか『北斗の拳』みたいじゃない?」

「あっちには多い名前みたいだよ」

 ロシアのスケート選手とかウクライナの首相だかにもそんな名の人がいた。

 テディベアを抱いた女の子が怪訝な顔つきで大きな瞳をこちらに向けている。

 白人的な小さい子って整ってるけど真顔だと可愛くないな、大人びた険しさが見える。

 そんなことを思いつつ、真央を守るようにして改札を通り抜ける。まだお腹は目立たないが、とにかく危険には気を付けなくてはいけない。

百合亜ゆりあ!」

 振り向くと、改札の向こうで焦げ茶色の波打つ髪を後ろで一つに束ねた母親がベビーカーを引いてやってくる所だった。

 テディベアを抱いた娘の頭を撫で、低いが温かさを含んだ声で続ける。

「そっちには行かないよ」(了)

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黄金色の欠片 吾妻栄子 @gaoqiao412

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